隣の家の犬が死んだ
隣の家の犬が死んだ。
その事を知ったのは、死んでから二週間ほど経った今日だった。
僕は実家から遠く離れた東京の大学に通い、一人暮らしをしている。
昨日の夕方、バイトの最中に母から電話があり、バイトが終わると僕から母に電話を掛けなおし、
母から祖夫が入院したとの話を聞いた。
そして、電話を終えた後、急いで飛行機のチケットをネットで購入し、朝一番の飛行機に乗って、今朝地元に帰って来たのだ。
急遽パートの予定を変更してもらった母と、空港のロビーで顔を合わせると、
「大袈裟よ。おじいちゃんはただの検査入院だから。二日間だけの入院よ」と少し微笑みながら僕に言ってきた。
「それは昨日電話で聞いたよ」と僕は真顔で返した。
先日、祖父は、かかりつけの病院の検査で、肺に少し影が見えるとお医者さんから言われたみたいだった。
空港から母が運転する車を走らせ、見慣れた風景の中を通り、30分ほどで祖父が入院している市立病院に到着した。
僕はそこで入院している祖父と久しぶりに会った。
いざ顔を合わせると「おぉ。久しぶりだの」」と祖父は言ってから、
「お前は大袈裟だ」と微笑みながら言われた。
僕はその時、「流石、親子だな」と思ったし、祖父の変わらぬ様子に一安心できた。
その後、祖父はベッドに横になりながら、僕に向かって「わざわざすまんの」と言った。
「そんな事言わないでよ」と僕は言いたかったが、ただ無言で頷いた。
僕はベッドの上にいる祖父を見て、病院から借りたその検査服を早く脱いでもらいと思った。
身体が丈夫な事を、僕が小さな頃から自慢していた祖父には、似合わない服だったからだ。
お昼過ぎに、僕は実家に戻った。
今年の正月は地元にも戻って来なかったから、最後に実家に帰ったのは去年の夏だった。
その時は、家族にちょっと顔を見せただけで、あとは地元の友人と遊び、友人宅にそのまま二泊し、飛行機に乗って東京に戻ったのだった。
だけど、今日はこのままトンボ帰りするのではなく、実家で一泊する予定にしていた。
僕は病院の帰りに寄ったコンビニで買った弁当を、今では懐かしさを感じる食卓のテーブルで食べていた。
その時、
僕は「また隣の犬が吠えてるね」とボソッと母に言った。
母は怪訝そうな表情を見せてから、「隣の犬は二週間前に亡くなったわよ」と言った。
僕はさっき、確かに隣の家の犬の鳴き声を聞いたのだ。
昔から聞いていたあの鳴き声を。
「空耳じゃない?」と母は言った。
隣の家の飼い犬の名前はマロンだった。
僕が実家にいた頃、隣に住む松下ご夫妻が、外飼いしていたマロンの名を呼ぶ声が日常的によく聞こえていた。
外飼いしていた場所は松下家の裏庭、それもウチからは死角になっている庭だった。
その為、マロンの姿をいつも見ていた訳ではなかった。
正直に言って、僕はマロンの事をあまりよく知らない。
マロンは狼のような毛色をした中型犬で、多分雑種犬であった。
今思えば、オスかメスかの性別も分からないままだった。
それにお隣さんがいつからマロンを飼い始めたのかも定かではない。
僕のマロンにおける知識はそんな有様であった。
だが勿論、マロンの姿を何度も遠くから見た事はあった。
しかし、なぜ遠くからなのかと言えば、
母は犬が苦手な為、マロンの散歩をしている松下さんと立ち話する時は、
マロンから常に一定の距離を保っていた記憶があった為、
犬が苦手ではない僕も、マロンとの距離感は自然と母と同じようなものになっていたからだ。
僕がマロンを散歩している松下さんと道端で会い、挨拶をする時は、松下さんの顔を見て、マロンの存在はチラっと見るぐらいのものだった。
「おかえりって言ったんじゃない?」と母は言った。
「そんなわけないでしょ」と僕は言って、コンビニの弁当を食べ進めた。
さっきも言った通り、僕らはそんな仲ではなかった。
マロンの方は、僕を認識していたのかも危ういぐらいなのだ。
しかし、僕はマロンの鳴き声を聞いたのだ。
「ワオーン」と何を求めているのかが分からない、あの懐かしい声を。
夜が近づいてくると、僕は一度、リビングから二階にある自分の部屋に戻った。
大学に出て、一人暮らしをしてから、
実家の部屋に戻り、一晩過ごす事ことなんて随分久しぶりの事だった。
思えば去年の正月以来かもしれない。
電気を付けた部屋の様子は、ぱっと見では、慣れ浸しんだあの部屋のままだったが、
六畳のこの部屋は既に物置のような扱いになっており、クローゼットの前に知らない段ボールがいくつか重ねて積んであった。
僕はそれを目にした後、何万時間と横になったはずのベッドの上で、久しぶりに体を休めた。
すると、少し埃が舞ったのがわかり、
次に、ベッドのスプリングが昔より硬くなったような気がした。
ベッドはもやは僕の身体の形状の記憶を忘れているようだった。
僕は蛍光灯が点いた部屋の中で目を閉じる。
すると一階から母が台所で料理をしている音が鮮明に聞こえてきた。
相変わらず、ガシャン、ガシャンと豪快な音を立てていた。
それはあの頃と変わらない、大雑把な母が出す、いつもの音だった。
僕はまだ目を閉じている。
すると、今度は誰かが帰って来たみたいで、
母は誰かと話をしている。
おそらく、思春期真っ最中の5つ年下の弟だろう。
僕は耳を澄ませる。
弟の声は、声変わりで低くなり、父の声に近づいていた。
僕のことを「お兄ちゃん」と呼ぶ、あの頃の弟の声とはもはや違う声だった。
時間の経過とともに、あのか細く高い声は、もう失われたものになっていた。
すると、母が、
「晩御飯よー」と二階にいる僕に向かって呼んでいるのがわかった。
僕は目を閉じたまま、「はーい」と天井に向かって返事をした。
母の声は昔から聞いたあの声のままだった。
その声はなぜか僕を温めてくれた。
今日、僕は4つの声を聞いた。
変わらない声。
どこか元気がない声。
変わった声。
失った声。
僕は目を開け、窓に取付けられたカーテンに目をやった。
見ていたのはカーテンではなく、その奥にあるものだった。
マロンはこの時間帯に吠える事が多かった。
多分、松下さんの帰宅時間がこの時間帯だっただろうから。
僕はもう一度、マロンの吠える声が聞こえてくるのを強く願った。
だけど、そのまま数十秒経っても、外は相変わらず無音のままだった。
すると、
「早く食べないと冷めるわよー」
と再び二階に向かって呼ぶ母の声が聞こえてきた。
僕は反動を使ってベッドから降り、
部屋の電気を消し、
賑わう音がする方へと、足を進める事にした。
その時、丁度、父が帰って来たようで、
「ただいまー」と
懐かしい声が玄関から聞こえてきた。
僕は「おかえり」を言う為に、咳払いを二回程し、
まずは玄関に向かうことにした。
読んでいただき、ありがとうございました。
誤字脱字などがあれば、教えてもらえると嬉しいです。