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デブ猫

作者: 三笠佳

たぶん自分の書く最後の私小説のような気がします。

 アラームの音で目が覚める。枕元で鳴り続けるスマホを手探りで探して、アラームを解除する。スマホの画面には、昼の十二時ちょうどであることが示されていた。どうしてこんな時間にアラームをセットしていたのか。寝起きの混濁している頭の中で考える。今日は土曜日で仕事は休みのはずだ。もうひと眠りできそうだと、瞼を閉じようとした寸前に思いだした。今日は十三時半に新大阪駅近くのクリニックで健康診断を受ける予定だった。健康診断の受診は会社からの指示だ。

 私はどのような種類のものであっても病院というものは嫌いで、たとえ健康診断だけであっても病院へ行くことを考えると気が滅入った。病院という場所に勤める連中に共通の、あのやけに無愛想な態度が苦手だ。実際、今日は朝から虫歯の治療の為に歯医者に行って来たのだった。そして受付の無愛想な若い女とのやり取りの為にすっかり気分を損ね、そのまま不貞寝をしていたところだ。

 受付の女はとにかく表情が乏しく、声もやけに小さかった。支払いの時にぼそぼそと何か言われたが、何と言ったのかが即座に理解出来なかった。早く答えろと言わんばかりに女はこちらをじっと見続けていた。しばらく考えて、女が何かを言う時に卓上カレンダーを一瞥したことから推測し、ようやく「次の予約はいつにされますか」と言ったのだろうと気が付いた。

 私の病院嫌いの原因は応対してくる者の態度だけかと考えると、違うような気もする。自分の身に起こっている症状を説明するのが苦手なことに原因があるのではないか、と考えてみる。どこが痛いとか、どのような違和感があるということを手応えのある言葉にして誰かに訴えることは難しく感じる。言葉をつまらせながら、懸命に症状を訴える自分を見る医者の表情は随分と白けている。黒板に書かれた数学の問題の途中式をどこかで間違えたまま回答を続ける生徒をじっと睨む先生みたいな、そういう意地悪そうな眼差しなのである。

 たとえ正確に症状を伝えられたとして、いざ医者が私を診察しようとする時、懸命に訴えた症状は身体のもっと奥底にひっこんで姿を隠してしまうのだ。すると医者は症状にはちっとも気が付かない。そして「なんでもありませんよ」と言われる時の恥ずかしさはなかなかに耐えがたいものである。そんな時は、まるで狐か狸にでも化かされていたのかもしれないな、と真剣に考えてしまいそうになる。だから病院は嫌いだ。行きたくない。それに病院に行ったところで、私の抱える不具合など何一つ改善はされない。あの時もそうだった。


 数年前まで、私は酷い頭痛に悩まされて頻繁に嘔吐している時期があった。

 その日も頭痛を訴えて、ほとんど身動きが取れなくなるほどに状態が悪化した。頭の中で何かの硬質な塊が膨張して頭を外へ押し広げようとしているような鈍い痛みだった。当時は就職もせずにアルバイトを続けているせいで、いつまでも安っぽいマンションに母と二人暮らしの私は、母以外に頼る人がいなかった。運転免許を持たない私に代わり母の運転で近くの総合病院へ向かった。途中、車の揺れで再び吐き気を催して、用意していたビニール袋へ嘔吐した。吐き出したのは、ほとんど液体ばかりだった。口の中にわずかに残った酸っぱいものは、唾液と一緒に飲みこんだ。

 しばらくして病院の看板が見えた。ところが病院の駐車場が近づくと、あろうことか母は入口を素通りしてしまった。母は車の運転が上手くない。母にとって目的地の病院の駐車場は入りにくいものだったらしい。結局、車を駐車場へ入れることはできず、自宅へ戻ってきてしまう。徒労である。母はしきりに謝ってきたが、そんなことはもうどうでもよかった。病院へ行かずに、ただじっと家の中で寝そべっている方がよほど頭痛を抑える効果がある気がした。だが、母は何としてでも私を病院へ連れて行こうとした。少し遠いが自宅から歩いて行ける距離にも診てもらえるところがあると説得を繰り返してきた。そこまでされてしまうと断りづらいもので、「一人では危ないから一緒に行こう」という提案も併せて承諾した。

 しかしこれは断っておくべきだったとすぐに後悔する。連れて行かれたのは小児病院だったからだ。歩いて行ける距離にある病院はここしか無いと母は言ったが、だからと言ってそこは大学も卒業した二十二歳の男が母親に連れて来られる場所ではなかった。まごつきながら「ここ小児科ってなってるやん。あかんのちゃう」と訊く。出来るならこのまま踵を返して自宅に戻ることを期待した。だが返ってきたのは「内科って書いてるし大丈夫やで」という言葉だった。たしかに看板には内科という文字も確認できた。私が診察をしてもらえないことを心配していると勘違いしたのか、母の声はまるで「そんな心配はいらない」、「もう助かったから安心だ」とでも言いたげな快活としたものだった。そう言う母の顔には何の迷いも見られずに、幾分かの明るいものが見て取れた。私はナゲヤリな気分になった。どうにでもなればいいという思いで小児病院の玄関をくぐる。

 真っ先にパステルカラーのソファが目に飛び込んだ。いかにも小児向けの待合スペースのことを、もはやいちいち気にかける気にはなれなかった。夜の八時に近い時刻で、待合スペースには他の患者の姿は無かった。

 受付を済ませるとすぐに診察となった。やはり、医者はにこりともせずにこちらの訴えを聞いていた。それからいくつか質問をされ、聴診器を当てられた。そして「特に悪いところは無い」と、そういう意味の言葉を告げられたのである。もちろんそんなことは分かり過ぎるほどに分かり切っていた。わざわざこんな所にまで来た以上、知りたかったのは、私を苦しめる頭痛の原因だった。すると医者は、頭痛の原因として稀に頭の中に腫瘍があるとか、早急な手当てが必要な場合があると説明した後に、別の病院の紹介状を書くと言い出した。そんなに心配なら脳神経外科にて原因を調べて貰って来い、とそういうことなのだろう。紹介されたのは大阪市内の病院だった。


 後日、指定の日時に紹介された病院へ診察を受けに行った。

 九月になっても暑い日が続いていて、最寄駅から病院までの道程が、実際よりも長く険しく感じられる。アスファルトからの照り返しが不愉快だった。

 頭痛は感じていなかった。まるで事前に打ち合わせでも済ませてあるかのように、今日に限って頭痛はどこかに姿を隠していた。

 私は普段、病院へは行きたがらず、紹介状を書いて貰って診察を受けるということも初めてだった。病院の仕組み自体に慣れていない為に、一階の総合受付で紹介状を見せて受付を済ませた後は、脳神経外科の診察室前の待合スペースで名前を呼ばれるのを待っていれば良いと思い込んでいた。時間も指定されている訳だし、それで特に問題は無いと思っていた。指定された時間まではあと五分ほどだった。

 天井から吊るされたテレビを観ながら時間を潰す。私の好きな初老の俳優が関西弁を話しながら番組のメインキャストである落語家と共に北海道の街を歩いて回るというだけ内容が放送されていた。何も考えずに観続けた。

 しかし、番組が終了する時間になっても、名前が呼ばれることは無かった。かれこれ三十分、あるいはもっと長い時間が過ぎているはずだ。不自然に思って、先ほどから患者の名前を呼ぶ作業を繰り返している看護師の中年女性に声をかけた。紹介状を貰って診察を受けに来たこと、指定された時間からもう随分と時間が過ぎていることを伝えた。

 すると「受付は済ませましたか」と訊かれる。一階の総合受付にて済ませてあると伝えると、ここの脳神経外科の窓口でも同様に受付を済ませる必要があると言われた。

 ……どうしてこう、何度も何度も手続きが必要なのだろう。つまり先ほどまでの時間は全て無駄だったことになる。自分のマヌケを呪った。同時に、受付も済ませないまま診察室前の長ソファに座って長時間ぼうっとテレビを観続けている男に、たった一言も「受付は済ませましたか」と尋ねることもせず、必要な仕事だけを淡々とこなし続けていた目の前の看護師のことを随分と不親切な奴だと思った。それから五分と経たずに診察室へ入るように声がかかった。

 通された診察室に待っていた医者は、やはり無愛想な中年男性だった。眼鏡の奥の瞳には陰険な色を宿している。ここでも懸命に頭痛と嘔吐のことを話した。また、小児病院で紹介状を書いてもらった際に、脳神経外科に行くまでの期間、頭痛の頻度や痛みの程度をメモに残しておくよう言われていたので、忠実に言いつけを守り、メモを持参していた。てっきりそういうことも質問されるのだろうと思っていたが、医者は特に関心も無いような様子でCT検査の説明を始めた。なんだか肩すかしを食らったような気分で、ショルダーバッグの中のたった一枚のメモ用紙がずっしりと重たくなったように感じた。

 結局、CT検査の結果、頭部には何一つ異常は見られないとのことだった。医者が輪切りされたチャーシューみたいな私の頭部の画像を見せながらつまらなそうに説明を済ませると、私は唐突に恥ずかしくなった。小児病院の医者に言われるままに診察を受けに来たわけではあるが、傍から見れば私は大した病気でもないのに、まるで自分が大病であるかのように勘違いをして大騒ぎし、結果悪いところは何も無いという、人騒がせな人間なのである。医者は止めの一手を指した棋士みたいに、これ以上何もする必要が無いと言わんばかりに待ちの姿勢となった。気まずさを誤魔化したくて思いついた言葉を口にする。

「肩こりが頭痛の原因になることってあるんですよね? 昔から肩こりが酷くて。それじゃあ自分の頭痛の原因って肩こりなんですかね?」

「じゃあそうなんじゃないですか」

 やはりつまらなそうな表情のまま医者が答えた。

 私は逃げるような足取りで、診察室を出た。それと同時に、頭が痛くなってきた。


 病院が好きであろうがなかろうが、会社からの指示である以上は、健康診断をすっぽかすわけにはいかないことは分かっている。それでも、そろそろ動きださなければ本当に間に合わなくなるという時間が迫っても、やはり気分が乗らないことも事実だ。

 私は常に眠気を感じて欠伸ばかりしているような怠け者で、仕事が無い日には、一日中でも布団の中で横になっていられるような性質である。だからこそ今朝歯医者から帰ってきた後も、もう一度布団にもぐり、ずっと眠り続けていられたのだ。なんなら毎日を布団の中で過ごしてみたいとさえ本気で思う。生きがいだとか、目標だとか、自己実現だとか、そういう熱っぽいものはちっとも必要無くて、ただ毎日を寝て過ごす。そういう日々を全力で夢見ている……。

 ようやく布団を抜け出すと、大急ぎで歯を磨いて、顔を洗って準備を済ませた。髪の毛はドライヤーで寝癖を取る程度。普段はヘアアイロンで動きをつけたりするのだけれど、健康診断を受けに行くだけで懸命に身なりを整えるなんて馬鹿げている。ただ、私の髪は顔の輪郭をすっぽり覆ってしまえる程に長く、見ようによっては散髪にも行かない不潔な奴にも見えそうだ。今の会社に就職してからは、髪の毛を伸ばすようになっていた。


 昨年の夏、私はまだコンビニのアルバイトを続けていた。そんな中、母が病気をきっかけに長年続けた事務員のパート仕事を辞めることになった。そのため経済的事情や自分名義での保険加入の必要性から、急遽、ハローワークに出かけて正規雇用先を探した。普通運転免許はおろか特別な技能も資格も一切持たず、出来る仕事は限られている。「土日休み」「事務業務」に絞って検索した。その結果、偶然目に留ったというだけの理由でいったい何を生業としている会社かさえ碌に調べず面接を受けに行き、採用の知らせを受けた。会社は人材派遣会社で、仕事は府外にある大手製造業の子会社へ出向という形になった。こういう働き方を特定派遣と言うらしい。そんな言葉は全然知らなかった。採用された時は、てっきり採用面接を受けた場所で働けるものだと思っていた為に、全く別な場所に働きに出るというのは、まるで島流しの刑に処されたような気分だった。もしもこれが島流しの刑だとすれば、私の罪状はどのようなものなのだろう。

 工場に併設された事務所で働いていると、外回りの仕事も無く、特別模範的な髪型というものは無く髪型は自由だ。ただ、職場の人たちから髪が長いと言われることは多い。雇用元の派遣会社の担当営業者からは「ヤン毛やん。そんな髪型流行ってないで」と言われた。「ヤン毛」という言葉は知らなかった。だが少なくとも言葉には否定的な意味が込められていることは言葉のアクセントで分かった。

 何も流行り廃りを気にして髪型を選んでいるつもりは微塵もない。どちらかと言えば営業担当者のポマードで固めたテカテカのまるでAV男優みたいな髪型の方がよほど流行っていないように思えた。

 私が髪の毛を伸ばしているのは、男性的な髪型を好まないからだ。とはいえ女になりたい訳でもない。聞きかじった「ジェンダーレス男子」とかいうものに感化された訳でもない。

 ただ「男はこうあるべき」という考え方が鬱陶しくて堪らなかった。性別だけを根拠に他人に何かを決められるのは嫌だ。

 なるべく男のステレオタイプから外れた髪型をすることは、極めて重要なことだった。せめて外見から「男らしさ」、「男のあるべき姿」を少しでも排除することはささやかな抵抗運動であり、「私に模範的な男らしさなんか期待するな」という意思表示だった。だから外見のことを「まるで女の子みたいだ」と言われた時には、「男っぽさ」を排除できているという手応えに、妙に嬉しくなってしまうのである。たとえそれが「オカマみたいで気持ち悪い」という意味の悪口だったとしても。

 中学三年生まで一人称が自分の名前であり、それを同級生から「男のくせになんで?」と言われたこと。就職面接時に事務仕事を希望していると伝えた際、「男の人なんだから、ずっと事務やってるわけにもいかないでしょう」と言われたこと。そういうことの全てが理解できなかった。何がいけないのだろう?

 模範的な男なんてフィクションの生き物だ。

 そして多様性の尊重だとか、男女平等だとか、そういうリッパな考えは、ちっとも社会に浸透していないことを思い知る。私が世間に求められることは徹底して「大人の男らしい格好をして家庭を守るために一生懸命働け」ということだけだ。しかし、私が働き手として役に立つかどうかはまた別の話である。もともと注意力の足りない私にできる仕事と言えば、内容を間違えた書類を作成する、請求書の送付先を間違える、会議や朝礼で居眠りをする……、そんなことばかりだ。要するに私はあまり役に立たない。


 服を着替えて一通りの準備が出来た、そう思った直後に、検尿のことを思い出した。自宅に郵送されていた検尿キットで健康診断当日の朝の尿を採り、持って行くように指示されていた。別段尿意は感じないけれど、検尿キットに同封されていた折り畳み式の紙コップを手にトイレへ向かう。懸命に気張り、皮を被った頼りないモノの先端から、何とか微量の尿が出た。全て紙コップの中に溜まった。たったこれだけの極僅かな尿で採尿の容器はいっぱいになるのだろうかと心配したが、実際、容器は満タンになった。蓋を閉めて手に持った容器は生温かい。ついさっきまで身体の中にあった液体にも関わらず、既に尿は汚いものだった。こんなに汚いものでさえ何かの役に立つということが不思議で堪らなかった。

 尿が詰められた容器は、密閉できるビニール袋に入れたところで、ショルダーバッグに入れることには抵抗があった。最後にクリアファイルに挟んであるA4サイズの健康診断の通知書をファイルごと折り曲げて入れた。これが受付に必要だと説明が書かれていた。


 予定していた電車には間に合った。だが、急ぎ気味に準備をした為に、読みかけていた文庫本を持ってくることを忘れてしまった。仕方なくスマホでニュース記事を読みながら、目的の駅までの時間を潰そうと思った。けれど、ニュース記事を読むと言ったって、政治にも経済にも科学にも疎く、芸能にもスポーツにさえそれほど関心が無くて、読もうと思える記事はほとんど無かった。本はよく読むけれど、読み物ならなんでも好きという訳ではない。面白いと思う本があるから読むだけだ。興味の無いものは読めない。

 以前、仕事を早く覚える為にも専門書を読むように勧められた時、「本好って言ってたやろ、ちょうどいいやん。読めるやろ」と言われた。だが仕事内容には特別関心があるわけではないので、好んで読みたいなんて思わない。むしろ「必要な本だからつべこべ言わすに読め」と言われた方がよほど読もうという気になれたのに。本を好きな人間は本ならどんなものでも見境なく読む奴だと思われているのだろうか。活字なら何でも喜ぶと思われているのだろうか。そんな奴はまるで、男なら誰でも構わないとして必死に淫行に及ぼうとする痴女みたいじゃないか。そんな変態みたいな奴、いるわけがないじゃないか。あれはフィクションの生き物だ。

 やがてやることも無くなって、窓の外の風景を眺めるようにした。流れる景色に面白いものは見つからなかった。ぼんやり雲を眺めていれば時間は勝手に過ぎて行く。それだけで充分な気もした。


 二度の乗り換えを経て、新大阪駅に到着する。電車を降りて改札口へ向かうと、改札の多さに困惑してしまう。正面口、北口、西口、東口……。いったいどの改札から出れば良いのだろう。考えたって無駄だ。目的地のクリニックをスマホで検索し、ホームページの「アクセス」という所を確認した。だが記載されているのは「最寄駅が新大阪駅」ということだけだった。どの改札口から出ればよいのかは一切記述が無かった。これには困り果てた。瞬間的に腹が立って、スマホを地面に投げつけてやりたい気分になる。頭が痛い。とりあえず思いつくままに一番近くの東改札から外に出た。

 しかし、衝動的にくぐり抜けた改札は目的地のクリニックへ向かうには最も遠い改札だったようだ。冷静に考えてみると、地図では駅の左側にクリニックが位置している、つまり西側だろう。だとすれば東改札から出るというのは大きな間違いである。どうして行動を起こす前に気が付かなかったのだろう。

 だんだんと時間が消えていく。もうどちらへ向かって歩けば正解なのかはさっぱり分からなかった。どの道がどこへ繋がるのか、まるで想像が及ばない。建物内を歩く周りの人たちの歩みにはちっとも迷いは感じない。迷わずに目的地へ辿り着く、たったそれだけのことが「スゴイこと」に思える。私はいつだって迷子だ。


 結局、十分に余裕を持って駅に着いたはずなのに、最後の詰めでヘマをやらかした為に、走らなければ予約の時間には間に合わなくなっていた。

やがて大きな道に出た。道に沿って大きなビルが林立している。

 「なんでこんなことをしているんだろう」ふとそう思った。健康診断へ向かう為じゃないかと心の中で自答する。それじゃあ、健康診断がなぜそんなに重要なのだろうか。……それは分からなかった。

 ただ一つ分かることは、会社が実施する健康診断は、「検品作業」ということだ。雇っている人間が今後も使い物になるのかどうかを調べる為に行うのだ。要するに私は「こいつはまだまだ働かせられるぞ」という太鼓判を押される為に診断に向かい、おまけに血まで抜かれる。そんなことの為に自分の尿を詰めた容器が入ったバッグを肩から提げて、必死に駆けることは随分と馬鹿馬鹿しいことに思えた。足はアスファルトを蹴りつける力を失って、歩くことで精一杯になった。全身から汗が一気に噴き出した。

 目的のクリニックへ着いた時には、十三時半を過ぎていた。


 清潔なクリニック内は土足厳禁で、入口でスリッパに履き替えなければならなかった。それから受付番号が書かれた紙を自動発券機で受け取る。

 受付ではおそらく自分と同じ会社の人なのだろう――同じ会社の人間であっても、それぞれ派遣先が違う人ばかりなので、顔と名前は全く知らない――、男がA4サイズの通知書を受付担当者に渡しているのが見えた。それでまずこの通知書を渡さなければいけないのだと思い込み、バッグから通知書を取り出した。すると受付担当者の中年女性がこちらを向いて「テレビの前の椅子でお待ち下さい」とにこやかに言った。言われたものの、一度動き始めると急には止まれない。さらに受付に向かってもう一歩踏み出してしまう形となった。すると受付の女性は左手で長椅子が何列も並んだ待合スペースの方を指しながら、「テレビの前の椅子でお待ち下さい」と「テレビの前の椅子」という部分を強く発音して、繰り返した。今度は言われた通りに大型テレビと椅子が置いてある方へ向かった。

 テレビでは大河ドラマの再放送が流れていた。大河ドラマなんてほとんど観たことが無い。話題性に唆されて『龍馬伝』だけは観たことがある。当時は大学生で「『龍馬伝』がおもしろい」と同じ学部の連中の前で口を滑らせた途端に「あれは史実と全然違う。あんなものが楽しめるお前はやっぱり馬鹿だ」とかいうことを延々と言われて、すっかり嫌な気分になった。それから大河ドラマは全く観ていない。もともと歴史に明るくないこともあり、今テレビに映されている場面がいったいどういうものなのかはさっぱり分からない。それが史実として有名な場面なのか、全くの作り話なのかさえ分からない。それでもタイトルは耳にしたことがあり、主人公が「おんな城主」であることくらいは知っている。わざわざ「おんな」と言うあたり、城主が女であることは異例のことなのだろう。それは女教師とか女社長とかとよく似た響きを持っている、変に張り切ったような白々しく退屈な言葉だ。


 しばらくして手に持った受付番号が読み上げられた。受付カウンターで通知書と検尿の容器を渡し今度こそ受付を済ませると、問診表への記入が求められた。記入といっても、問診表は紙ではなくタブレット端末での回答だった。持病が有るか無いか、身体の不調に自覚症状が有るか無いか、当てはまるものをチェックしていく。肩こりには自覚症状がある、憂鬱な気分、これにも自覚症状がある。順調に回答を続けていたつもりだったが、つい操作を間違えて、先ほど回答を済ませた頁に逆戻りしてしまった。すると受付から人が慌ててやってきた。どうやら回答者がタブレット端末の操作に手こずっていると、そのことが担当者に筒抜けになるシステムらしい。そして操作の仕方が難しいかと訊いてくる。「大丈夫です」と答えた。電子機器に詳しくない私でも、この程度のタブレット端末の操作の仕方くらいは分かる。そんなことよりも、簡単な作業ですら不注意で失敗をやらかし、人の手を煩わせてしまう自分にうんざりしてしまった。先ほどチェックをつけたばかりの、憂鬱な気分に自覚症状が有るか無いかという問い。チェック欄をもう一度、今度は少し強めに指先で押した。


 荷物をロッカーに預けて検診待ちのスペースへ通された、パーテーションで仕切られた先に身長計や体重計などが見える。電話ボックスみたいな機械は何だろう? その反対側の壁に沿って長椅子が置かれていて、人が大勢座っている。

 ここでもただ待っているだけしか出来ないので、テレビを見ていた。動物にスポットを当てた番組らしく、その日は猫の特集がされていた。私は動物アレルギーの為、動物に触ろうとはしないし、当然何かを飼った経験も無い。でも眺めているだけなら、猫は好きだった。あの気ままに生きているように見える生き物が好きだった。

 特集されていたのは太った猫だ。ただの猫ではなく、デブデブに太ったふてぶてしい猫、何故そこまで太ったのか、経緯が説明され始める。

 猫は去勢されたそうだ。すると生殖機能を失った猫は、同時に猫としての本能も失ってしまったらしい。生物の根本である「子孫を残す」という役割を永久に果たせなくなったからだろうか。すると、猫じゃらしを追いかけ回すような運動はおろか、歩き回ることさえ無くなったそうだ。飼い主が仕事に出かけている間は一歩も動き回ることも無く、日がな一日ただ寝そべっているだけ。飼い主が帰宅したところで、玄関に出迎えに行くことすらしない。首を動かして玄関を気にする素振りさえ見せない徹底ぶりだった。そして与えられた餌を黙々と食べるのだ。

 そんなだらしのない猫を飼い主は溺愛していた。およそ何の見返りも得られない猫を「かわいい。かわいい」と愛でて、餌を与えて撫でまわしてやっていた。本当に愛らしくて堪らないといった声と表情。それが動物を飼う態度として正しいのか、あるいは間違っているのかはどうでもよかった。

 私はその猫が、心の底から羨ましかった。熱心にテレビ画面を見つめ続ける。

 やるべきことも無く、無理に愛嬌を振りまくこともせず、難しいことは考えず、ただ寝て、食べて、一日を過ごすだけの毎日を送り、甘やかされるだけのデブ猫になりたいと本気で思った。その為なら、生殖機能を失ったって構わない。出世欲も無い、恋愛も子作りもどうでも良くて、そんなつまらないことを頑張る気持にはなれないのだ。ただ、毎日を、のんびりと過ごしたかった。休みたい。そう思い願うことはどうしてダメなのだろう、どうして許されないのだろう。

 「人材」として少しでも長持ちするように健康であることを推奨される自分とはまるで正反対の立場にいる太った猫に、ずっと想い焦がれていた理想の幸福を見た気がした。

 やがて名前を呼ばれた。本当はもう少しだけテレビを観ていたい気持ちだった。無駄な抵抗は止めて、すっと腰を上げた。


特に読みたくなる仕掛けもせず、何か吐き出したい思いを力一杯書き連ねました。

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― 新着の感想 ―
[一言] 何か好きな文章です。タイトルに惹かれて読み始め「いつ猫が出てくるんだろう」と訝しんで、最後の最後にようやくデブ猫が出てきた頃にはもう、猫のことなど忘れていました。
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