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人には大きな声で言えないこと

ある日突然やってきたキャラクターで、ひとつのお話を書くことができました。

つたない物語ですが、お楽しみいただければと思っています。

【1】

今でも、よく夢に見る場面がある。


「ねえ梅子、お願いよ?」

「ハルのこと、あなたが守ってあげてね…」

そう言って母は、痩せて細くなってしまった手で、わたしの頭を撫でてくれる。

母が亡くなったのは、その1週間後だった。


*****


秘密というほどではないが、わたしには人に大きな声で言えないことがある。


とあるオフィスビルのランチタイム。

弥生梅子は、自分のディスクで持参した弁当を広げていた。

「弥生さーん、一緒にランチ…あっ、お弁当なんだ?」

同僚の一人に声をかけられる。

彼女らは外へ食べに行くのだろうか。

手にはブランドものの、ピンクの財布を持っている。


「あ、うん」

「誘ってくれたのに、ごめんね」

答えた梅子の弁当を見て、一人が少し屈みこんだ。

「弥生さんのお弁当って、いつもおいしそうだよねー!」

「料理得意なんだ?」

「えっと、わたしは別に…」

梅子は、手を軽く振る。

「実は、あたしの住んでるアパートの大家さんが料理好きで…」

「えーーっ、大家さんがお弁当作ってくれるの!?超いいじゃん!」

「あ、あははは…」

梅子はへらへらっと笑って、ランチに行く同僚を送り出した。


今日のおかずは、レンコンのはさみ揚げ。

中身は、わざわざエビを叩いたという手間のかけようだった。

プチトマトもヘタをちゃんと取って、代わりにピックが刺してある。

プチトマトは色味がいいのでヘタを取らずに入れる人が多いが、ヘタには雑菌がわきやすいのだそうだ。

「いただきます」

うやうやしく手を合わせ、梅子は弁当を頬張った。


*****


ねりねりねり…。

ハルは、納豆を念入りに混ぜている。

アパートの共同食堂は、夕食の時間だった。


「おー、腹減ったー」

住人のひとり、大学生のタローが席に着く。

「ハルくん、TVつけてもいっすか?」

「うん、いいよ」


ハルの背後にあるTVがつき、夕方の情報番組が映し出される。

つい最近発覚した、某政治家の女性問題についてのニュースをやっているらしい。

『…このような経緯で、山本氏は後援会のAさんに関係を迫ったとされています』

「最近多いっすよねー、官僚とか政治家のこういうの」

ご飯の上におかずの生姜焼きを載せて、タローが言う。

「そうだね、どうしてこういうことになっちゃうんだろ」

ハルの正面に座る梅子も、不思議そうに言った。


「男っていうのはさ、そういうケモノ的な部分を捨て切れないもんなんだよ」

梅子の向かいに座るオオカミのハルは、納豆を混ぜる手を止めずに言う。

オリーブオイルを最後にちょっと垂らして、ようやく納得の混ぜ具合になったらしい。


「梅ちゃん、半分食べる?」

「うん、ちょうだい」

茶碗を差し出すと、パックから半分入れてくれる。

「でも、そういう本能に負けてほしくはないな、人間だったら」

ようやく食べ始めたハルは、独り言のように言う。


「じゃあ、きみはどうなんだい?」

「ちょっと…それ、俺に聞きます?」

「オオカミの俺に」

声の主は、はははと軽く笑ってみせた。


彼もここの住人のひとりで、名前はヒューイ。

ウェーブがかってくすんだ金髪に、グリーンの目をしたイケメンだ。

ハーフなのか純欧米人なのか、年齢も素性もまるで不明。

唯一分かっているのは、彼が20~40代の女性に絶大な支持を得ているBL専門の人気漫画家だということぐらいである。


「ヒューさん、飯どうします?」

「そうだな…とりあえずお茶だけもらおうかな」

出された湯呑に口をつけながら、ヒューイはハルに言う。

「ハルくん、後でベタ塗り頼んでもいい?」

「はいはい、いいですよ」

ハルは、ざざーっとご飯をかき込んだ。


「そういや梅ちゃん、今日のレンコンどうだった?」

「うんうん、おいしかったよー」

「そっか、よかった」

「あれ、“コックパッド”のレシピなんだよ」

そう言いながら、ハルは昆布の佃煮をつまむ。

「あ、これおいしいなー、梶原のおばちゃんの言ったとおりだ」

「もう一杯、食べよ」

ハルは、2杯目のご飯をよそいに席を立った。


*****


わたしには、秘密というほどではないけれど、人に大きな声で言えないことがある。

それは、このオオカミのハルのことである。


彼とわたしのことについても、少し触れておいたほうがいいかもね。

彼は、生物学者をしていたわたしの母が、森林で拾ったオオカミだった。

小さかったハルとわたしが、兄妹のように育ったせいだろうか。

いつしかハルは、人間のようにいろいろできるようになった。

人の言葉を理解して話すようになり、二足歩行し、勉強したり、料理をしたり、ネットでお弁当のおかずレシピを検索したり、スーパーの特売をチェックしたり…。

(最近は、漫画家のアシスタントもしています)

そういうことを、わたし以上にやるようになった。


そして現在は、ここ『ななし荘』の大家でもある。

ななし荘は、元々わたしのおばあちゃんが大家をしていたアパート。

母親を亡くしたわたしとハルをおばあちゃんが引き取り、わたしたちはここで大きくなった。


母は、亡くなる1週間ほど前に、わたしを病室に呼んでこう言った。

「あの子はオオカミだから…これからきっと辛いこともあると思う」

「ねえ梅子、お願いよ?」

「ハルのこと、あなたが守ってあげてね…」


わたしがハルを守る…。

一体、どうすればいいのだろう。

その大きな心と体で、わたしを守ってくれているのはハルなのに。


*****


「梅ちゃん、聞いてる?」

「あ、ごめん…何だっけ?」

「いや、だからさ」

「付いてるよ、ごはん粒」

ハルは、自分の首元をチョイチョイと指して見せた。

「そういうところ、子どもの時から変わらないね」

ハルは面白そうに笑って、食べ終わった食器を流しに運んで行った。


【2】

我が家である『ななし荘』は、普通のアパートとはちょっと違う。

今流行っているシェアハウス風物件とでもいうのか、ダイニングキッチン、リビング、風呂トイレは共同。

それに加えて、各住人にプライベートルームがある。

食事は、タイミングが合えば基本的にはみんなで食べている。

アパートというか、まるで寮みたいな感じかな。


大家であるハルの一日は早い。

5時前には起床し、住民の朝ごはんの用意を始める。

その合間に、わたしやタローくんのお弁当も詰めてくれる。

これはどう考えても大家の仕事ではなさそうだけど、ハルは好きでやっているから気にしないらしい。


朝食や夕食といった食事の支度の他に、アパートの修繕や庭の草むしり、掃き掃除など、毎日せっせと働いてくれている。

そんな彼だけど、どうしても活動を停止してしまうときがある。

それは…。


「おはよーっすー」

大きなあくびをしながら、Tシャツと短パンのタローが食堂に現れる。

「おはよう」

既に食堂には梅子とヒューイ。

ヒューイは、小さめのどんぶりでお茶漬けを食べている。

「あれ、ハルくんは?」

いつもなら既に起きているはずの、ハルの姿はない。

「タローくん、昨日は満月だよ」

お茶漬けを静かにかき込みながら、ヒューイが言う。

「今日はちょっと遅いよね」

梅子がそう言ったときだった。


「おはよう…ございます…」

食堂の入り口に、のっそりとハルが現れた。

よく眠れなかったのか、少し隈のできた顔をしている。

「ハル、大丈夫?」

「うん、平気…」

言葉とは裏腹に生気のない声で答え、ハルは冷蔵庫を開ける。

そこから厚切りの食パンと、ジャムを取り出してくる。

ぼーっとした顔でパンを取り出し、大きな手で器用にジャムを塗る。

その様子に、どこか張り詰めた空気が漂う。


「あーうま」

パンを頬張ったハルがそう言うのを聞いて、やっと場の空気が再び流れ始めた。


そう、ハルは満月の日が苦手だった。

いつ頃からだったか、満月の日にはいつも部屋に引きこもるようになったのだった。

部屋では、1日中布団を被ってじっとしているらしい。

オオカミって大変なのねと、梅子はいつも思う。


*****


「弥生さんも弁当なの?」

会社の休憩室でランチを取っていた梅子は、不意に声をかけられて、あやうく好物の唐揚げを落とすところだった。

ハル特製の、ハーブ塩唐揚げ。


「うん、わたしはいつもなの」

「三上くんも、今日はお弁当なの?」

声をかけてきたのは、同じ課で仕事をする三上という男だった。

仕事もできて、性別問わずに誰とでも打ち解けられるタイプ。

梅子は、実は彼がちょっと苦手だったのだ。

三上といわず、梅子は基本的に男性が苦手だった。


「一ノ瀬さんたちが言ってたよー」

「弥生さんの弁当は、いつも旨そうだって」

「大家さんが作ってくれてるんだって?」

「う、うん…そうなの」

三上は、いつの間にか梅子の隣に座っていた。


「おっ、その白い唐揚げ、すごい旨そー!」

「取り換えっこしてくれない?」

「うん…いいけど…」

こういう距離の詰めかたが、梅子は苦手だった。

かくして、梅子が大事に食べていたハーブ塩唐揚げは三上のコンビニ弁当の上に。

代わりに何がいい?と聞かれたが、彼の弁当のおかずで欲しいものはなかった。


「ところでさー梅子ちゃ…あっ、ごめん!」

「女の子たちが、名前で呼んでるからつい…」

三上はそう取り繕ったが、同僚で梅子を名前で呼ぶ者は誰一人いない。

それどころか、「弥生」が名前であると思われていることもあるくらいだ。

梅子は、三上との会話を早く切り上げたかった。


「ごめん、わたし、早くやりたい仕事があって…」

手早く弁当を片付け、梅子は言った。

あ、そうなんだ?って、早く行ってくれますように…。

「あ、そうなんだ?」

予想通りの返答の次に、彼はもうひとつ付け加えた。

周りに人はいなかったが、そっと囁くような声で。


「オレ、実は梅子ちゃんのこと、ちょっと気になってるんだ」

「今度、よかったら飲みに行かない?」

「…ごめんなさい」

それだけやっと言うと、梅子は自分のデスクへ急いで帰った。


*****


「どうしたの、梅ちゃん」

「さっきからため息ばっかり…何かあった?」

夕食の片付けを手伝っているとき、ハルが何気なさそうに聞いた。

昼間の三上のことが、頭に引っかかっていた。

「ううん、何でもないよ」

笑ってごまかす。


話題を変えようと、梅子はヒューイの仕事のことについてハルに聞いてみた。

「ヒューイさんのお手伝いはどうなの?楽しい?」

これは地雷だったのだろうか。

ハルの顔が急に曇る。

「…梅ちゃんさ、BLって読んだことある?」

「わたしは…今までないかな」

「同僚の女の子で、ヒューイさんの作品がいいよーって言ってる子はいたけど」

「そっか…」

ハルは、大きな大きなため息をついた。

「いや、実際ヒューさんはすごいよ」

「作画もすごく丁寧だし、ストーリーもいいと思う」

「ただ…」

ハルが言いよどむ。

「ただ…何?」

「何て言うの…描写がエグいんだよ」

()()()()()()にベタ入れする俺の気持ちって、分かる?」

「あはは…分かんない」

梅子はへらへらっと笑った。


小さい頃からずっと一緒のハル。

彼はオスのオオカミだけど、ハルのことは全然怖くない。

梅子は、ハルとのこんな他愛もない時間が心地よかった。

ずっと何事もなく、こんな時間が続けばいいと思っていた。


【3】

その日帰ってきた梅子は、どこか機嫌が悪かった。

原因は、三上だった。

あのランチの日以来、三上は同僚たちに梅子に興味があることを話しているらしかった。

「ねえねえ、聞いたよー」

「弥生さん、三上くんに告られたんだって?」

中にはそんな話に発展しているものもあり、梅子はそのたびに慌てて否定するしかなかった。

外堀を埋めるような三上のやり方に、梅子は心底うんざりしていた。


ヒューイは外出中、タローは大学の友達と飲み会という中、梅子はもやもやした気持ちを抱えたまま、食事を取っていた。

「梅ちゃん、眉間にしわが寄ってるよー」

ハルが顔を覗き込んで、さりげなく言う。

ハルのいつもと同じそんな態度も、梅子には気に入らなかった。

答えずにいると、スマホに着信が入る。


三上からだった。

数日前、あまりにしつこくお願いされ、しぶしぶ番号の交換をしたのだった。

それ以来、ことあるごとにかけてくるようになった。

無視したままだと、また明日、何か話しかけてくるだろう…。

そう思って、梅子は電話に出た。


「…三上くん?うん…うん…」

「そんなこと…ごめん、わたしはいつもそうだから…うん…またね」

電話を終えると、思わずため息が出る。

「最近元気がないのは、電話の相手のせい?」

食事の後片付けをしながら、ハルが聞く。

「…別にいいでしょ」

ちょっと口をとがらせて、梅子は答える。

「そりゃそうなんだけどさ…梅ちゃん、困ってるみたいに見えるから…」

「別にいいって言ってるじゃん!放っておいてよ!」

ハルはちょっとびっくりした顔をして、水を止めて梅子を見ている。

いつもよりずっと大きな声が出たことに、梅子自身も驚いた。

「ねえ、何かおかしいよ」

「何かあったなら、話してみて…」

「もーー、いい加減にして!」


もしヒューイやタローがここにいたなら、2人を気にして、梅子はここまで言えなかったかもしれない。

「いいよ、別に守ってくれなんて思ってないって!」

「ちょっ、梅ちゃん…」

「もういいの!保護者ぶらないでよ!」

そこまで一気に言うと、流しに食器を運び、梅子は部屋に戻っていった。

「梅ちゃん…」

締めた蛇口から、ぽたんと水が落ちた。


*****


その晩、梅子はなかなか寝付けなかった。

子どもの頃ならまだしも、大きくなってからハルにあんな八つ当たりをしたのは初めてだった。

ハルは、何も間違ったことは言っていない。

ただ、自分がイライラしていただけ。

頭が冷えた今となっては、後悔ばかりが重くのしかかってくる。


不意に、梅子は母の言葉を思い出す。

ハルを守ってあげて。

亡き母は、そう言い残した。


「…お母さん、ごめん」

「こんなんじゃわたし、ハルのこと全然守れてないよね…」

自己嫌悪でいっぱいだった。


やはり、謝らなくてはならない。

意を決した梅子は、階下のハルの部屋に行こうとする。

階段を下りていくと、まだ食堂には明かりがついていて、話し声もする。

どうやら、ハルとヒューイが何か話しているようだった。

梅子は、食堂の入り口にそっと近付いた。

なかなか、入っていく勇気は出ない…。


*****


「はーーーー」

この上なく、大きなため息が出てしまう。

片付けの終わったハルは、食堂に残って一匹で飲んでいた。

タローはさっき帰ってきて、部屋で寝たらしい。

そこへ、ヒューイが帰ってくる。


「珍しいね、飲んでるの?」

「ボクにももらえる?」

ハルはグラスと氷を用意し、目の前にある大きな梅酒の瓶からヒューイの分を作る。

「うん、旨い」

「きみは何でも作れるよね」

梅酒は、2年前にハルが漬けたものだった。


「何かあった?梅子ちゃんと」

ヒューイは、いつも確信を突いて話をする。

「…ヒューさん、大人になっても反抗期ってあるんですかね?」

「梅子ちゃん、反抗期なの?」

ヒューイはくすくすと笑っている。

「いや…何か最近悩んでるみたいなんだけど、なかなか話してくれなくて」

「さっきなんか、保護者ぶらないでーって怒られました…」

ハルは、自分のグラスをぐーっとあおった。

ヒューイはというと、何事か考えている風で、グラスの梅酒を舐めている。

「煙草吸ってもいい?」

おもむろに立ち上がり、換気扇のほうに向かう。

「ヒューさん、煙草吸いますっけ?」

少し酔った声で、ハルが聞く。

「いやー、いつもは吸わないんだけど」

「ちょっと下世話な話をするときは、吸いたくなるんだな」

ふーんという感じで、ハルは再び自分のお湯割りを作っている。


ヒューイは換気扇のスイッチを入れると、煙草を取り出した。

器用にマッチを擦って煙草に火をつける仕草は、まるで俳優のようだった。

無言のまま、大きく息を吸う。

少し開いた唇から、絹のようにも見える煙草の煙が吐き出される。

彼が人気絶頂のBL漫画家であることが、ハルには何となく理解できた気がした。


「単刀直入に聞くけど」

「きみたちって、もう交尾したの?」

「ブーーーーーーーッ!」

突然の問いかけに、盛大に吹くハル。

「なっ、ちょっ…こ、交尾って…」

ゲホゲホとむせながら、ハルは酔って回転の鈍くなった頭で整理しようとする。

「いや…きみって獣だろう?だからこっちの言い方のがいいのかなと思って」

ヒューイはさらっと言ってのける。

下世話って、こういうことだったのか…。


「してないっすよ、そんなこと!」

大慌てで否定するハルを見て、ヒューイはきょとんとしている。

「ずっと一緒にいるのに?梅子ちゃんも可愛いのに?」

「してないの?そうなんだ?」

あまりに淡々とそう言われ、ハルは何だか怒る気も失せてしまっていた。

耳がぱたんと倒れ、しっぽはしんなりと下を向く。

ヒューイは煙草を指に挟んだままグラスを持ち、梅酒を飲んでいる。

細い首の喉仏が、ゆっくりと上下する。


「あまりに長く一緒にいると、そういう気も起らなくなるか」

独り言のようにそう言っている。

「…」

ハルは黙って立ち上がり、つかつかとヒューイのもとに歩み寄る。

そして彼からグラスを取り上げると、その場で残りを飲み干した。

そして、そのまま床に座り込む。


突然のことに驚いた様子のヒューイだったが、今は面白そうに笑っている。

「そりゃ…」

「そりゃあ、俺だってしたいですよ」

「おっ、とうとう白状したね」

「でも…簡単にはいかない…約束があるし…」

「約束?」

「俺は、梅ちゃんを守ってやらなきゃならないんです」

「…興味深いね、よかったら聞かせてくれる?」

ヒューイにそう言われて、ハルは少し考えた。

いつもなら、プライベートなことはあまり話したいと思わない。

しかしこの日は、誰かに話を聞いてほしい気持ちもあった。

おまけに、明日には満月が控えている。

何だか体の中がうずくように感じるのは、梅酒を飲んだからだけではなさそうだった。


「俺たちの…亡くなった母親に言われたんです」

「梅ちゃんのこと、ちゃんと守ってやってねって…」

「ふーん、そうなの」

「でも、前にちらりと聞いた話では、むしろきみのほうが守られるべき存在のような気もするけど」

「きみは、森で拾われたオオカミの仔なんだろう?」

「…」

ハルは、一点を見据えてしばし黙る。

「いえ…実は」

「実は、拾われたのは梅ちゃんのほうなんです…」

「え?」

さすがのヒューイも、このときばかりは、なかなか驚きの表情を崩せなかった。


*****


何?

ハルは、今何て言ったの?


食堂の入り口に座って、ハルとヒューイの話を聞いていた梅子は、自分の耳を疑った。

何だろう、胸がすごくどきどきして苦しい。

もう部屋に戻って、何も聞かなかったことにしてしまおうか。

しかし、体は動かない。


「それ、どういうこと?」

「信じてもらえるとは思ってないですけど…俺、半分は人間なんです」

「…」

それだけ言うと、ハルは息をついて黙り込んでしまう。

ヒューイは、何も言わずに成り行きを見守っていた。

音のない時間が過ぎていく。

それを破ったのは、トイレに起きてきたタローだった。


「あれ、梅子ちゃん」

「どうしたんっすか、そんなとこに座り込んで…」

寝ぼけ眼のタローの声で、食堂の内と外の時間が動き始める。

ハルは瞬間的に立ち上がって、食堂の外を見た。

そこには、ナイトウェアを着た梅子が、下を向いて立っていた。

優しいピンク色で、胸にオオカミか犬かというキャラクターのワッペンが付いている。

見て見て、こんなの見つけたの!

そうはしゃいだ梅子を、ハルはよく覚えていた。


「梅ちゃん…」

絞り出すようにやっと言ったハルの声に、梅子は顔を上げた。

困ったような驚いたような、そんな顔だった。

目には薄い水の膜が張っているようで、今にも泣き出しそうに見えた。

「梅ちゃ…」

ハルが言い終わる前に梅子はさっと身を引き、急いで階段を昇って行った。

ハルも、後を追う。


「…オレ、何かしちゃったっぽいっすか?」

申し訳なさそうに言うタローに、ヒューイは答える。

「いや、そんなことはないと思うよ」

換気扇を消し、吸っていた煙草を、携帯の吸い殻入れに押し込んだ。


*****


開け放たれたドアの向こう。

電気はついていないが、満月前日の月の光が、部屋を照らしている。

その中に、ハルに背を向けて梅子が座っていた。


「梅ちゃん…」

「さっきの話、ちゃんと聞かせて」

梅子は背を向けたまま言う。

「もう隠さないで、全部聞かせて」

「…分かった」

ハルは覚悟を決めた。

そのまま梅子の部屋に入り、部屋のドアを後ろ手で閉めた。


*****


「あれは…母さんが亡くなった頃だったと思う」

「俺、精神的に参っちゃって…」

「ある満月の晩に、梅ちゃんを食い殺しそうになったことがある」

ハルは床にあぐらをかいて座り、梅子の背中に話しをする。

その思いがけない告白に、彼女の小さな背中がびくりと動いたように見えた。


「そのときは、間一髪でばあちゃんが見つけてくれて…」

子どもだった梅子の喉に、あわや噛みつこうとしていたハル。

祖母が、慌ててそれを引きはがす。

「俺…そのことで自分が怖くなって…」

「また、こんなことするんじゃないか」

「そのうち、今度は本当に梅ちゃんを殺すんじゃないかって、すごく不安になった」

梅子は黙って聞いている。

「それで、ばあちゃんに言ったんだよ」

「俺のことは、山かどっかに捨ててくれって」

「そもそも、拾われたオオカミがうちにいるのが、おかしいんだって」

「でも、そのとき…ばあちゃんが言ったんだ」


『おまえをどこかにやるなんて、とんでもないことだよ』

『でもばあちゃん、このままじゃ、俺…』

正座してうつむくハルに、祖母はとうとう打ち明けた。

『いいかい、ハル』

『陽子の本当の子は、おまえなんだよ』

『え…?』

『陽子に森で拾われたのは、梅子のほうなんだよ…』

祖母はそれだけ言うと、力なくうつむいてしまった。


話の続きはこうだった。

祖母の娘で生物学者だった陽子は、子どもができる前に夫を事故で亡くしてしまった。

失意のまま森で動物の研究をしていた陽子の前に、一匹のオオカミが現れる。

どう考えてもおかしな話だが、陽子はオオカミに誘われるように森へ消えてしまったという。

一緒に森を訪れていた研究仲間の話で陽子がいなくなったことを知り、祖母はとても心配したそうだ。


何日か経って、陽子は帰ってきた。

腕には、生まれて間もない赤ん坊を抱いていたという。

聞けば、赤ん坊は森の中に捨てられていたらしい。

放っておくこともできないので、連れてきてしまったという。

最初は戸惑った祖母だったが、陽子には子どもがいなかったので、彼女の子として育てることにした。


驚くことは、それだけで終わらなかった。

陽子が、妊娠したという。

タイミングを考えても、亡くなった夫の子ではない。

では、誰の子か…。


『森で…オオカミに出会ったの…素敵なオオカミだったわ』

『わたし、彼と恋に落ちたの』

『お腹の子は、そのオオカミの子よ』

陽子がそんなことを言い始めたので、祖母は自分の娘は頭がおかしくなったのだと思った。

しかし、人間の妊娠期間よりずっと早くで生まれてきた子、産婆の経験があった祖母がうちで取り上げた子は、まさしくオオカミだった。

陽子の言ったことは、本当だったのだ。


生まれた子は元気に走り回っている。

梅子と名付けた捨て子も、オオカミの子と楽しそうに遊んでいる。

それは、夫を亡くした陽子にとって幸せな時間だった。

しかし、いつまでもこのままではいられないことも、彼女には分かっていた。

これからどうしていくかを考えたとき、選択肢はいくらもなかった。


*****


「それで母さんは、梅ちゃんを自分の子、俺を拾われた子ってことで収めることにしたらしい」

「梅ちゃんは、母を亡くした人間の女の子」

「俺は、その子のお母さんに拾われた、ちょっと変わったオオカミの子」

「そうすることが、これからもこの世界で生きていく俺たちのためだと思ったみたいだよ」

「…俺がばあちゃんに聞いた話は、これで全部」

「今まで黙っててごめん」


月明かりの差す部屋の中、沈黙は続く。

「もういい」

梅子が立ち上がって言う。

「え?」

「もういいの、分かったから」

それだけ言うと、ハルを部屋の外に押し出そうとする。

「梅ちゃん!」

「だから俺は…きみを」

「もういいの、出て行って!」

扉は、大きな音を立てて閉じられた。

声こそ聞こえないが、ドアの向こうで梅子は泣いているらしい。

嗅覚の鋭いハルには、涙の匂いが感じられた。

彼は、そんな自分がうらめしく思えてならなかった。


【4】

次の日、ハルは梅子と顔を合わせることはなかった。

彼女は、家で食事を取らずに会社に出かけたらしい。

今日は満月の日で本来なら部屋に引きこもるが、ハルは彼女の弁当を用意していた。

しかし、白地に赤い水玉の包みは、いつまでも食堂のテーブルの上に置かれたままだった。


いつかはこうなってしまったと思う。

ずっと隠し通すことは、きっと無理だった。

俺と梅ちゃんは、いつまでも子どもってわけじゃない。

もうおとぎ話を信じていられるような、そんな年頃じゃないんだ。


*****


梅子は、ショックから立ち直れないでいた。

会社ではミスを連発し、上司に叱られた。

もう何もかも、どう考えていいのか分からなかった。

こんなに大人になるまでずっと信じていたことが、まったく真実ではなかったのだから…。


母はどうして、わたしにハルを守れと言ったのだろう。

そんなに、自分の子であるハルが大切だったのだろうか。


おばあちゃんの話を真に受けて、信じるのもどうかと思う。

オオカミと人間の間に子どもが生まれるなんて、どう考えてもおかしい。

だけど、ハルという存在がある以上、むしろそれが真実であると思わざるを得ない…。

彼が半分は人間であると考えると、その存在のつじつまが合う。


梅子は、こんな風にも考えていた。

母にああ言われたことで、わたしはどこか、優越感を感じてはいなかっただろうか。

母亡き後、捨て子だったハルを守ってやるのは母の血を引いた自分の役目だと、使命感に胸を熱くしたのではないだろうか。


人は、わたしは、心のどこかで獣を下等な生き物だと思っていないだろうか。

ハルを大切に思う心からではなく、そんな思いから、彼を守ろうとしていたのではないだろうか。


自分はなんて、嫌な人間なんだろう。

その罰が、今になって下ったのかもしれない。

どこにもつながりのないのは、わたしのほうだった。

本当に憐れまれるべきは、わたしのほうだったんだから。


「梅子ちゃん、大丈夫?」

声をかけてきたのは、三上だった。

すべての発端はこの男にあったのだが、今となっては恨むということすら億劫だった。

「今日、調子悪いよね」

「どう?よければ相談に乗るよ?」

「…じゃあ、そうしようかな」

いつもなら、こんな男の誘いには絶対乗らない。

しかし今の梅子は、もう何がどうなってもいい気分になっていた。

どうにでも、なってしまえばいい。


*****


今日は満月の晩だ。

梅子の弁当だけやっと作って部屋に引きこもったハルは、部屋の隅に座り込んでいた。

梅子にあの話を聞かれる前に戻れたら、どんなにいいだろう。

そんな考えばかりが、頭をめぐる。

今日は、いつもより調子が悪い。

胃には石でも詰まっているようで、ムカムカして痛い。

童話で腹に石を詰められたオオカミの話があったが、あいつもこんな気持ちだったのだろうか。


束の間、うとうとしたつもりだったが、気付けばもう日は暮れていた。

締め切ったカーテンの隙間から、満月の月光が細く差し込んでいる。

重い気持ちと体を引きずって、ハルは部屋から出た。


「ハルくん…出ても大丈夫なんすか?」

食堂でコンビニ弁当を食べていたタローが聞いた。

「うん…ありがとう…」

食堂を見回す。

梅子の姿はない。

「梅子ちゃんは、帰ってきてないみたいだよ」

梅子とは隣室のヒューイが言う。

時間は、もう午後9時半。

残業をしたとしても、ここまで遅くなる職場ではなかった。


すごく嫌な予感がする。

空っぽになりつつある胃から、何かが上がってこようとしている気配がある。

「ハルくん、顔色が悪いよ」

ヒューイが、真剣に言う。

「俺…梅ちゃんを探さなきゃ…」

2人が心配そうに見守る中、ハルはふらふらと食堂を後にした。


*****


頭が痛い。

水の中にいるみたいに、音が反響して聞こえる。

わたし、どうしちゃったんだろう…。


薄く目を開けると、天井の見知らぬ照明器具が目に入った。

うちではないらしい。

では、どこだろう。

わたしは、何をしていたんだっけ…。

手に力を入れて体を起こそうとすると、バランスを崩す。

どうやら、ベッドの上にいるらしい。


「目が覚めた?大丈夫?」

そこにいたのは、三上だった。

そうだ、三上くんと食事をして…それから…。

痛む頭を励まし、梅子は何とか思い出そうとする。


「びっくりしたよ、梅子ちゃんってすごい飲むんだね」

口ぶりからして、どうやら2人で飲みに行ったらしい。

でも、そこでの記憶はほとんどない。

そして、わたしはどこにいるのだろう。


「ごめん…梅子ちゃんのうちが分からなかったから、とりあえずオレんとこに帰ってきちゃったんだ」

「うそ…ここ…」

どうやら自分は、三上の自宅に連れ込まれてしまったらしい。

しかもこんなにフラフラで、彼のベッドの上にいる。

まずい、と梅子は思った。


「はい、お水」

三上が、キャップを開けたミネラルウォーターを手渡す。

何とかそれを受け取って飲んでみるが、どうにもふらついてしまう。

再びバランスを失いかけた梅子を、三上が支える。

酔ったのとは違う不快さが、梅子の中に広がった。


「梅子ちゃん、本当に飲みすぎたね…」

三上はそう言うと、梅子をゆっくりとベッドに横たえる。

「オレのせいじゃないよね、梅子ちゃん」

スマホを取り出して、1枚写真を撮る。

「泥酔したきみが、自分で付いてきた」

「そうだよね?」

三上はそう言うと、梅子のシャツの胸元に手をかけた。

そのまま思い切り引かれて、ボタンがいくつか飛ぶ。

お気に入りのシャツなのに…。

ボタン、どこでなくしてきたのさ?ってハルに怒られるじゃない…。

梅子はぼんやりそう思う。


パシャッ。

またスマホで写真を撮られる。

さらに胸元を広げられて、もう1枚。

何て趣味の悪い男だと思った。


「後々さ、文句言われるとオレも困るわけ」

また1枚。

「そのときの保険ってことで」

「面倒なことになりそうなら、この画像ネットでばらまくから」

「それで、いいよね?」


三上の顔が近付いてくる。

いつも接している獣のハルより、三上のほうがずっと獣のようだった。

腕を押さえられて、動けない。

誰か、助けて。

誰か…。


「ハル…」

梅子がそう呟いたとき、不意にインターホンが鳴った。

続けて、もう一度。

「ちっ、何だよ、こんな時間に…」

三上は軽く舌打ちをして、悪態をついた。

彼の体が、梅子から離れていく。

ピンポーン。

インターホンは、まだ鳴っている。

近所に不審がられるとでも思ったのか、三上は玄関に向かった。


「誰だ…?」

ドアの覗き穴から見ても、よく分からない。

念のためドアにチェーンをかけて、三上は扉を開いた。

「…何すか?」

ドアの隙間から、人影が見える。

彼の視線のずっと上に、その何者かの顔があるようだった。

おそらく、ものすごく大柄の男だ。


「!?」

三上はたじろいだ。

何だ、この大きいやつ。


「あの…こちらに弥生梅子がお邪魔していると思うんですが…」

聞いたことのない、かすれたような声音で、大きい男は言う。

改めて全体をよく見ると、黒いパーカーの上に、カーキ色のアウターを羽織っている。

すっぽりと被ったフードから、射るような目つきでこちらを見ている。

「弥生…?いや知らないけど?」

「部屋、間違えてない?」

三上は、シラを切り通そうとしている。

フードの奥で、鼻が動いたように感じた。

「…酒飲まして、連れ込んだんですか?」

「な…」

三上は驚く。

何だ、こいつ…気持ちわりーな。


「ワケ分かんねーよ、てめぇ、頭おかしいんじゃねえの?」

そう吐き捨てて、三上は慌ててドアを閉めにかかる。

ドアが完全に閉まる直前、その隙間に手が差し込まれた。

まるで獣のような、鋭い爪のある手だ。


混乱はしたが、三上は思った。

手を差し込まれても、何が問題だ?

こっちにはチェーンだってかかってるし、このまま閉めて…。

そう思ったとき、ドアに差し込まれた手に、にわかに力が入るのが分かった。

バキッという音がして、チェーンの一端がドアから引きちぎられた。

カツン、カツン。

ちぎれたチェーンの輪が、床に落ちる。

ドアが静かに開くのを、三上はただ見つめていた。


ややあって、カーキ色の上着を着た大男は、ドアからのっそりと入ってきた。

まるでクマか何かの動物のようだと、三上には思えた。

土足のままのそれは、ずんずんと進んでいく。

その先には、彼の言う弥生梅子を押し倒したベッドがある。

圧倒されていた三上だったが、急に我に返る。

こいつが弥生の知り合いだと、まずいことにはなる。

でも、待てよ。

こんな夜更けに、人のうちに土足で上がり込むなんて変質者じゃねえ?

何がどうあっても、被害者はオレだろ。

そう思って、その男の後を追う。


部屋に入ると、その大きいやつはベッドに屈みこんでいた。

そこに横たわる、梅子を気にしているらしい。

「…梅ちゃん、ごめん」

「お待たせ」

静かな声で、話しかけている。

「梅ちゃん?てめぇ、弥生のツレかよ」

まったく、とんだ計算違いだ。

あんなおとなしそうな弥生梅子に、こんな怪物みたいな男がいたなんて。

だけど、ここで引き下がれるかよ。


「オレのせいじゃないぜ?」

「この女が酔っ払って、勝手に付いてきたんだよ」

「警察に言うか?オレが連れ込んだ証拠でもあるならよ」

三上は強気な発言だ。

スマホに、さっき撮った写真がある。

あれがある限り、弥生みたいな女は拡散を恐れて言いなりになるだろう。

そう思っていたのだ。


「ハル、わたし…」

「梅ちゃん、帰ろう」

ボタンの飛んだシャツを着た梅子に自分の上着を着せ、その男は彼女を抱き上げようとしている。

おいおい、オレのこと、全然眼中にねーじゃん。

頭に血の昇った三上は、たまに素振りで使う金属バットを手にし、大きく振りかぶった。


そいつを打った感触は、確かにあった。

事実、バットは男の肩に当たっている。

ただ、何だ?

間違って地面を打ったような、何か硬いものにぶつかったような感触…。

こいつ、一体何者なんだ?

「…なるべく、穏便に済ませたかった」

男は、梅子をゆっくりとベッドに下ろした。

梅子はだんだんと意識がはっきりしてきたようで、体を起こしている。


「ハル!」

「満月の日に、こんな風に怒るのは初めてなんだ」

「うまく…コントロールできるといいけど…」

満月?

何言ってんだ、こいつ。

「てめぇ、マジで頭おかしいぜ…」

そう言って、三上はもう一度振りかぶる。

しかし、今度は当たらなかった。


振り下ろされたバットを、ハルの大きな手がつかんでいる。

そしてそのまま、力任せにねじった。

バットを持った三上の腕もそのままねじれ、彼は思わず呻いてバットを離す。

再びバットを取り上げようと屈んだ三上の胸倉をつかみ、ハルは彼を片手で持ち上げた。


フードを被った怪物が、冷たい目でじっとこっちを見ている…。

三上の背中に、つーっと汗が流れるのが分かった。

もしかして、自分の目の前にいるのはとんでもないやつなのかもしれない。

彼はようやくそう悟ったが、もう遅かった。


ビビッている上に、胸倉をつかまれていて苦しい。

三上は口をパクパクさせて、しかし何とか逃れようともがいていた。

バタつかせた手が男の頭部に当たり、黒いフードが外れる。

中から現れたのは、耳をぴんととがらせた獣だった。

その獣はじっと黙って、三上を見つめている。


ハルはふと、三上のポケットからスマホがのぞいているのに気付く。

そして、シャツの胸元がはだけた梅子を見る。

「梅ちゃん、変な写真撮られた?」

「うん…何枚か…多分」

「そっか…」

ハルは、三上を片手で持ち上げたまま、もう片手でスマホをポケットから抜き取った。

そして、話せないでいる三上の目の前で、大きな口を開けてスマホを放り込む。

童話の挿絵でしか見たことのないような、牙のずらりと並んだ大きな口。

生き物の肉を食うための、大きな口…。


バキッ、バキバキ…と、スマホを咀嚼する音がする。

その間も、目はずっと三上を見据えたままだ。

三上は思った。

次は、オレ?


バラバラになったスマホを無造作に床に吐き出し、ハルはつかんだままの三上に向き合った。

「選んでくれないか」

「…は?」

「このまま俺たちを帰して、今夜は何もなかったことにする」

「それとも…」

「赤ずきんや子ヤギのように、体験してみるかい?」

「オオカミの腹の中が、一体どんなものか…」

三上の答えは、ひとつしかなかった。


*****


満月の夜。

人通りの少なくなった道を、梅子とハルが連れ立って歩いている。

「すっかり酔いがさめちゃった」

梅子は、大きなカーキ色の上着を羽織っている。

ハルは再びフードを深く被って、梅子のペースに合わせて歩いている。


「わたしのこと、どうやって見つけたの?」

「そりゃあ…匂いをたどってだよ」

「俺、一応オオカミだし」

「イヌ科の動物だから、鼻が利くんだよ」

ハルは、少し湿っている自分の鼻をツンと押してみせる。


「…ごめんね、あんなことさせちゃって…本当にごめん」

ほんの束の間すれ違っていただけで、もう長いことハルと話をしていないような気持ちになっていた。

「いや…俺こそ」

「ずっと黙ってて、ごめん」


「正直ね、やっぱりショックだったよ」

「わたしが、お母さんの本当の子どもじゃなかったこと」

「うん…」

「お母さん、死ぬ前にわたしに言ったのよ」

「ハルはオオカミで、これから辛い思いもするだろうし、あなたが守ってやってねって」

「うん…」

「でも…全然うまくいかないよ」

「それに…わたし」

少し言いよどんで、梅子は続ける。

「こんな自分が恥ずかしいけど、わたし…わたし、どこかで獣のハルより立場が上だって感じてたかも…」

「ん?」

「ハルは人間の世界で生きているオオカミでしょ?」

「だから、この人間だらけの世界で一匹だけのあなたを、わたしがちゃんと守ってあげなきゃって思ってたの」

「わたしは人間代表で、あなたは獣…」

「何か…変な優越感みたいの感じてたと思う…」

そこまで話すと、梅子は黙り込む。

代わりに、今度はハルが口を開く。


「梅ちゃん、そんな難しいこと考えてたの?」

ハルは、笑っているようだった。

「実はね、母さんは俺にも言ったんだよ」

「梅ちゃんのこと、ちゃんと守ってやってって」

「え?」

「俺は俺で、梅ちゃんは小さくて弱いから、だから守ってやらないといけないって思ってた」

「いや、今もそう思ってる」

「うん…」

「でもさ、俺だって、ちゃんと梅ちゃんに守ってもらってるんだよ」

「…どういうこと?」


「梅ちゃんは、俺といるの楽しい?」

まさかそんな質問が来ると思わなくて、梅子は一瞬戸惑った。

ハルとの毎日は当たり前すぎて、そんなことは深く考えたこともなかった。

「そんなの…そうに決まってるじゃない」

「そっかー、よかった」

ハルは安心した様子だった。

「俺が思うにだよ」

「誰かと一緒にいるのが楽しいってことはさ、その相手の存在を受け入れてるってことだと思わない?」

「えーと…うん」

まだ酔いの残る頭で考えて、梅子は応じる。

「俺はさ、実際こんなんなわけだよ」

「人並みにいろいろできても、人間とのハーフでも、やっぱりどう見てもオオカミなわけで」

「でも梅ちゃんは、そんな俺の存在を受け入れてくれてるってことでしょ?」

「ハルが…ここにいて当たり前だと思ってるから、だから一緒にいて楽しいとも思えるってこと?」

「うん、うまく言えないけどそんな感じ」

ハルは、また少し笑う。

「誰かに当然のように存在を認めてもらえるって、本当に素晴らしいことだと思う」

「特に、俺みたいなオオカミにとってはね」

「だからさ、梅ちゃん」

「そんなに自分を責めることってないんだよ」

「梅ちゃんが俺と過ごして楽しいと思ってくれるだけで、俺は梅ちゃんに守られてるって感じてるよ」

「梅ちゃんは、ちゃんと母さんとの約束を守ってる…」

すごく褒められたような気がして、梅子は恥ずかしくなった。

モジモジしていると、ハルが何やら口元に手を当てている。

「どうしたの?」

「いや、やっぱスマホなんてかじるもんじゃないよなって…」

「まだ破片がさ、口に残ってる」

「ジャリジャリする」

今度は、梅子が笑う番だった。


【5】

三上に部屋で襲われかけた後も、彼とは何度か会社で顔を合わせていた。

しかしその反応は、今までの三上らしからぬものだった。

一瞬目が合っただけで顔色が変わり、逃げるように梅子を避けていた。

いつか何かのきっかけでハルのことがばれるのではないかと、梅子は梅子でひやひやしていた。

しかし、そんな心配も長くは続かなかった。

三上は、会社を自主退社したのだった。

「一身上の都合」という理由らしかった。


「三上くん、急にどうしたんだろうね?」

三上が梅子に気があることを知っていた同僚たちは、何度か梅子にそう質問してきた。

しかし、それが続いたのも半月ばかり。

いつしか三上のことは話題に上らなくなり、みんな別の話で忙しそうだった。

いつもの毎日が戻り、梅子は安堵した。


*****


その日は、久々にみんなで囲む夕食だった。

「いやー、梅子ちゃんとハルくん、仲直りしてホントよかったっす!」

ハルと梅子の仲違いという今回の一件について、タローも少なからず責任を感じているようだった。

「タローくん、変な心配させてごめんね」

梅子が謝る。

「ちょっと梅ちゃん、ごはん粒」

ハルが、今度は自分の眉毛のあたりを指している。

「えー、ここ?」

「違う違う、反対のほう…そう、それ」

「もはやイリュージョン級だよ、どうしてそんなとこに付くわけ?」

「だってー」

いつもと変わらない、楽しい夕食だ。


「そうそう、そういえば」

ふと思い出したように、梅子が言う。

「ケンカしたときの晩、ハルが言ってたよね?」

「え、何を?」

ハルは、赤だしの豚汁に口をつけていた。

「何か、やりたいことがあるって…それって何?」

「ブーーーーーーーッ!」

味噌汁を拭き出したハルの顔が、みるみる引きつる。

「梅子ちゃん、その前は聞いてなかったの?」

すかさず、ヒューイが割って入る。

何か面白いことになりそうだと、ありありと顔に書いてある。

「うん、わたしが聞いたのはそこからなの」

「普段、何かやりたいってハルが言うこと、あんまりないじゃない?」

「何をしたいのかなーって、ちょっと気になって」

「ねえ、何?」

平和な夕食の時間に突如現れた落とし穴に、ハルの目は泳ぎまくる。

「ハルくん、目がクロールしてるっすよ、あはははは」

同じく何も知らないタローが、ハルのあまりの慌てように大爆笑している。


「あの、それはもういいから」

「ところで梶原のおばちゃんだけどね…」

吹いた味噌汁で汚れたテーブルを布巾で拭きながら、ハルは懸命に話を逸らそうとしている。

「えー、教えてよ」

「わたしに言えないようなことなの?」

梅ちゃんめ…いつもは割と早く諦めるのに、今日は妙に食いついてくるじゃないか!

女の勘というやつだろうか。


「梅子ちゃん、ヒントをあげようか」

「まずね、頭に“こ”が付くことだよ、ハルくんが()()()ヤリたがっているのは」

「ちょっと、ヒューさんは黙ってる!」

端正な顔でにんまりと笑うBL漫画家にちらりと横目で見られて、ハルは怖い顔でグルルと唸る。


「えー?」

「こ?何それ?」

「しかも、わたしとやることなの?」

「コマ回し、とかじゃないっすか?」

「タローくん、きみはちょっと黙っていよう」

ヒューイがたしなめる。

「お願い…もう詮索しないで…」

ハルは、両手で顔を覆って、椅子の上で縮こまっている。


ゴツくて繊細な大家のいるななし荘には、今夜も騒がしくて穏やかな時間が流れている。



完!


最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

今回のお話は、まだ物語のさわりの部分と考えています。

これから、また『ななし荘』のみんなの話を書いていければと思っております。

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