16
アリウム山脈で、シュウが竜博士を守り始めて六十日が経った。
想定では、兵隊たちが矢継早に送られてくるはずだったのだが、恐ろしいほど、山は静かであった。周りを囲んで、何か作戦を立てているのだろうということは、誰であれ察するところであるが、何の手も出していないところが実に不気味である。
シュウは、竜博士と特に言葉を交わすこともしなかった。竜に関する興味が、全くと言っていいほどないこともあるが、一番の理由はあれこれ聞いたところで役立てられないからである。
兵士に手をあげた以上、二度と王都へ帰ることはできない。この一件が済んだら、速やかに姿を消さなければならなかった。そのための準備はすでに整えてあり、デトルトの近くにある隠し港に、船が一隻用意してある。それに乗り、商船に紛れて海へ出ていく手筈となっていた。
竜博士シーラはほとんど毎日、一日中空を眺めていた。そしてある日、シーラ博士は言った。
「風の流れが変わったね。赤竜に何か起きたようだよ」
シーラ博士はシワだらけの顔を苦々しく歪ませ、言った。それを聞いてもシュウは眉ひとつ動かさない。彼女はそんな反応にもいい加減慣れたようで、独り言のように続けた。
「誰か余計なことしたんだろう。もうじき終わるというのに、なぜ我慢できんのか……。さて、うかうかしてられんぞ。赤竜に動きがあったと言うことは、こちらにも何かあるかもしれん」
それから何日かして、シュウは何者かの気配を感じ始めた。シーラ博士の読みが当たっていたのだ。
兵士とは違うが、野生動物ほどの精巧な隠れ方でもない。恐らく、この数十日で、隠れる術を訓練してきた相手だ。
しかし、気づかれているのだから大した連中ではない、とシュウはわざわざ探しにはいかなかった。獲物をおびき出すために、わざと気配を漂わせる方法も存在する。この気配が未熟な隠密術のせいであったとしても、そう確定させるにはまだ早い。
シーラ博士は危険だと言っても必ず外に出るため、その周囲を、シュウは休まずに警戒した。
何の行動も起こしては来なかったが、時が経つに連れ、気配の数が増えていた。最初はひとつか二つだった気配が、今や五つか六つに感じる。いいかげん、どうにかせねばなるまい、とシュウは重い口を開いた。
「博士、敵の数が増え始めています。そろそろ何か対策をしなければなりません」
「あんた、たまに喋ると碌なこと言わないね。好きにしてきな」
「しかし、離れた隙に襲われるかもしれません」
「わしを見くびるんじゃないよ。王子からも聞いているんだろう、『ストフィアン〈監視者〉』のことをさ」
「竜の監視をするため、古から存在する知識の体現者。そのように聞いていますが……」
「分かっているじゃないか。自衛の手段は星の数ほど持っているのさ。知識を悪用されないためにね」
シーラ博士はシュウを払うようにして、手を動かした。それを見て、シュウは迅速に敵を排除する方が良さそうであると判断し、動き始めた。
背には鞘に入った長剣を携えており、腰には投げナイフを左右合わせて十本用意してある。そのどれも、先端には猛毒が塗ってあり、掠っただけでも体の自由を奪える。
シュウは、岩の転がる一面灰色な山肌を見渡した。時刻は夕暮れ前で、まだ日は射している。身を隠しにくい時間帯だが、敵は見事に姿を隠していた。
しかし、気配はある。おびき出すため、シュウは風上に立った。
少しでも訓練を積んだのなら、敵に風上をとられることの危険性には気がつくはずだ、と踏んだのだ。危険を回避するため、この中のひとり、ないしはふたりが動くだろう。
シュウの予測通り、白い背景の中で、薄い影が動いた感じがした。
構える素振りこそ見せていないが、気は張っている。意識を研ぎ澄まし、飛来物に備えた。直接襲い掛かれる距離まで近づいてくれば都合がいいのだが、そこまで馬鹿ではないだろう。身を隠すということは、そのままでも攻撃出来る手段を持っていると思った方がいい。
そして、思惑通り、シュウの右側から弧を描くようにして、鎖のついた小さな鉈が襲い掛かった。
(ゲラの刃?)
シュウは屈んでその鉈を躱し、攻撃を仕掛けた者がいる方を見た。岩の色に溶け込むように、白い布で全身を覆ったスラシンが、ゲラの刃を振り回していたのだが、見覚えのある機構の手袋を装着していた。
自分たち、『蒼翠の槍』が、まだデトルトにいたころ、『スゥ・ラ・シン〈竜の牙〉』という名前で活動していたころに使っていた暗器であるゲラを、彼がなぜ持っているのか、疑問が浮かんだ。
誰かが情報を流したのか、と一瞬だけ仲間を疑いそうになったが、すぐに思い直し、あのうちのひとりを捕まえて聞けば早い、と結論を出した。
そうであれば、このような素人ひとりに構ってはいられない。シュウは長剣を抜いて、ゆっくりと歩み寄りながら言った。
「まず、腕を切り飛ばす。右か左か、好きな方を守れ」
予告することで恐怖を与えて、敵の動きを鈍らせる。選択肢を与えたようで、与えていない。彼が間抜けであれば、言われた通り、どちらかの腕を守るために、どちらかの腕を差し出す。これはそうやって使う、脅し文句であった。
スラシンは、爆破薬の入った皮の手袋を強く握った。シュウはあの皮の下に鉄板が入っていることを知っている。爆破と鉄板で剣を叩き折るつもりだろう。
走ることなく歩いてくるシュウに、スラシンはゲラの刃を飛ばした。しかし、正面から飛ばした刃を、シュウはいともたやすく弾き飛ばし、鎖を断ち切った。
シュウの反射と剣を振り下ろす速度は凄まじく、飛来する矢ですら平然と叩き落とせる。そうなるように、修練を重ねたのだ。
アゴルニアに来た時からずっと、団の管理はゲルドに任せ、汚れ仕事はデントに任せ、剣だけを振り続けた。たった数十日の訓練で、使いなれない武器を振るう彼らとは、一撃の重みが違う。
スラシンは武器を潰されて怯んだ。その隙を見て、シュウは腰の投げナイフを放ち、スラシンの喉を潰した。
流れ出る血を手で止めたくても、毒のまわりが早く、手がうまく動かないのだろう。かろうじて動く口で、彼は言った。
「嘘、だ。まず腕だって……」
「そんなことを言った覚えはない」
シュウは、彼の首を切り飛ばした。白い景色の中に、鮮血の赤が飛び散る。その様子に、仰天したのだろう、残りのスラシンたちは隠れることも忘れて、立ち上がっていた。
「貴様、何者だ!?」
「竜博士にこのような子飼いがいるとは聞いていない!」
スラシンたちは口々にそう言ってわめきたてた。シュウは、投げナイフを取り出しながら、言った。
「お前たちも一人前の兵だろう。予想外の事態に狼狽えて姿を見せるなど、愚の骨頂。未熟も良いところだ。うちの若いやつでもまだどうにかしようと足掻くぞ」
シュウは、姿の見えていて、遮蔽物のないところにいるスラシンへ、投げナイフを放った。白い背景の中で、滑空する鷹のように素早く迫る銀色のナイフなど、見えるはずもない。いとも簡単に、胴に二本のナイフが突き刺さり、その場に倒れ込んだ。
残りの人数は三人。シュウは視線を動かさず、残りのスラシンがどのように行動しているか、確認した。
全員が、示し合わせたようにゲラを構え、鉈を飛ばす準備を行っている。
(思考の統一化……。これは疑いようもない、デトルトの隠密の技術だ)
シュウとは違う部隊で行われていた思考統制の技である。そのころは、双子に生まれた者を合わせることがせいぜいと言われていたが、ここにきてこの人数で合わせたところを見られるとは、思ってもいなかった。
統制のとれた動きは、知識のないものには不気味であろうが、シュウのように理屈を理解しているものには、ほとんど効果が無い。
それに、全員の思考が統一されているために、ひとりが恐怖を感じたということは、全員が感じていると分かってしまう。知識のある相手に使うことがどれだけ危険なことなのか、経験の浅い彼らは理解していないだろう。
本来であれば、全員が同じ動きをするのではなく、ひとりを殺すために、攻撃の要になる者を決めて、他の者が命をかけて補助しなければならないのだが、それも出来ていないようであった。
三方向から放たれた刃を、シュウは最小限の動きで躱す。すでに、速度や距離は知っている。一番近いひとりとの間合いを詰め、鎖骨から脇腹へ、袈裟切りにした。凄まじい一撃のもとに、骨すら断たれ、ずるり、と肉体が切断面に沿って崩れる。
シュウの背後から、二人のスラシンが拳を振り上げて飛びかかった。ゲラの爆破は侮れない。しかし、弱点もある。
シュウはひとりの拳を避けると同時に、足をすくって重心を崩し、転ばせる。迫るもうひとりの、ゲラがついている方の手首を、剣で切り飛ばした。そして、流れるようにして、その首も跳ね飛ばす。容赦なく、必ずトドメを刺す様は、子供のころから大人相手に命のやりとりをしていたことによる、圧倒的な戦闘経験から来るものであった。
シュウは、剣の鞘を外し、転んでいるスラシンのゲラめがけて振り下ろした。
すると、炸裂音が響き、剣の鞘は粉々に弾け飛んだ。しかし、ゲラの方も反動の衝撃が逃げ場を失い、スラシンの右手を中に入った鉄板で押しつぶしていた。
「さて、話をしようか。お前らの正体は、おおかた想像がつく。あと何人いる?」
スラシンは、歯を食いしばって耐えていた。シュウは、彼の左手を剣で地面に突き刺して、潰れた右手を足で踏み、彼に聞いた。
「あと何人だ?」
シュウがさらに強く踏むと、スラシンはもう我慢ならないと口を開いた。
「……もう、いない。あとひとり居たが、ダンロンの街で小僧にやられた! お前らの仲間のやつにだ!」
小僧と言われて、すぐにシュウはシンが思い浮かんだ。シンに倒せるような強さしかないのなら、彼が嘘をついていたとしても、問題はないと判断した。
「聞きたいことはそれだけだ。時間を取らせたな」
「ま、待て、助け……」
躊躇なく彼を切り殺し、シュウは剣についた血を振り払った。
「殺したのかい?」
シーラ博士が、赤く染まった一面の血の海を見て、淡々と言った。
「殺さなければこちらが殺される」
シュウは辺りを探ったが、何の気配も感じない。本当に彼らだけしか来ていなかったようであった。
「博士、ここを離れることを提案します。このような手合いを使ってくるのです。じきに、物量で押しつぶされるでしょう。そうなれば守りきれません」
「死ぬのが怖いかい?」
「いえ、王子の命令を遂行できなくなることが、残念なだけです」
「可愛くないね。わしは動かんよ。もう、役目を終えた命だ。囮くらいやらないでどうする」
「では、もう弟子の方に?」
「『ストフィアン〈監視者〉』としての知識も力も、弟子に移した。わしはただの老いぼれさ」
空を見上げて、博士はそう言った。
「でも、こんな老いぼれでも、赤竜の人化には興味があるんだよ。竜博士としてではなく、わし個人の感情としてね」
「だったら、死ぬわけにいかないでしょう。ほとぼりが冷めたころ戻って来る方が、まだ会える可能性があります」
「なんだい、その時まで付き合ってくれるってのかい?」
博士は冗談めかして言った。
「私の任務は、あなたを守ることです」
「王子がそれを許すかね」
「すでに、私兵としての任は解かれています。グレン王子は、我々を完全に解体して、王位を継いだ時に憂いを残さないようにするつもりのようです」
「もうこそこそやるつもりはないってことかい。そりゃけっこう。王子は何が何でも竜を味方につけるつもりなんだね」
人を殺めるための武器を捨て、竜と手を結ぶ。それこそグレン王子が本当にやろうとしていることであった。
「あんたもわしも、この世界では用済みってわけかい。まったく、面白い巡り合わせだね。いいだろう。あんたの口車に乗ってやるよ。それで、勝算はあるのかい?」
「兵の間を抜けるだけなら、それこそ我々の専門。夜闇に乗じて、デトルトまで走り抜けましょう」
「老人に無理をさせるんじゃないよ。まあでも、楽しそうだ。でも、今すぐじゃあないよ。敵の目を引いてないといけないからね。次に竜の動きがあったら、その提案に乗ろうじゃないか」
にやりと不敵な笑みを浮かべるシーラ博士に、シュウは力強く頷いた。




