12
夜が深まり、月が真上に昇るころ、シンは肌の露出している部分に泥を塗り、夜闇に溶け込むようにして木の根元から這い出た。
このやり方は、夜に動物を狩る時に使う、と教えられたものである。肌の色を隠し、光の反射を極力抑えることで見えづらくするものである。人間相手に有効であるかは分からなかったが、やらないよりはいいだろう、と判断したのだ。
音が鳴っては困るため、剣はトラッシュの元に置き、自分は小さなナイフだけを腰に備えた。使うつもりはないが、念のために持っておくことにした。
高台の広場には、テントとその周辺でうろうろする衛兵の姿が見える。気を抜いているのか、雑談をしているようであった。
シンは足音を消して、灯りの届かない範囲まで近づいて、待った。彼らが会話を終え、ひとりになったところで、後ろから首に腕を回して声を封じ、気を失わせた。
「ごめん。少し借りる」
暗闇に引き込み、服を脱がして、シンは衛兵の格好に着替えた。頭には無造作に置かれていた兜を被り、顔を隠すと、少し離れたところから衛兵の寝泊まりするテントに走り込んだ。
中では恐らく衛兵の隊長であろう男がひとりで部下の報告を待っていた。シンは、息を切らせる演技をして、彼の前に立った。
「何事だ!?」
「報告します! 逃亡中の男と思わしき者を街の西部にて発見いたしました! 現在、三人で追っております!」
「でかした! すぐに近く者と向かおう!」
隊長はすぐに剣を腰につけ、テントから出ようとした。しかし、ふと動きを止め、シンに言った。
「お前、所属はどこだ? すまないが、見覚えがないように感じるのだが」
「はっ、自分は王都から派遣された者であります。緊急の人手不足である、と指令を受けたので、馳せ参じました」
「スラシンからの指令か? お前も大変だな」
隊長は怠そうにして、シンの前から姿を消した。
(なんとかなったか……)
シンは机の上に広げられた街の地図に目をやった。赤い線の引かれているところは巡回ルートなのだろうということが分かる。穴のできないよう、張り巡らされた警戒網の描かれた地図を見る限り、誰にも見つからず外へ出る道を探すことは容易ではない。
現在の警戒態勢では巡回の時間も当てにならないと考えて良いだろう。いかに誰とも出会わずに歩くかよりも、出会った時の対処を考えておいた方がいいかもしれない。
シンは、トラッシュをテントの中へ呼んだ。この辺りの衛兵は全て偽の報告のために街へ降りて行ったことを確認している。
「どうやれば出られそうか分かるか?」
自分よりも地理に詳しいであろうトラッシュに、シンは地図を見せた。しかし、彼にも確実に安全な道は分からないようであった。
思案しながら辺りを見回すと、トラッシュは壁に貼り付けられた小さな紙を見ていた。そこに書かれていたのは、スラシンから隊長へ宛てられた、エルファイン語を用いて書かれた暗号文であった。
シンには奇妙な落書きにしか見えないそれを、トラッシュは読んで言った。
「下手な字ですが、指令書のようです。これ、シンさんの捕獲に生死は問わないって書いてありますよ」
シンは、それを聞いても平然としていた。
「捕まればたぶん消される。それはいいんだ。ミリアを救えないまま、捕まるくらいならね。まあ、見つからないようにやる。とにかく、ここから移動しよう。今はまだ安全だろうけど、彼らが戻ってきたら危ない」
シンはトラッシュを連れ、高台の上から下の街を覗いた。
暗いため、松明の明かりがよく見える。衛兵であるかどうかは分からなくても、誰かがそこにいることは分かる。その道を避けて歩けばいい。
シン達の周辺には誰もいないことを確認して、高台を降り、路地へと入った。トラッシュは街の構造をよく理解しており、なんとか外に出られる門へ向かって進めていた。
気配を察知して道を変え、安全な通路を渡っていけるはずだった。しかし、そう上手くはいかない。徘徊している人数が多すぎたからである。
丁字路の左右から、衛兵たちの松明の灯りが見える。どこかで姿を見られたのか、間違いなく迫ってきている。戻ろうとすると、背後にも灯りが見えた。三方向から囲まれていた。
相手の人数は、おそらく四人が三組の十二人。戦うことが馬鹿らしく思える数である。
シンは隠れられそうな場所がないか、辺りを見回した。ここは大通りからひとつ離れた細い通りで、曲がり角の多い道である。両側は民家の裏であり、ガラスのはめられた窓はあれど、扉はない。
屋根の上には、ひとりなら上がれそうだったが、トラッシュを連れてはいけないだろう。
(一か八か……!)
シンは足元に落ちていた石を拾い上げた。
「僕が石で向こうの窓を割ってやつらを引きつける。君はそこの窓に飛び込め。あとは、外で落ち合おう」
「わかりました。サイネリアの森は王都と反対の方向の門です」
「ああ、分かった。じゃあ、いくぞ」
石のひとつを、出来るだけ離れた窓へ向かって投げつける。それと同時に、トラッシュは近くの窓へ飛び込んだ。ガラスの割れる大きな音がして、衛兵たちの足が早まる。
シンは、衛兵たちに自分の姿を見せるため、少し待ってから、石を投げ入れた窓へ、飛び込んだ。
そしてそのまま、誰の家とも分からない室内を駆け、大通りへ飛び出した。
外は、大変な騒ぎになり始めた。シンが見つかった、と衛兵は騒ぎ立て、続々と集まってきている。
門の方向は分かっているが、そっちへ向かえば簡単に出口を固められてしまうだろう。シンは反対に、街の奥の方へと駆けた。後ろは崖になっているため、ダンロンの街の出入口は草原の方にしかない。
囲まれないためにも近くで見つかることは避け、なおかつシンがそちらへ逃げていることを匂わせるために、衛兵とつかず離れずの距離を保ちながら走った。
充分に走り、彼らの巡回ルートを引っ掻き回したところで、シンンは木の上に身を隠した。集まった衛兵たちはその周辺に固まっている。
シンは物音を立てないようにして、木の上から民家の屋根へと移った。雲ひとつない夜空に、星の明かりがあるため、周囲が見えないということもないが、逆に下から見上げれば、夜空に人の形が浮かび上がってしまう。
ゆっくりしていられない、とシンは走った。門の方へは真っ直ぐ行けば良い。これだけ衛兵を引きつけたのだから、トラッシュはもう外へ出て行けただろう。
駆けていくシンは、ふと背後に何かの気配を感じて、身をかがめた。
すると、今まで身体のあった部分を、銀色に光る投げナイフが通過して行った。
闇に溶け込むようにして、全身黒い服を着たスラシンが立っていた。シンには彼が、あの宿屋で探っていた人物だということが分かった。黒い革の手袋にも、何かついているのか、明かりが反射して光っている。
(あれは、暗器? たしかデントさんが使ってた……)
シンはその不思議な武器をデントから見せてもらったことがあった。通称『ゲラ』と呼ばれる暗殺のための道具であり、あの銀色の部分には、衝撃で破裂する薬が入っている。拳で殴ることで、肉をえぐることの出来る暗器だ。さらに、手首のところには鎖のついた小さな鉈がある。振り回して敵の体に食いこませ、その隙に近づいて殴るためのものだ。
デントはその鉈の部分に毒を塗って使うと言っていた。スラシンの彼もそうであると考えるべきである。
道具の使い方を知っているとはいえ、デントに動きを見せてもらった時は、躱すことすらままならなかった。鉈の飛距離は体が覚えているが、先端の早さは弓矢のそれすら超える。投げられてから躱すのは、不可能だろう。
シンが身構えていると、スラシンは口を開いた。
「まず、右足をもらう」
攻撃する箇所の予告をすることで、そこに意識を集中させる戦い方だ、とシンは察した。デントからも同様のことをされて、まんまと引っかかった思い出がある。だから、シンは至って冷静であった。右足だろうが、別の部位だろうが、毒をもらわないためにも、どうにか無傷で逃げ出さねばならない。
シンは彼が間合いを詰めようと動いたところで駆けだした。行先は門ではない。懐から黒い小石のような形をしたブラックウィードをひとつ取り出して、手の中で殻を割る。中から出てきた大量の粉末が、握った手の内いっぱいに広がった。
スラシンは素早くシンを追っている。少しばかり彼の方が早く、追いつかれるのも時間の問題であった。
シンは、屋根伝いにいけるところまで行き、どこにも進めなくなったところで立ち止まった。スラシンもシンが諦めたのだろう、と思ったのか、歩みを止めた。
「なあ、捕まえる前にひとつ教えてくれないか?」
もうどこにも逃げる場所がないのだから、安心しているのだろう、と見た目から分かるほどにスラシンは緩慢な動きであった。何も言い返しては来ないが、武器を飛ばしてくる様子もない。
「なんで、僕がこんな目にあっているんだ?」
騙りではなく、シンは正直に思っていたことを聞いた。
「貴様には捕獲命令が出ている。死ぬよりも辛い目にあうだろう」
スラシンはそう答えた。シンの脳裏にはジルベルトの姿が浮かんだ。関連付ける確固たる証拠があるわけではない。しかし、イメージとして結びつけるのは容易かった。
「そうか。僕も拷問にかけるのか?」
「それは貴様次第――――」
スラシンは急に話すのを辞め、両手で目を覆った。
シンは風上へ向かって逃げていた。少し勾配がつき、相手よりも高い位置から、刺激成分のあるブラックウィードの粉末を風に乗せて撒いたのだ。
ブラックウィードの刺激成分は、粘膜に触れると凄まじい痛みを発する。場合によっては炎症や後遺症も引き起こすことのある劇薬である。どれほど頑強な者であっても気絶してしまうほどの痛みが常に襲い来るのだ。
スラシンも最初は苦しんでいたが、すぐに気を失った。目はもちろんのこと、喋ったことによって口内にも入り込んでいる。医者にでも診てもらわなければその痛みはぬぐえないだろう。
「ごめんね」
シンはそう言って、彼の脇を抜け、ダンロンの街から脱出するため門の方へ急いだ。




