12
「こっちよ。足元に気をつけてね」
ミリアは何の目印もない藪の中を、慣れた足取りで進んでいく。シンも山の中を歩く訓練はしたが、それでも置いて行かれかねない速さであった。
色づいた木々の合間に浮かぶ赤い頭を追って、シンはひたすら進んだ。同じ景色の中を上ったり下りたりして、どれだけ進んだか分からなくなり始めたころ、ミリアは洞窟の前で止まった。
「どこまで行くのかと思ったよ。ここに何があるんだい?」
「まだ行くわよ。中は暗いから、私の手を握って」
ミリアが出した左手を、シンは恐る恐る握った。女性の手など握ったことはないのだ。どれくらいの力を込めていいものか分からず、握ると言うよりは、そっと触っていた。
「……どうしたの?」
ミリアはきょとんとした顔で聞いた。
「え、ああ、大丈夫」
シンの声が少し上ずったことで、ミリアも気がついたのか、彼女の方から強く握った。
「あっ、ごめん。私、そういうところ疎くて」
ミリアはシンの手をぎゅっと握って、言った。シンと違い、緊張とは無縁なようで、震えても、汗ばんでもいなかった。
「足元見えないと思うけど、しっかりついてきてね。踏み外したら、たぶん死ぬから」
外からの明かりが入って見える部分にそれほど危険があるとは思えないが、少し奥まで進むと、シンにもその意味が分かった。
何も見えないが、通り抜ける風と反響音が、その空間の広さを物語っている。通路は足の幅よりも少し広いくらいで、下は見えないが、落ちたら無事では済まないだろう。
歩きながら、シンが不安がっていることに気がついたのか、ミリアは話し始めた。
「この辺りの山はね、地下に大きな空間が空いているところがたくさんあって、これもそのうちのひとつなの」
「どうやって出来たのかな」
「今よりもずっと昔、竜の眷属がたくさんいてね。『土潜み』って呼ばれていた彼らは、今地上に住んでいる種族の人間たちとあまりにも生態系が違っていたから、どちらが地上に住むか揉めて、戦争になったわ。そして、彼らは負けたの。その中のある一族は地下に追いやられて、こんなふうに大きな洞窟を掘って、そこで暮らしたのよ」
「それって、蛙人のこと?」
「蛙人……? 『キュ・ラ・スゥ』のことかしら? 『土潜み』は『ソォ・ラ・スゥ』って呼んでいたから、多分違う眷属だわ」
「その、ラ、とか、スゥ、とかって、どういう意味?」
「ええと、アゴルニアの言葉に置き換えると……。『キュ・ラ・スゥ』を例にするなら、キュが『緑』、ラが『の』で、スゥが『竜』になるわ」
「それだと、緑の竜って意味になるけど……」
「そうよ。だって、人間は自分のことを人間って呼ばないでしょう? これは、竜たちが自分の眷属を呼ぶときに使うものなのよ」
「ちなみに『ソォ・ラ・スゥ』は?」
「『土の竜』よ」
ふたりは大きな洞窟を抜け、小道へと入った。今度は近くに壁を感じることが出来て、シンは少し安心した。
しかし、依然視界は暗闇であり、ミリアが何を頼りにして歩いているのか全く分からない。
そんなことを考えていると、先の見えない洞窟探索は唐突に終わった。
「ちょっと待ってね」
ミリアが手を離してそう言った。何が起こるのか、とシンが見守っていると、不意に、辺りが明るくなった。
赤く光る木の実のような小石のようなものが、細い石の棒からぶら下がっている。そのひとつひとつがランプのように光って、一面を照らしていた。
「これって……」
「そう。私が食べている赤い木の実は、これ。本当は、『竜の実』って言ってね。木の実じゃないの」
シンの視線は、徐々に上がっていく。天井まで広がる不思議な光る実が照らしていたのは、大きな石像であった。それは、シンの持っている知識の中で言い表すなら、竜そのものであった。
トカゲのように長い顔と首を持ち、ずんぐりとした胴体からは二本の腕と足が生えている。たたまれた翼が、肩越しに見えている。
その石の竜は、まるで空を仰ぐように顔を上げたまま、固まっていた。身体のいたるところから光る木の実が生えており、竜はまるで灯りを吊るすための置物のようであった。
「びっくりした?」
「……どう言ったらいいか、分からない」
「そうでしょう。この大きな竜が、今あなたたちが血眼になって探している、赤竜よ」
「生きているのか?」
シンがそう聞いたのは、目の前の巨体が動く姿が全く想像出来なかったからである。しかし、ミリアの返答は、シンの予想とは違っていた。
「残念ながら生きているわよ」
「……本当に?」
「ええ。こうして元気にね」
ミリアはくるっと一回転した。
「待ってくれ。全然、わけがわからない。どういうことなんだ?」
「私よ。私が赤竜で、あれは昔の体。竜の力を実に変えて、少しずつこっちの体に移してるの」
シンは言葉を失った。あまりにも、受け取った現実が大きすぎて、手に余る感覚を味わっていた。
「放心しているところ悪いけど、まだ話を続けてもいいかしら? 分からなかったら、何度でも説明してあげるわ」
シンはただ黙って頷くことしかできなかった。
「赤竜がモーゼス王に封じられた三百年っていうのはね、竜が人に変わるまでに必要な時間のことなの。それが、三百年。一気に変わることも出来るのだけど、そうすると、人の体じゃ耐えられなくて、竜だったころの記憶がほとんど失われてしまう。それじゃ、死ぬのと変わらない。そうならないために、時間をかけて、体を変えたわ。最初の年から数えて、今年がちょうど三百年目。実の数も少ないでしょう? これがなくなったら、終わりなの」
「待って、待ってくれ。まず、君は悪い竜なのかい?」
「そう見えるかしら?」
「正直、今は何も信じられない」
「だったら、その質問は置いておきましょう。ゆっくり考えて、あなたが判断してちょうだい」
彼女は優しく微笑んだが、シンにはミリアが何を考えているのか、全く理解できなかった。
「私もね、実は今年が三百年目だなんてこと知らなかったのよ」
「え?」
「グレン王子が、荷物を置いていったでしょう? あの中に手記があってね。そこに、私が姿を消してから、アゴルニアでどういう風に扱われていたか、書いてあったわ。客観的な歴史を記したもので、たぶん、誰かに教えるために作ったものだったのでしょうけど、それでだいぶ、私の立場も、鎮竜祭のことも分かったわ」
ミリアは竜の体に触れながら、遠い昔のことを思い出すような表情を浮かべて、話し始めた。
「……私はね、人に憧れたの。他の竜から馬鹿にされたけど、でもどうにかして人になりたかった。だから、その当時の竜博士でもあったモーゼス王に相談したのよ。答えは簡単に出たわ。人型を作って、それに少しずつ移っていけばいいって。竜としての体は完全に石になってしまうけど、そうすれば人になれるって教えてもらったの」
「そこまでして、人になることないと思うんだけど」
シンが率直に感想を述べると、彼女は身を乗り出して言った。
「だって、楽しそうじゃない! たくさんの仲間に囲まれて、綺麗なお洋服を着て、美味しいものもたくさん食べられて。それって全部竜には出来ないことなのよ?」
彼女の表情は、明るく輝いていた。
「それはそうだけど……」
「だから私は、何年かかってでも人になることにしたの。竜なんてちっとも楽しくない。何もしていなくても他の生き物から怖がられて、逃げられて、友達なんて出来ないし」
「竜の友達がいるだろう?」
「あなた、竜に会ったことないのね。竜は友達にはならないわ。その理由を教えてあげる。私の眼を見て」
シンはミリアの金色に輝く瞳を覗いた。何が起こるのか分からないが、綺麗だな、とそれだけを思った。
「今『綺麗だな』って思ったでしょう?」
考えたことをそのまま言い当てられ、シンは動揺した。
「分かるのかい!?」
「ええ。竜には相手の心が読めてしまう。読みたくなくても、分かってしまうの。だから、竜は友達にはならない。相手のことが、眼を見るだけで全部分かってしまうから、興味が沸かないの」
「……じゃあ、僕のことは全部知っていると?」
「いいえ。竜のころならすぐ分かったでしょうけど、今は表面上の感情を読み取るのが精いっぱい。私が知っているのは、あなたが悪い人ではないということだけよ」
人を信用できるかどうか、そうやって判断するしかないのだ、と彼女は言う。言葉よりも能力を信じるところが、彼女らしいところであった。
「そういうわけで、私は人になろうとして、今年の冬でちょうど三百年になるのだけど、ひとつ、大きな問題があるの。私がアゴルニアでどういうふうに言われているか、知っているでしょう?」
「国の半分を滅ぼした悪い竜だって、言われてるね」
「つまり、私を見つけて殺せば、それだけで国一番の英雄、いえ、歴史上最も勇敢な者とでも語られるでしょうね」
今の話を聞く限りでは、ミリアがそのようなことをするとはとても思えなかった。
「なぜ、そんなことになっているんだ?」
「この実が原因なの。竜の作り出せる実には、特別な力がある。人が食べたら、人の枠を大きく超えた、竜の力を簡単に得られるわ。もちろん、良いことばかりじゃないけど、それでも、モーゼス王の息子はそれを欲しがった。戦争をするための、兵隊を作るために」
「モーゼス王の息子が、話を捻じ曲げたってこと?」
「一代だけじゃなくて、二代、三代と順を追ったのでしょうね。時を経て、それが疑いようのない真実となって、民衆の間に根付くくらいに」
シンにもそれは理解できた。三百年も前の話を都合の良いように改変して伝えることくらい、王族なら出来るはずである。
何よりも、竜博士を血眼になって探していることがその証拠でもあった。王宮に、竜に関する正確な記述が一切残っていないのは、全て消してしまったからだろう。
「この実を全部食べ終えたら、私はここから出ていける。でも、完全に人になってしまったら、心を見透かす力もなくなる。だから、信頼できる人が必要だった」
「僕をそう買いかぶってくれているのは嬉しいけど、三百年経ったら、誰にも知られずこの国から出ていくことだって出来ただろうに」
「そうしようにも、私は人の文化に詳しくないわ。知っていることだって、三百年も前のことだし……」
ミリアは途端にしおらしくなり、そう言った。
「事情はなんとなく、分かった。君が元竜で、人になったことも、これを見たあとだと信じるしかない。理解できないところはまたあとで思った時に聞くことにするよ。それで、君はどうしたいんだ? 僕には分からないんだ。悪人から守ってほしいのなら、僕は役に立てない。王子に話して、身柄を保護してもらった方が、まだどうにかなるよ」
「違う、違うのよ。それに、最初に話したじゃない。王子様はダメだって。どう言ったらいいのか私も分からないのだけど、私はあなたを信頼していて、あなたも私を信用している」
ミリアは次第に小さくなっていく声を張り上げるようにして、言った。
「人になったら、人になれたら、私と一緒に暮らしてほしいの! あなたのことが好きだから!」
今日一番の驚きであった。まさか、彼女がそんなことを言うだなんて夢にも思っていなかったからだ。
「……ダメかしら?」
驚いて固まったシンに、ミリアは伺うように聞いた。
「ええと、その、僕も嬉しいよ。でも、僕は王子から君をここで見守るよう言われてる。これは仕事なんだ。この任務を解かれない限り、僕は君と、そういうことはできない」
「ええ。分かってるわ。あなたは真面目な人だから、そう言うと思った。だから、今はあなたの気持ちだけ聞かせて」
シンは彼女を真っ直ぐに見つめて、言った。
「本当のところ、僕は君のことが頭から離れない。好きだ、ミリア。一緒に暮らしたいと言ってくれてありがとう。僕もおなじ気持ちだ」
「……本当に?」
「心が読めるのに、そんなこと聞くのかい?」
「あなたの口から聞きたいの!」
怒るミリアを見て、シンは苦笑して言った。
「本当だよ。誓って、本当の気持ちだ」
「……嬉しい!」
ミリアはシンに抱きついて、しばらく、本当に嬉しそうに笑っていた。
「もうひとつだけ、頼んでもいいかしら?」
「いくつでも、頼んでくれ。僕にできることなら、なんでもやるよ」
「次の鎮竜祭に、連れて行ってほしい。三百年が経って、ようやくここから離れられるから、私も、祭の様子を見てみたいの。それが終わったら、ううん、それから考えましょう。ふたりで」
「次の鎮竜祭か。分かった。必ず迎えに来るよ。でもそれまでにも、何度か足を運ぼう。できるだけ、傍にいたいしね」
「ありがとう、シン」
シンは、急に照れくさくなり、困った顔で頭を掻いた。
 




