99帖 明日への約束
今は昔、広く異国のことを知らぬ男、異国の地を旅す
熱いシャワーで砂を流した後、少しだけ窓を開けて涼しい風を浴びる。今夜の風はいつもに増して冷たい。寒くなりそうやのにシャワーから出てきたパリーサは、またシルクの布だけを纏って髪の毛を乾かしてた。
「今夜は寒なるし、トレーナを着た方がええで」
「ううん、これでいいの。トレーナはシィェンタイが明日持ってくでしょ」
トレーナとジャージは、パリーサがちゃんと洗濯して干しといてくれてる。そこは気が利くんやけど……。
「そんなんええんやで。やっぱ寒なるから、風邪引いたらあかんし……」
「いいの。そのかわり……シィェンタイが私を温めてくれる?」
その言葉にハッとして、僕はパリーサに近寄りそっと抱き上げ、ベッドに連れていく。布団を被せ僕も中に入った。
「もし、寒なったらトレーナを着るんやで」
「うん、わかったわ。そうならない様にちゃんと温めてよ」
「分かってる。パリーサも僕を温めてや」
「いっしょに温まろ」
「そやな、最後の夜やし」
「……」
パリーサは黙ってちょっと不機嫌な顔をしてる。
「ごめん。来年、また会えるから」
「来年ねぇ。1年かぁー、長いなぁ」
「……」
確かに1年は長いと思うし、なんも言えんかったわ。
「じゃ今晩は、1年分……愛して」
僕は時計のアラームを6時にセットする。
「よし、これで朝まで大丈夫や」
「大丈夫?」
「大丈夫や。僕もパリーサも明日はバスに乗ってるだけやから……。今夜だけは寝たないねん。それでもええか?」
パリーサは笑顔で頷くと、静かに目を閉じる。僕はパリーサの身体に腕を回し、そっと抱き寄せた。
まだシャワーの予熱でパリーサの身体は火照ってたし、いつも以上に温かく感じるけど、この温もりも今日で終わり。明日からパリーサなしで大丈夫やろかと少し不安にはなってた。
そやし僕は体中でパリーサの温もりを受けとり、体中を擦って気持ちを伝えた。パリーサもそれに答えるように僕の身体にしがみついてきた。
不思議と意識ははっきりしてたけど、僕とパリーサの身体の区別が無くなってくる様に思えた。さほど時間も掛からず身体が溶けて僕らはまた一つに混ざってく。
そうなると言葉に出さんでもパリーサの気持ちが伝しみじみとわってくる。僕のことを想ってくれてるんが良う分かる。うれしかった。
僕もパリーサに対する想いを心の中で唱えてみる。
『ありがとう……、僕のことをこんなに愛してくれて。ありがとう……、やっぱ離れたない。ありがとう……、僕も……パリーサを愛して……』
するとパリーサはハッと目を開け、嬉しそうに微笑んでくれた。僕はそのまま唇を重ね合わせる。意識が遠のき、パリーサの中の奥深くに沈んでいく。パリーサに包まれ、すごく安らかな気持ちになっていった。
カーテンに朝日が映し出されても僕らはお互いの事を想って気持ちを重ね合わせてた。1年分には程遠いかも知れんけど、それこそ寝る間を惜しんでお互いの愛情を交錯してた。
そやけど無情にもアラームは高い音を立てて部屋中に鳴り響く。とうとう別れの時が来てしもた。
「シャワーを浴びるわ」
そう言うパリーサは意外とあっさりしてた。ひとりベッドに取り残されると、酷い焦燥感に駆られるのが分かった。
パリーサが一時でも傍に居んと、なんか辛かった。
じっとしてられん様になり、僕は直ぐにシャワールームに向かってベッドを飛び出した。
中に入るとパリーサは驚いた表情をしてた。そやけど、パリーサは僕の気持ちを察して笑顔で優しく受け入れてくれる。二人で濡れながら最後の時を、別れを惜しむ様に抱擁した。パリーサの身体は震えてた。流れる水で分からんかったけど、パリーサは涙を流してた。僕の胸の中でパリーサの顔がくしゃくしゃになっていくんがわかった。そして声を上げて泣き始めた。それを僕はギュッと抱きしめると、僕も涙が出てきた。声を出さんように泣いた。そやのに僕の身体は震えるまくってる。それをパリーサはしっかりと受け止めてくれた。
やっぱり僕は弱い人間やと思た。最後の最後まで、僕はパリーサに甘えっぱなしやった。
ホテルの外は、日差しは眩しかったけど、ひんやりとした空気に包まれて穏やかやった。空から降ってた砂は止んで、今日は空は雲ひとつ無い快晴。
パリーサは、昨日降った砂を掃いてる服务员(従業員)の横を通るたんびに、何か声を掛けてた。パリーサもホテルの服务员やからその苦労が分かるんや。そんな微笑ましいパリーサを横目に僕らはバスターミナルを目指して歩いた。
途中、パリーサの朝御飯に饅頭屋で包子を買う。そして銅像のある広場に来ると、あのヨーグルト屋さんの屋台に向かう。そこでヨーグルトを買うて、またあの時の様に石段に座り二人で食べた。前食べた時はまだまだ一緒に過ごせると思てたけど、今はあと少しでお別れや。そう思うと、もっと充実した過ごし方があったんとちゃうやろかと思て少し後悔してた。すると不思議なことに、そんな僕の気持ちをパリーサはいとも簡単に見透かして呟く。
「あの時は楽しかったね。本当に素晴らしい毎日だったわ。シィェンタイ、ありがとうね」
ほんまに不思議な子やと思た。そんなパリーサが居らん様になると思うと、やっぱり心が詰まって何も言えんかった。僕こそ、感謝の気持ちでいっぱいやった。
瓶を返して、また二人で歩き始める。もうすぐバスターミナルや。近づくにつれ、僕はパリーサの身に不安を憶えてた。
それは、カシュガルに来るまでは僕らと一緒に行動してたから良かったけど、帰りは一人やし、何事もなく無事帰れるかと言う不安やった。その事をパリーサに伝えると、一瞬顔色が曇ったけど直ぐに明るく、
「大丈夫よ。私はあなたのものだもの」
と言うてきた。そう言うてくれるんは嬉しかったけど、それは僕を安心させるためのパリーサの優しさやと思うと、現実問題としてどうしようか悩んでしもた。運転手に金を渡しとこか……。
2泊3日のウイグル少女の一人旅。食事は、宿泊は、誘惑されたり襲われたらどうしよう……。頭の中に不安要素が次々と浮かんできた。
僕の不安は解決の糸口さえ見つからへんままバスターミナルに着いた。ターミナルはいつもの如く大勢の人の喧騒で満ちてる。
吐鲁番(トルファン)行きのバスを探と、行きとよく似た少し大きめのマイクロバスに「吐鲁番」と書かれたバスがターミナルの真ん中にあった。
そのバスに近寄ると、パリーサはバスの前に立ってたウイグルの夫婦の元へ声を上げて走り出した。その夫婦は驚いた様な顔をしたけど、パリーサの姿を見付けると親しげに声を掛けてた。パリーサの知り合いかな?
暫く話した後、パリーサはその夫婦に僕を紹介してくれた。それを聞いたおばさんは僕を見て驚き、そして愛でる様にパリーサを抱擁した。ウイグル語で話してるし、何やろと思てたらパリーサが説明してくれた。
この夫婦はパリーサの友達のお父さんとお母さんで、もちろんトルファンの近所に住んでるから一緒に連れて帰ってくれるらしい。
「だからシィェンタイ、安心してね」
「そうか、よかったな。ラッキーやな」
これでパリーサは無事に帰れる。おばさんは僕に、
「任せときなさい。ちゃんと送り届けるわよ」
みたいな事を言われた。そやし僕は日本語やったけど、
「宜しくお願いします」
と深々と頭を下げてパリーサを託すと、おばさんも同じ様にお辞儀をしてくれた。
その夫婦とパリーサは一緒にバスに乗り込む。席を確保したパリーサはバスから降りてきてくれた。
僕らはバスの後部に行き、ディーゼルの排気ガスが辛かったけど、お互いを見つめて立ってた。
見つめるだけで何も言葉が出てこんかったけど、別れが辛いという気持ちは無かった。
パリーサも笑顔やった。
カシュガルでの一週間が、ずっと一緒やった日々の思い出が頭の中で蘇る。辛い事も嬉しい事も甘えた事も、そして何気ない日々の生活の全てが楽しかった。今思うとパリーサが付いてきてくれた事で僕は救われたんやと、パリーサへの感謝の気持ちで一杯やった。
パリーサも何か言いたげやったけど、ニコニコと微笑むだけやった。お互いに見つめて何となく笑ろてた。
「そや、これ。僕はもう要らんし、パリーサ使こてや」
とポケットの人民币(中国の紙幣)を全部パリーサに渡す。
「いいの?」
「ええねん。もうパキスタンに行くさかい、要らんやろう」
「それじゃねぇ……。これは持ってて。また来年要るでしょう」
札束の中から100元札を1枚、僕に返してきた。
「そやな。またトルファンに行く時に使うわ」
「うん。私も大切に取って置くわ。来年まで!」
「そうや。また来年や!」
再会を約束し、また笑顔で見つめ合う。希望に溢れるええ雰囲気やったけど、運転助手の兄ちゃんの一言でその時は終わった。
「出発するから」
パリーサをバスの乗り口へ連れていく。
「そしたら……、めっちゃありがとう。パリーサ」
「ありがとう、シィェンタイ」
「必ず……、来年」
「ええ、待ってるわ」
そう言うとパリーサはバスに乗り込み、振り向いて笑顔で手を振ってくれた。
僕も手を振り返す。
『待ってるわ』
それがパリーサの最後の言葉やった。
ドアが「バタン」と閉まり、全てを断ち切るかの様に僕の心にズシンと響いた。身体から血の気が引く様な感覚に襲われ足が震えた。それを補うかの様に心臓が激しく鼓動する。
ギアがローに入る低い音が響き、エンジン音が高まる。僕の気持ちも高ぶった。
そしてバスはゆっくりと動き出す。僕はバスに付いてターミナルの出口まで走った。
ターミナルを出てバスが右に曲がる時、窓からパリーサの顔が見えた。さっきまでの笑顔は消え、涙でくしゃくしゃになった顔をガラス窓に押し付け、泣きながら僕を見つめてた。
そんな顔やったけど僕には素敵に思えた。涙で濡れた青い瞳。それを絶対に忘れん様にと、砂と黒煙を巻き上げ真っ直ぐな道を速度を増して走り去るバスを僕はずっと見てた。たぶん僕の顔も涙が流れ、くしゃくしゃやったと思う。
そしてついに、バスはパリーサを載せて陽炎の中に消えていった。
つづく
続きを読んで下さって、ありがとうございました。
来年の再会を誓って「パリーサ」と別れました。次はパキスタンへ向けて再出発です。
もしよかったら、またこの続きを読んでやって下さい。
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