83帖 非日常の日常
今は昔、広く異国のことを知らぬ男、異国の地を旅す
薄っすらと目が開く。
カーテンの外はほんの少し明るくなってて、目の前にはパリーサの髪の毛があった。心地良い目覚めやったけど少し腰が痛い。昨晩のパリーサに足を掛け左手を背中に回した状態と同じ姿勢やった。
なるべく起こさん様にパリーサの身体からそっと足を離そうとするけど、左手がパリーサの脇に挟まれて身体が動かせへん。手の中にはとてつもなく柔らかいものがある。紛れも無い、それはパリーサの胸やった。
いつの間にか僕と同じ方向を向いて同じ様に「くの字」で寝てたし、背中やと思てたんはお腹やった。これはやばいと思てちょっと強引に左手を抜こうとすると、パリーサの脇がキュっと締まって腕が抜けなくなる。
「しばらく、このままでいて……」
と言うパリーサの小さな声が聞こえた。なんや起きてたんかいな。
それでも左手をぶらぶらさせてると、パリーサは左手で僕の手の甲を掴み胸に押し付けた。柔らかい感触が伝わり、心臓が一気に爆動し始める。もう目も頭も冴えまくってた。
これでは我慢できん様になると思て左手をお腹の方へずらすと、こっちはこっちでキュッと締まっており、括れが容易に想像出来る。
すると今度はパリーサがぐるっと回り、こっちを向く。その反動で僕は仰向けになり解放されたけど、パリーサは僕の肩に頭を乗せ右手で僕の胸を撫でてくる。
「なぜこんなにドキドキしてるの?」
「パリーサが、こ、こんな事をしてくるからやんか」
「いやなの」
「うーん……、嫌やないけど」
「私はこうしてると落ち着くのよ。ずっとこうしていたいわ」
「そんなことしてたら……、僕は狼になるで」
「狼?」
「そう。狼になって羊のパリーサを食べてしまうで」
「うふふ。面白いことを言うのね」
ませてんのか、うぶなんかどっちなんや。誘ってる様にも思えたけど、僕の目を見て微笑んでる様子は完全に安心しきってる。
でも何でか僕の心も落ち着いてきた。
小さい頃、母親に甘えられなかった僕が、弟や妹が母親に甘えてるのを見て羨ましがってたのを思い出した。
それが今適ったかの様に優しい感覚に包まれ、疲れや辛いことや悲しいことも全て癒やされていく。そんな不思議な感覚が体中に染み渡っていった。
それくらいパリーサの右手は優しかった。パリーサに母性を感じてたんや。
僕はパリーサが何処へも行かんように右腕を首から肩へ回すと、パリーサは「うふ」と笑って手を止めた。
「もっと手を動かしてや」
「いいわよ。小さい頃、妈妈(お母さん)にこんな風にされて私も嬉しかったわ。ふふっ」
やっぱりそうなんやと、幼い子どもの様な自分に恥ずかしく思たけどそれ以上に欲しかった。もう少し甘えてたい。男はやっぱり母性に弱いなと思いながら右腕でパリーサを引きつける。
「昨日のお礼ね」
そのまま暫くパリーサに身を委ねてた。目を瞑り心地良さが頂点に達すると、僕はまた眠ってしもた。
次に目が覚めた時はパリーサをしっかり抱いていた。パリーサは僕の胸で吐息を漏らしてる。
そーっと腕を動かし時計を見る。
6月9日の日曜日。午前11時37分。新疆時間の9時37分。
流石に食欲はどうしようもできんし、僕はパリーサを起こした。
「朝御飯たべよか」
「うーーん。おはよう」
大きく背伸びをして起き上がるパリーサ。
「昨日のグシナンが残ってるし食べへんか」
「そうね。でも冷たいと美味しくないよ」
「大丈夫、任せて!」
僕はベッドから立ち上がり、リュックの中から携帯コンロを出し、ポンピングをしてホワイトガソリンが入ってるボトルに圧力を掛けた。パリーサはその様子をベッドの隅まで来て覗き込んでる。火を付け、その上にセラミックの板を載せた。
「わー、すごいね。こんなのがあるんだぁ」
「凄いか? これは登山用のやつやねん」
温まったセラミック盤の上に切ったグシナンを置く。すると部屋中に香ばしいええ匂いが漂い始めた。
「美味しそう。私もお腹が空いてきたわ」
「もうちょっと待ってや」
中まで温まった頃合いを見てパリーサに渡す。もう一切れ載せて温めたる。中から滲み出た肉汁が焦げて余計に食欲をそそる。ガソリンのコックを閉めて温まったゴシナンを持ってベッドに座る。
僕のが温まるまで待っててくれたパリーサと一緒に食べた。
「昨日の夜、食べた時より美味しく感じない」
「そうやな。なんか深い味がするね」
と訳の分からん表現しか出来んかったけど、確かに昨日より美味しい。そやけどその美味しさが更に食欲を湧き立てた。
「パリーサ、日曜バザールに行ってもっと食べよ」
「うん、そうしよう」
少しガソリン臭い部屋で外出用のジーパンとシャツに着替える。パリーサも僕に隠れてトレーナーをジャージを脱いで着替えてる。見えへんけど、パリーサの白い肌、柔らかな大きな胸、括れた腰を頭の中で想像してしもた。
「それじゃ、行きましょう」
髪の毛を括って布を被ったパリーサが僕のところへ寄ってきた。
「あっ、ちょっと待ってや」
僕はリュックの雨蓋のチャックを開け、奥からビー玉の入った袋を取り出しウエストバッグの中に入れた。
「何、それ」
「後で見せたるわ。ええもんや」
と言い部屋を出る。
「ねー、さっきのはなーに?」
「へへー」
袋を取り出してパリーサに見せた。
「これはな、『ビー玉』っていうおもちゃや。あの子らに会うたら遊ぶねん」
「へー、綺麗なボールね。素敵だわ」
「パリーサにもあげるよ。好きなん選んで」
「じゃあーねー、これちょうだい」
赤と白のマーブルのビー玉を手に取り、光にかざし喜んでる。あの子らも喜んでくれそうやな。
パリーサはそのビー玉を大事そうにバッグの中に閉まってた。
一旦、6階のドミトリーに向かい部屋を覗いて見る。日本人4人ともまだベッドで寝てた。多賀先輩の荷物を見ると昨日のままで、やっぱり帰って来んかったみたいや。
すると真野くんが身体を起こしてきた。何か具合が悪そう。
「おはようございます。すんません、起こしてしもたみたいで」
「ああ、おはようございます。もう外出するんですか」
「はい、日曜バザールに行こうと思て」
「そうですか。僕らも後で行きますが……」
と言いかけて頭を押さえてる。
「どないしたんですか?」
「昨日、夜店に行った後、朝まで呑み明かしてたんですよ」
「もしかして、あの「日野」さんとずっと一緒やったんですか」
「はい。あの人が奢ってくれるって言うからしかたなく付き合ってたら朝になりました」
「はは、それは大変やったっすね。大事にして下さいね」
「はい……」
と言うとベッドにぶっ倒れてしもた。僕らはそーっと部屋を出た。
ホテルを出るとまずアーケードバザールに向かう。まずまずの人混み具合。ここはもう見慣れたウイグルの人々の日用品店や飲食店がある。そこをさっと通り抜けると艾提尕尔清真寺(エイティガール寺院)に出る。だいぶん道が分かってきてる。
そして昨日行かへんかった常設バザールの広場に入る。やっぱりここは結構な人混みで、僕はパリーサの手を繋ぎ、引いて行った。パリーサは一瞬驚いたけど直ぐに意味を理解して付いてきてくれた。
「トルファンのバザールより大きね」
「そうやな。でも売ってるもんはあんまり変わらんね」
「そうね。でも何だか、あの日の事を思い出したわ」
「何を?」
「シィェンタイとレイラとお買い物した時ことを」
「あー、あったな。そんなこと」
「シィェンタイが荷物を持ってくれたわ」
「おお」
「嬉しかったよ。とても」
僕はちょっと複雑な気持ちやったわ。あん時はまだパリーサの事を「鬱陶しいなぁ」とか「面倒臭いなぁ」って思てた。でも今は違う。お遣いでもなく、何を買うていう事もない。ただ一緒にバザールを見て回ってるだけやけどパリーサと一緒が楽しいと思てる。思わず僕は笑ろてしもた。
「どうして笑ってるの?」
「うん。パリーサとこうやってバザールを回ってるんが楽しくて笑ろてしもたんや」
「私も楽しいよ」
パリーサも笑顔で答えてくれた。
周りの殆どが维吾尔族(ウイグル族)で、他には哈萨克族(カザフ族)や柯爾克孜族(キルギス族)、蒙古族(モンゴル族)、藏族(チベット族)に汉族(漢族)も居る。日本では考えられんような非日常の「異国の地」の風景やけど、結局何族か分からんパリーサと手を繋いで歩いてる事が僕の「日常」の様に思えた。
非日常の中に見つけた日常。それがパリーサやった。一緒に観光したり、御飯を食べたり、寝たり起きたりして過ごす事が普通になってきた。
僕は、「何日一緒に過ごしてきたやろ」と思い返してた。
「ねーシィェンタイ。何を考えてるの?」
とパリーサに言われて我に返る。気が付くとバザールの出口まで来てた。
「いやな、パリーサと出会ってから何日たったかなと思ててん」
「今日で10日目よ」
まだ10日かぁ。もっと長いこと経ってると思たわ。
「そやけど、パリーサは何でそんなん知ってんの」
「だって、毎日数えてるもの」
そうなんや。そんな事をしてるパリーサが益々愛おしく感じてしもた。
「たぶんこっちの道を行ったら、日曜バザールの方へ行けるで」
「うん。シィェンタイに付いて行くわ」
人混みを抜けたけど僕らは手を繋いだまま住宅街の中を歩いていく。
太陽の日差しと建物の陰が明暗をはっきりと分けてる。まるで時間が止まってしもた様に見える。できたらほんまに時間が止まって欲しいと願ってた。
ちょっとしたスペースで遊んでた小さな子ども達が僕らの方を見てる。何や不思議そうな顔をしてたんが印象に残った。
「僕らが歩いてたら変かな」
「そうねー。日本人とウイグルが二人だけで歩いているもんね」
そうか。パリーサはウイグル人や。何族でもええ。维吾尔に住んでるからウイグル人やと勝手に納得する僕やった。
住宅街を抜けると、バスターミナルから来る南北の通りと、先日行った阿巴克霍加麻扎(アパク・ホージャ墓)へ通ずる東西の通りの交差点に出た。道の向こう側は駐車場なんやろか、ぎょうさんの馬車やロバ車、軽トラックが停まってる。
交差点の向こうには大勢の人が集まってた。
「何やってんのかな」
「あそこもバザールじゃない」
「行ってみよか」
「うん。行こう!」
交通量の殆ど無い信号機も無い交差点を、二人で手を繋いだままゆっくりと渡った。
つづく
続きを読んで下さって、ありがとうございました。
今では「パリーサ」と一緒にいるのが普通になった「僕」です。この後、二人は「日曜バザール」へ向かいます。
もしよかったら、またこの続きを読んでやって下さい。
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今後とも、よろしくお願いします。