82帖 ベッドの中の語学講座
今は昔、広く異国のことを知らぬ男、異国の地を旅す
ホテルに着いてパリーサを部屋に入れると直ぐに多賀先輩の様子を見に、僕は6階のドミトリーへ向う。
部屋を覗いて見ると2人のパキルタン人が居るだけやった。多賀先輩の荷物はそのままでまだ帰ってきてないみたいや。ホンマに帰ってこうへんのやろか?
5階の部屋に戻ると、パリーサはソファに座って僕を待ってた。
「多賀さんは居た?」
「いや、まだ帰ってないみたいやわ」
「やっぱりね。それじゃシャワーを浴びるから、ここに居てね」
未だに誰か入ってくるかも知れんと心配するパリーサ。こんなところにも可愛さを感じてニヤニヤしてしもたけど、それだけしっかりと守ってやらなあかんと思た。僕はパリーサのオデコを触り、熱が無いか確かめる。
「よし、熱は無いな。しっかり温まるんやで」
「うん、分かったわ。でも絶対に何処へも行かないでね」
「分かった、分かった。心配すんなって」
漸く安心してシャワールームに入って行く。
水音を聞きながら、僕はカメラとレンズにブロアを掛けて砂埃を落とす。新疆地域と言うか砂漠地帯に来てからは、すぐに細かい砂がレンズにこびり付く。ズームレンズはズーミングが少し重くなってきてる様な気がする。もしかしたら内部に砂が入ってるかも知れんけど、どうすることもできん。気休め程度に隙間にもブロアをしとく。
「あー気持ちよかった。シィェンタイも早く入って来て」
パリーサは僕の青いジャージを履き赤いトレーナを着て洗濯した下着を干してる。チラっと覗き見してもたけど、めっちゃブラがでかい。パリーサの胸ってあんなに大きかったかなと後ろ姿を眺めてた。普段の服装はフワっとしたワンピースやから目立たんけど、って何を想像してるんや僕は……。
トレーナ姿のパリーサはウイグルやのうてヨーロッパ系の普通の女の子に見える。「中国であってペルシャ風のヨーロッパ系。これが中央アジアかぁ」と訳分からん事を頭に思い浮かべながらパリーサを見てた。
パリーサが隣に座りタオルで濡れた髪を乾かし始めると、僕は腰を上げ着替えを取ってシャワールームへ。
僕はシャワーを簡単に終え、すぐに出て来た。
「シィェンタイ、洗濯するよ」
髪の毛を乾かしたパリーサは僕が脱いだ下着とシャツを持って、またシャワールームに入って行った。自分でやるのにと思たけどここは任せて、
「おおきに!」
と日本語で言うといた。
僕は窓を開け夜風に当たる。風はかなり冷たくなってる。
街の灯りは昨日と違って煌々と輝き、風に乗ってウイグルの民族音楽が微かに聞こえてくる。まだまだ祭りは続いてる。
唐崎さんたちはどないしてるんやろう。あの「日野ばばぁ」さんの振る舞いに困ってへんか少し心配になってた。明日、今日の話を聞いてみようと興味本位で思てしもた。
「ねーねー『おーきに』ってなーに?」
と洗濯を終えたパリーサはそれを干しながら聞いてくる。
「えーっと、『Thank you so much』の日本語や」
「えっ、『ありがとーござーます』じゃないの?」
「それの『|Kansai accent(関西弁)』や」
「へー、面白いね。シィェンタイ、私に日本語と『Kansai accent』を教えてくれない?」
「ええよ」
干し終えたパリーサはベッドに潜りこんで、こっちへ来るように手招きしてる。僕も布団に入りパリーサの方を向く。パリーサは髪の毛を掻き上げ笑顔で見てくる。
「パリーサは幾つの言葉を話せるんや」
「そうねー、维吾尔(ウイグル)、英語、中国、蒙古(モンゴル)のオイラートと、少しだけ日本ね」
「そうなんや。いっぱい喋れるやん」
「すごい?」
「すごいよ。|Pentalingualやん。そやけど、蒙古の『オイラート』って何や」
「爸爸(お父さん)や祖父が話してる言葉なの。あまり分からないけどね」
「ふーん。そうすると、爸爸は蒙古なんか?」
「そうよ」
「なんか難しいなぁ。そしたら家では何語で話してるんや」
「妈妈(お母さん)とは维吾尔語で、爸爸とは中国語よ」
「みんなで話す時は?」
「维吾尔語と中国語のミックスね」
「へー、そりゃ大変やな」
「生まれた時からだから平気よ。それよりシィェンタイ、早く日本語を教えてよ。ねー、早くー」
とせがんでくる。以前やったら鬱陶しいと感じてやろに、今は逆に嬉しくなってる。
「ほしたらー、パリーサが英語で言うたら日本語で言うたるよ」
「分かった。じゃーねー……」
吐息が顔に掛かるくらいの距離で日本語講座が始まった。手持ち無沙汰やったけどそこは我慢。真剣に聞いてくるパリーサに誠心誠意で応えよ。
挨拶や基本的な会話は出来るみたいや。もちろん知らん単語もあるみたいやけど片言でもすぐに話せそう。パリーサは日本語は蒙古語と言葉の順番が似てると言うてた。そやし語彙さえ増やせば話せる感じやったし、逆に関西弁は教えん方がええかも知れん。
そう思ていろいろな言葉を教えた。パリーサが英語で言うた単語を日本語で教えるとそれを使こて自分で文章を作って話してくる。たどたどしいけど十分使えるレベルや。
「そんだけ話せたら、ホテルに日本人が来ても通訳できるでー」
「そうなの。嬉しいわ。でも、あまり来ないのよねー。吐鲁番宾馆(トルファンホテル)には」
「そうなんや」
「ところで、ちょっと休憩しない」
かれこれ1時間ぐらい喋ってた。
「そやな」
パリーサはスルッとベッドから出ていった。
布団の中には、パリーサの温もりだけが残ってた。
ベッドから出ていったパリーサは、お茶を入れて持ってきてくれた。
なかなか気が利くやん。
いや、ちゃう! これってお茶と違ごて、薬のやつやん。
そやけど折角入れてくれたし一口飲んだ。けど……、やっぱ無理。パリーサは慣れてんのか平気で飲んでる。申し訳け無かったけど、
「ちょっと多賀先輩、見てくるわ」
と言うて、コップをテーブルに置いて逃げた。
「すぐ戻ってきてね」
「おお、分かった」
部屋を出て、一旦1階のロビーで煙草を吸ってから6階のドミトリーに向かう。日本人のみんなはおろか、さっき居ったパキスタン人も見当たらへん。部屋はもぬけの殻やった。一応確認したけど、多賀先輩の荷物はやっぱりそのままやった。まだ帰ってないな。
仕方なしに部屋に戻ると、パリーサは疲れたんか目を瞑って寝てた。
僕は部屋の灯りを常夜灯に切り替えてソファーに座る。昼間にパリーサと一緒に寝てしもたし、今は全然眠たくない。もう一遍、夜のバザールに行ってみよかなと思たけ。そやけど、今更行くもの面倒臭いし、第一パリーサを一人で置いてくことはできひん。後で何か言われるかも知れん。
そやから、どないしよかと考えてたらパリーサの声がした。
「ねぇ、次は? 続きをやろーよー」
やっぱり何処へもいかんとパリーサと過ごすことにする。ベッドに入ってパリーサの顔を見ると少し眠たそうな目をしてた。そやけど暗闇の中であってもパリーサの青い目はしっかりと光ってた。
「ドゥォフゥァさんは帰ってた?」
「いや、まだみたいやわ」
「きっと帰って来ないよ。今頃は林さんと一緒にベッドの中よ」
うーん……、パリーサはその意味を分かってて言うてるんやろかと疑問に思たけど、僕は誤魔化すしか無い。
「そろそろ寝るか?」
「いやよ。もっと日本語を教えて。いいでしょ」
「うん。ほんじゃ、次は何?」
「えーっとね……」
と言うとニコニコしながら、ちょっとイタズラっぽい目で僕を見てくる。
「えっとー、『I love you』って何て言うの?」
「ええっ!」
「シィェンタイ、『我爱你』よ」
「ああ、それは……」
「何て言うのよー」
「えーっと、私は……」
「わたしは」
「あなたの事を……」
「あなあたのことおー」
「愛してます、や」
「ありがとう、シィェンタイ」
へっ! パリーサは腕を僕の背中に回し顔を胸に埋めてきた。
「シィェンタイ、『我爱你』。『I love you』。あいしてます」
と胸の中でモゴモゴ言うてる。ちょっとまずいな。そんな事をされたら我慢できんようになるやん。
「パリーサが『我爱你』って言うたから、日本語で言うただけやで」
「でも、シィェンタイは私に『あいしてます』って言ったよー」
やられた! やっぱりこれはパリーサの罠や。そう思たけど、それはそれで可愛いなとも思てしもた。
「それはね……」
「ねー、ねー。私達、夫婦だよね。そうだよね」
と真剣な顔で言われた。
夫婦……。「couple」と言う英単語を僕はずっと「夫婦」と訳してけど、パリーサはちゃう意味で使こてるんかなぁ。恋人同士くらいなんか?
よう分からんけど、とにかく「yes」か「no」で答えんとあかんのかな。
もし「couple」が「夫婦」ならノー。「恋人」ぐらいならイエスでもええかなと思たけど、そこはちょっと曖昧に、
「Yes, in 新疆」
と言うみた。
するとパリーサは何でか怒り出して、
「シィェンタイの呆子!」
と僕の胸を叩いてきた。何度も叩いて「呆子、呆子」と言うてる。ちょっと悲しそうな顔になってるし、やっぱまずかったかなと思た。
もしかして弄んでると思われたかも知れん。今の僕はほんまにパリーサのとこを愛おしく思てる。それはそうなんやけど、数日後に別れてしまうということが、僕にはどうしても引っ掛ってて、ホンマの気持ちが言い辛かった。
暫くして大人なしくなったパリーサは、呟く様に聞いてきた。
「シィェンタイ、私のことを愛してる?」
今の気持ちを素直に答えよう。
「うん……、好きやで」
「ええ! 『すきやで』って何よ?」
「ああ、『愛してます』の|Kansai accent(関西弁)や」
「そうなのね。すきやで……」
パリーサは、その言葉を噛みしめるように繰り返してた。
「パリーサは?」
と聞き返すと、パリーサはまた身体を寄せ、腕を僕の腰に回し、胸の中に顔を埋めてモゴモゴと言うてきた。
「すき、やで」
そう日本語で言うてたと思う。
それに応える様に僕も腕をパリーサの背中に回し、ギュッと抱きしめた。
パリーサの身体から力が抜けていく。
それからも僕の胸の中で小声で喋ってる。何語で何を言うてるかは分からんかったけど、僕はずっとパリーサの背中を擦った。
そのうちパリーサの声はなくなり、代わりに寝息が聞こえてきた。それでも僕は背中を弄る様に擦り続けた。今は目も頭も冴えて眠たくないけど、寝るまで擦り続けようと思た。
足をパリーサの腰に掛け全身でパリーサを包む様にして僕も目を瞑った。
つづく
続きを読んで下さって、ありがとうございました。
とうとう「僕」は思いを言ってしまいました。この先の旅は……。
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