67帖 砂の丘
今は昔、広く異国のことを知らぬ男、異国の地を旅す
シャワーの水音が聞こえてる。僕は多賀先輩のベッドの上で毛布を掛けられて寝てた。
多賀先輩が戻ってきたんやろか。
薄っすらと目を開けて時計を見ると、6月6日木曜日の6時57分。
余りにも寒くて僕はもう一回、毛布に潜る。あと1時間でバスは出発や。
今日は喀什噶爾(カシュガル)に到着する。
そう思うと今日の夜はゆっくり寝られるかなと期待して、意を決して起きた。目の前の僕のベッドを見ると、そこには昨日パリーサが着てた服が脱いであった。シャワーを浴びてるんはパリーサや。僕は慌ててもう一度毛布を被る。やば!
昨晩パリーサは泣いたまま寝てしもて、僕もそのままやった。と言うことは多賀先輩は戻って来てへん。
僕はドキドキしながらパリーサがシャワーを終えて服を着るのを待つ。
水音が止み、足音が近づいて来ると心臓がバクバクしてくる。布が擦れる音がして、暫くするとパリーサの声がした。
「シィェンタイ、起きてね」
僕はたった今目が醒めましたみたいなフリをしながら起きる。
「おはようパリーサ。良く眠れた?」
「うん、よく寝られたわ」
パリーサはベッドに腰掛け濡れた髪をタオルで拭いてる。その仕草はやっぱり女の子や。髪を後ろで纏め布を被ってるとこしか見たことなかったけど、髪を下ろしてる姿は、その肌の白さと彫りの深さが際立ってより一層綺麗で大人らしく見える。
昨晩は、どうしようもないねんけど結果的にパリーサを悲しませてしもたし、何か言わなと思てパリーサを見てたら目が合うてしもた。
「何を見てるの」
その声はいつものパリーサの明るい声やった。
「いや、綺麗やなーって見てた」
「そしたら结婚(結婚)してよ」
やっぱまだ言うかぁ。また昨晩にたいな事になったらお互いに辛いし、なんて言うたらええんか返事に困った。
「大丈夫よ」
と言うて笑顔を返してきた。何がどう大丈夫なんか分らず考え込んでると、
「さあシィェンタイも準備して。行くわよ」
と言い、さっと髪の毛を束ねピンクのスカーフを被ると部屋を出て行った。その立ち振る舞いは昨晩泣いて寝てしもた少女ではなく、何か吹っ切れた大人の女性の気配を感じた。そんなパリーサの態度に初めて惹かれた僕がおる。なんか奇妙な感覚やった。
荷物をまとめてると、多賀先輩が眠たい顔をして戻ってきた。
「おはようございます」
「あーねむた」
と、あくびをしながらリュックを開ける。
「昨日はどやったんですか」
「うん。殆ど寝てないわ」
「林さんとうまこと行ったんですか」
「そりゃ……まぁ、あれやな。ははは」
詳しくは話さへんかったし、僕も聞かんかった。大体想像はつくわ。
「そやけど北野はどないやったんや。向こうの部屋でパリーサに叩き起こされたけど、めっちゃ機嫌良かったで。うまいこといったんか?」
「何を言うてるんですか。そんな場合と……ちゃいますわ」
「そやかてニコニコしとったで」
「そうですかぁ」
パリーサの中で何が変化したんやろう。諦めたんやろか。それやったらええねんけど……。そう思うと少し寂しい感じもしてきた。
僕は昨晩の事を掻い摘んで話し多賀先輩がどう反応してくれるか期待したけど、着替えながら「ふーん」と相槌を打つだけやった。
最後に、
「ええんちゃう」
と、どっちでも取れる言葉を言うて多賀先輩は荷物を担いだ。
要するに自分で決めろと言うことやな。
僕も荷物を担ぎ廊下に出るとパリーサと林さんが待ってた。
「ほな行こか」
と多賀先輩が言うと林さんは横に並び、二人で歩いて行く。
その後ろをパリーサが僕には目もくれず付いて行った。僕はその後をトボトボと歩いた。
日の出前の旅社の外は寒くて暗い。まだ人影は疎らで、エンジンがかかってるのは僕らのバスだけや。バスに乗り込むと足が不自由なおじいさんも既に座ってて、僕が最後やった。
社長が人数を確認し終わるとすぐにバスは出発する。動き出すとその振動のせいもあって眠気が襲ってきた。僕はパリーサの後ろ姿を見ながら眠った。
「おい、朝飯やぞ」
と言う多賀先輩の声で起きる。ドライブインに止まったバス中にはウイグルの女性たちとおじいさんと僕だけや。パリーサに朝飯は何を食べるって聞くと、
「林さんに頼んだから」
と目も合わせず返してきた。
「そっかぁ。分かった」
と言うてバスを降りて朝飯を買い、多賀先輩と同じテーブルに座って食べる。バスから戻ってきた林さんは多賀先輩の横に座り嬉しそうに食べてる。
僕は黙って独りで食べるしかなかった。
昨日までパリーサの事がちょっと鬱陶しかったけど、逆に相手にされん様になると寂しく感じてしまうのはなんでやろと思い始めた。多賀先輩と林さんが仲良くなればなるほど余計に自分が惨めに感じてしまう。
昨日、涙を流したパリーサの気持ちに比べたら大したこと無いのやろけど……。
太陽が登り、すっかり明るくなった。気温もどんどん上がって行くのに、なんでか僕の心は暗く寒かった。
天山山脉(天山山脈)の麓を、左に砂漠を見ながら真っ直ぐに伸びた道をバスはひたすら走って行く。
およそ1時間おきに乗客が降りたり休憩する為にオアシスの街で停車する。止まるたんびに何処からやって来たのか、おばちゃんのアイスキャンディー屋が車内に乗り込んでくる。値段を聞くと1本3角から5角で形や大きさや味で異なる。同じ様なもんでも人によって1角から2角ほど値段が違う時もあった。
売りに来るたんびにパリーサに「食べるか」と聞いてみるけど、「私は要らない」らしい。
いつの間にか僕はパリーサに気を使こてた。表情は明るいのに言葉はそっけなく淡々としてた。いつもと同じ英語で話してるけど、それは感じることができた。鬱陶しく感じてた頃の方が良かったなと思てしもてた。
次のドライブインで昼飯やったのに、その途中の砂漠のど真ん中でバスは急に止まってしもた。社長と見習い運転手はエンジンルームを覗いて困ってる。エンジントラブルや。
僕も外へでて見に行ってみるとエンジンルームから蒸気が上がってた。ラジエターのキャップが割れてそこから冷却水の蒸気が漏れてる。危うくオーバーヒートするとこやったらしい。
社長は今から街まで行って部品を買うてくるから暫く待ってて欲しいと言うてた。
後ろからやってくるトラックを止め、それに乗り込んで行ってしもた。いつ戻ってくるか見習い運転手に聞いたけど、分からんと言うてた。
昨日と違い雲一つない空。太陽はガンガン照りつけてた。幸い日陰に入れば風も吹いててそんなに暑くはない。乗客は外に出て、思い思いに過ごす。砂の上で昼寝をしたり、ぶらぶら散歩したり。土手を越えて行き、用を足してるおっちゃんもおった。ウイグルの女性はやっぱりバスの中で過ごしてる。
カメラを取りにバスに戻ると、パリーサが僕を見てきた。僕は笑顔を返したけど、黙って僕を見てるだけやった。いつもやったら話しかけてくるのに……。
カメラを持って外に出てバスや辺りの様子を記録する。離れたとこにある岩陰では多賀先輩と林さんが楽しそうに話してた。ちょっと羨ましかった。
道路の反対側の南へ少し行ったところに砂丘がある。砂漠らしい砂丘でその向こうにも広がってる様な気がして僕はそこへ行って見ることにした。
道路から離れると地面はホンマに砂だけやった。今まで見てきた岩と石が多い砂漠ではなく細かい砂だらけ。軽登山靴を履いてたけど砂の上では無力やったし、近くに見えてた砂丘はかなりの距離があった。
それでもなんとか麓まで辿り付いた。登りに差し掛かると思ったより急で足元の砂が崩れてなかなか登れんかった。
それでもなんとかてっぺんに着くと、目の前には予想していた以上に広大な砂の海が広がってて、今朝からモヤモヤしてた気分が一気に晴れた気がした。
思わす立ち尽くす。幾重にも連なりどこまでも続く砂丘。思い描いていた砂漠のイメージを遥かに凌ぐ情景が目の前にある。地平線は蜃気楼で景色が揺らいで見える。
そのスケールが余りにも凄す過ぎて、僕は写真を撮るのを忘れてた。写真を撮りに行って思い描いていた風景よりすごいものに出会うとシャッターを切るの忘れることがある。
ただ今日の場合は、忘れたと言うよりシャッターを切るのを躊躇ってしもたと言う感じや。それくらい強烈な印象やった。とうとうここまで来たなって言う満足感もあった。
横からの風が強く吹き付け、僕の足元を砂が流れていく。僕は足を踏ん張り気持ちを切り替えてシャッターを何回も切った。
振り返ると500メートルぐらい離れたとこにバスが小さく見える。
僕は写真を撮るのを止め砂の上に座り、この風景を目に焼き付ける事にした。
風と砂が流れていく音だけがして、日差しはキツかったと思うけど何も感じんへん。
何も無い砂だけでできた丘の風景やのに、何も考えられず何も感じられず時間も忘れ、ただひたすら眺めることしかできんかった。
暫くすると、風と砂の音に混じって「はぁー、はぁー、ふぅ」と言う声が聞こえてたのに気付く。
振り返ると、そこには砂丘を登ってきたパリーサの姿があった。
つづく
続きを読んで下さって、ありがとうございました。
「僕」の気持ちが「パリーサ」に傾倒しかけてるのかな。
もしよかったら、またこの続きを読んでやって下さい。
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