64帖 パリーサの青い目は
今は昔、広く異国のことを知らぬ男、異国の地を旅す
6月5日、水曜日。人の気配で目が覚める。同室で別のバスのおっちゃんは荷物の準備を終え部屋を出ていった。時計を見ると北京時間の8時前。僕は多賀先輩を起こし「先に荷物をバスまで持って行っときます」と伝え部屋を出た。朝の库尔勒(コルラ)の写真を撮りたかったからや。
部屋を出ると眠たそうな顔のパリーサが階段の手前で立ってた。
「お、おはようさん」
「おはよう」
「早いな。何時から立ってたんや」
「30分ぐらい前だよ」
「なんでそんなに早いの」
「だって、置いて行かれたら嫌だから……」
信用されてないわ。
「置いてかへんて。心配せんでええて昨日言うたのに」
「……」
「昨日はちゃんと寝たか?」
「少しは寝た……」
初めての旅の夜で緊張して寝られんかったんか、手で口を覆い大きなあくびをしてる。なかなか可愛いしぐさもするんやと思てしもたわ。
一緒に外へ出て、昨日乗ってきたバスを探す。
思った通り、旅社の外は寒く靄がかかってた。登山用の防寒シャツを着込んでて正解や。
太陽は昇ってると思うけど曇ってて見えへん。そやけどその朝靄の中の喧騒を僕は早く写真に収めたいと思てリュックを置くためにバスを探す。
ターミナルのバスは昨日の夜より倍ほど停まってたし、バス待ちの人もやっぱり増えてる。なるほど、库尔勒から先は鉄道はない。ここから先に行くにはバスしかないし列車で来た人もここからバスに乗る。その分、バスターミナルは人とバスでごった返してた。
それに加えていろんな民族が入り混じってシルクロードの中継地の朝にはふさわしい情景が出来上がってる。
昨日停まったとことは全然違うとこにバスは移動してる。既に助手の漢族のおっちゃんはバスの中で待ってたけど、乗客はまだ一人もおらん。
荷物を置いてまた車外にでると、パリーサも付いてきた。
朝靄でくすんでる街。旅の行程を話す人。大量の荷物をバスに積み込んでる人。バスの窓を拭いたり、エンジンルームを覗き込んでる運転手。世間話をして笑ってる人たち。眠たそうにあくびをしてる人。荷物に腰掛けて寝てる人。
被写体はなんぼでもあったし、面白い写真がぎょうさん撮れた。
もっと面白そうなもんは無いかなとファインダーを覗いてると、その中にパリーサが入ってきた。まだ少し眠たそうな空ろな目で何処かを見てる。
そんなパリーサの表情は、オアシスの朝の風景に溶け込んでなかなかいい味を出してた。絞りを開放してシャッターを押そうとした時、僕に気付いてカメラに目線を合わせた。その時のパリーサの青い目は、一瞬鋭くなり何かを訴えてるようやった。ドキッとした。
僕は身体が一瞬固まってしまうような衝撃に見舞われ思わずシャッターを押す指が遅れた。それでもなんとかシャッターを押したけど、そん時は既にパリーサは笑顔で手を振ってた。
あのドキッとした「目」の写真は多分撮れて無いと思う。もし撮れてたらパリーサの最高の写真やったやろに、惜しいことをした。
「ねー。もっと写真を撮ってよ」
「そしたら、さっきの目をしてくれる」
「さっきの目?」
「どっか見てて、ほんでカメラに気付いてパッとレンズを見た時の目や」
「そんなことは分からないよ」
やっぱり。シャッター押すんを躊躇った僕が悪い。しょうがないんで適当にポーズを取らせて数枚撮ったけど、わざとらしいポーズとその表情はなんとなくムカついてきた。あの目のパリーサに、いつかまた会えたらええなと願う。
そんな事をしてたら、バスの中から助手のおっちゃんが手招きをしてる。バスに乗ってみると多賀先輩はもう座席に座ってたけど、あの大家族はまだ乗ってへんのにもう出ると言うてる。
パリーサがバスに乗り込むとすぐにバスは動き出し旅社の前まで止まる。そこでおじいさんとその家族を乗せ、改めて出発した。もちろん言われる前に自ら進んでおじいさんの乗車を手伝った。
库尔勒から新たに乗ってきたウイグルのおっちゃんら2人を入れたらバスは満席になった。予定の7時より10分も早くバスは出発した。
煤で汚れた工場の横を通り、並木道を抜けてまた砂漠の中の道を走る。右手には高い天山山脉(天山山脈)、左手には荒涼とした砂漠は広がってる。
天山山脉から延びてる尾根を登り、峠を越すと日本の北アルプスを思わせるような非常に険しく切り立った山の頂きが目の前に見える。あれは未踏峰やろか?
格好ええ「壁」もあって登ってみたいという衝動に駆られる。
そんな山々を見てたら雨が降ってきた。砂漠で3回目の雨や。気温がどんどん下がってるみたいやし僕は窓を閉めた。それでも寒く感じてきた。
「パリーサ。寒くないか?」
一応聞いてみる。
「ええ大丈夫よ。ありがとう」
僕はリュックからウインドブレーカーを出して着込む。これで寒くない。
小一時間ほど走るとバスは小さなオアシスのドライブインに入って止まった。朝食タイムらしい。
またパリーサの分を買うてこなあかんなと思いながら食堂に入って、羊肉の塊が載ってるポロを注文する。パリーサの分をバスに持って行った後、僕らも食べた。食べてる間に雨は止んできた。
朝食後も、バスは山と砂漠の境目をひたすらまっすぐに走る。
それから2つ峠を越え、カーブが続く急な下りが終わったかと思てたらバスは停車した。
そしてすぐにバスは動き出し、左へ曲がり道を外れ、南の砂漠の中へ入って行く。道の無いとこを走ってる様で、バスは左右に揺れだした。僕は何事ぞと思って窓の外を見る。
「おおっ。なんやなんや」
寝てた多賀先輩はびっくりして起きた。
「なんや雨で氾濫した川が道を分断してるみたいですわ。そこを迂回して今砂漠の中を走ってます」
「大丈夫かこれ」
バスがひっくり返りそうなぐらいすごい揺れ。
「分かり……ません」
「シィェンタイ、あれ見て。きゃっ」
僕の方を見たパリーサは窓に頭をぶつけてた。
しっかり掴まってんと座席から振り落とされそうや。
遥か前方にはバスやトラックが思いおもいに道なき砂漠を南下し、道を分断した川を迂回してる。どんどん南下して行くと川の水は砂の中に消え、バスは轍にそって右に曲がる。
その時、大きく揺れたかと思うとバスはスタックして停まってしもた。
何度か車体を前後に動かし脱出を試みる。少し動いたけどまたスタックしついに完全に動かん様になってしもた。
助手のおっちゃんの掛け声で足が悪いおじいさんを残して乗客はみんなバスを降りる。男達は後ろに回り合図に合わせてバスを押す。2、3回とやるとバスはスタックから復帰した。再びバスに乗ると、おじいさんは笑顔でみんなを迎えてくれた。
遠くの方でもスタックしたバスを押してる光景が見え、まるでバスによる砂漠ラリーの様やった。スタックしてる他のバスを追い抜くと、小さな歓声が聞こえてくる。大型のトラックに抜かれると残念そうな声がバスの中に漏れてた。競争を楽しんでる様やった。
暫く行くとまたスタックしてしもた。そんなことが3回ほどあって、その度に後続のバスに抜かれていく。このバスの運転手は下手くそか?
スタックから復帰したバスは進路を北に取り、舗装道路目指してスピードを上げる。スピードを上げた分、揺れは激しくなり前のシートにしがみ付いてんと振り落とされそうやった。
右に左に進路を変え、やばそうな所を回避しながら走ってたけど、それでもバスはスタックした。タイヤが空回りする音が聞こえ、バスは左に傾き完全に止まってしもた。
男たちで押してみたものの、タイヤの半分以上が砂に埋まってお手上げ状態やった。助手のおっちゃんや乗客はタイヤの回りの砂を手で掘り出してた。
まさかこんな時に使う事になるとは……。
僕はリュックの底の方から緊急用に山道具屋で買うた折りたたみ式アルミ製のスコップを取り出し、組み立ててタイヤ回りの石混じりの砂を掘り出した。
もっとタイヤの前を掘れだとか、横も掘った方がええだとか、いろいろと外野はうるさい。終いには僕のスコップを10元で売ってくれとか言い出すおっさんもおったけど、200元ならええよと言うと黙ってしもた。因みに日本円で6000円ぐらいで買うたと思う。
そしてバスは無事スタックから脱出して、みんな拍手をしてた。
バスに乗り込むと運転手は助手に漢族のおっちゃんに変わってた。このおっちゃんの方が運転が上手いみたい。その後はスタックもせずに、川の迂回を始めてから1時間半ほどかかってなんとか舗装道路に戻ることができた。
バスはスピードを上げ、トラックや他のバスを追い越して遅れた時間を取り戻してるようや。快調に走るバスを大型バスはいとも簡単に追い越していく。向こうの方がエンジンの性能は良さそうやし乗り心地も快適に見える。値段はいくらなんやろうと疑問に思た。
真っ直ぐに延びた道をひた走ると、やがて小さなオアシスに入り、そこのドライブインで昼飯休憩になる。
昼飯にはパリーサのリクエストでスユックアシュという汁そばを注文することに。
多賀先輩は一緒に乗ってた漢族の女の子といつの間にか仲良くなって、その子と二人でテーブルに座わり筆談で喋ってた。そう言えば、スタックした時に話しかけてたな。
その子は、一般的な汉族(漢族)風の地味な服装やけど表情はきゃぴきゃぴしてて、多賀先輩の好きそうなタイプやと思た。
僕はパリーサに料理を運んだ後、一応気を使こて多賀先輩と別のテーブルへ。運転手のおっちゃん達に相席をお願いして、スユックアシュを食べる。めっちゃ辛かったけど身体は温まり、寒い天気には丁度良かった。
食べてる時、いつもと同じの質問をされたんでそれに答え、また僕からもいろいろと聞いてみた。
今朝みたいな道の分断はよくあるのかと聞くと、めったに無いけどたまにあるらしく、先週から雨の日が多かったから今日のそれは酷かったらしい。
それと助手やと思てた漢族のおっちゃん、実はこのバスの持ち主、つまりこのバス会社の总经理(社長)やと分かった。運転手のウイグルのおっちゃんは見習いやそうで、確かに社長が運転してからは速くなってた。
今は会社のバスはこれ1台しか無いけど、金が貯まったら大型のバスを買うたり、2台、3台と増やしていき会社を大きくしたいと言うてた。頑張れおっちゃん!
ほんで今日は何処に泊まるのか聞くと、阿克苏(アクス)と言うオアシス都市でこれから6時間もかかるて言うてる。まだまだ先は長そう……。
昼食後、バスはまた猛スピードで走り出す。もちろん運転は社長や。
社長の運転はなんか安心できた。安心すると眠たくなって僕は窓にもたれて寝てしもた。
お祈りの為に停車したり、トイレ休憩を挟みながら幾つものオアシスや峠を越える。
太陽が沈み、辺りが暗くなると日没後のお祈りのために停車した。もちろん何もない砂漠の中で。
僕もバスを降りて、身体をほぐしながら空を眺めた。気付くとパリーサが何も喋らんと僕の横に立ってる。パリーサの青い目は夜空を見つめてた。
雲の切れ間から、漆黒の闇に鮮やかに光る星が見えてる。
阿克苏までどれぐらいかかるんかと社長に聞くと、
「あと1時間だ」
と自信有りげに言うてた。
つづく
続きを読んで下さって、ありがとうございました。
多賀先輩と漢族の女の子との関係も気になりますが、今後のパリーサの立ち振舞にも注目です。
もしよかったら、またこの続きを読んでやって下さい。
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また、感想や評価など頂けましたら、大変うれしく思います。
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