60帖 沙尘暴の中で
今は昔、広く異国のことを知らぬ男、異国の地を旅す
「沙尘暴(砂嵐)、来る!」
建萍は宮城跡の方へ向かって歩き出した。
「どうしたんや?」
「あれ。沙尘暴、大変ね」
建萍が指差した南の方には、さっきは砂煙やと思てたんがいつの間にかカーテン状になってこっちに向かって来てる。夏の夕立の雨みたいに、はっきりとその境界線が判る。その砂の境界線は徐々にこちらへ向かってやって来てる。
夕立なら雨が降ってるところが薄っすらと見えるが、砂嵐はそのカーテンの中がまったく見えない。
魔力を伴って押し寄せてくる強大な大王が全てのものを飲み尽くしながら攻めてくる。そういった感じか。
初めての砂嵐。僕はその魔力に飲み込まれてた。幼い頃、台風がやって来たとき父や母は雨戸を閉めたり物が飛ばんように慌てたのに、僕はなんか楽しいものが来るみたいで思てワクワクしてた。その時と同じ感覚で僕は興奮してる。何がやってくるんやろう。
「シィェンタイ、早く、早く」
と建萍に腕を引っ張られる。
「大変、大変。急ぐね」
建萍の表情を見ると、ほんまに厄介なもんが来るみたいで僕も少し慌てた。
「わかった。取り敢えず宮城跡まで行こか」
「はい。急いで、早く」
少し小走りで急いだ。北の空はまだ青いのに、僕らの周りは夕方の様に暗くなり向かい風がきつくなる。恐る恐る振り返ると、大王はもうすぐそこまで来てた。
「シィェンタイ、我们变得痛苦。急ぐ」
建萍はそう言うけど、僕は半ばあきらめてた。もう間に合わへんし、それより好奇心から砂嵐に飲まれてみてもおもろいかなと思てた。
建萍が執拗に急がすんで後ろを付いて行く。
僕らは宮城跡の手前で大王に飲み込まれた。なぜか嬉しかった。
そやけど喜んでたのも始めだけで、上からも横からも砂が降ってきて口や鼻に細かい砂が入ると辛くなってくる。息をすると肺まで砂が入ってきそうで、目を開けてるんも辛くなってきた。砂と一緒に飛んできたもんが当たると痛い。大王の力をちょっと甘くみてた。
砂で宮城跡が霞んでくる。建萍はハンカチを口に当てて下を向きながら走りだした。
「シィェンタイ、急ぐ」
強い風がと砂が吹き付け、建萍の声も聞き取れへんくらいうるさい。このままやと建萍の姿すら見失いそうやった。
「分かった」
カメラが入ったサブザックが邪魔で動き辛いけど、僕も後ろから走って追っかける。
建萍は宮城跡に入り、風除けができそうなとこを探してる。少し後ろを僕も走ってた。
するとタオルで顔を隠して走る二人組が横から飛び出してきた。建萍はそれに気付いて立ち止まったけど、先頭を走ってた男は建萍には気付かずにぶつかり、よろけてコケてしもた。建萍は助けようとして近づくと、その男はゆっくり立ち上がり建萍を下から舐めるように睨んだ。
僕は「やばい」と思て急いで駆け寄る。
その男は何か言うたけど、風の音がうるさくて聞こえん。
そして次の瞬間、その男は建萍の左足を蹴った。
なにっ、蹴ったなっ!
よろけた建萍をもう一人の男が今度は後ろから背中を蹴る。
何すんねんっ!
建萍は「キャっ」と言うて倒れてしもた。
「こらー! ちょっと待てやー」
立ち去ろうとする男たちに僕は怒鳴った。
「お前ら建萍に何してくれたんやっ」
無視して歩いてる二人の肩を捕まえて引っ張る。
30代前後の汉族(漢族)のおっさん二人は、僕を睨み中国語で怒鳴ってきた。何言うてるか分からんさかい僕は日本語で、
「お前ら今、建萍を蹴ったやろ。謝らんかい、ボケっ!」
と言うて睨み返した。
「お前は日本人か?」
と後ろから蹴った男が英語で話してきた。
「そうや」
「そうか、では問題ない」
と言うと再び歩き始めた。僕は再び肩を掴んだで引っ張る。
「何が問題ないや。おまえ建萍、蹴ったやんけっ。謝らんかい」!
「なぜ俺が謝らないといけないんだ。アイツが俺らに当たってきんだ。アイツは维吾尔族(ウイグル族)や。维吾尔が悪い」
何っ! ウイグルが悪いってどういうことや。蹴ったんはお前らやないかーー。
そう言うた男にむっちゃ腹が立ってきて、目の前まで凄みを効かせて詰め寄る。その男は後ずさりしたけど、もう一人の男が僕の前に割って入り、いきなり僕の胸ぐらを掴んだ。
「なぜ维吾尔を蹴ったらダメなんだ」
何でて……、お前ら……。建萍を、何もしてへん子を蹴り飛ばしたやないか。
「悪いんはお前らやろっ!」
僕の怒りは限界を超えた。僕は、掴まれた拳を握り手首を返すと肘を押さえてそいつの身体を前のめりにさせて押さえつけた。そいつは痛がってたけどまだ、
「アイツが悪い。维吾尔は悪い」
と言うてた。僕は躊躇わずそいつの横腹を蹴る。「うっ」と言うて咳き込んでる。その隙きにもう一人の男は僕に殴りかかろうとしてたけど、睨みつけると尻込みしてたじろぐ。もういっぺん言うたら息ができんようにしたろと思てた。
更に手首を締め、肘に体重を乗せるとその男は大声で言い放った。
「报警。向警察通报!」
まだ何か言いよると思てもう一発蹴ろうとした瞬間、建萍が声を上げた。
「やめて!」
と僕には聞こえた。
「やめて……」
ハッとして、押さえてた手を離す。
その隙きにそいつは逃げた。捨て台詞を残して砂の中に消えて行く。砂の向こうからまだ何か言うてたけど中国語やし分からんかった。
そうや建萍は……。
僕は建萍に駆け寄り肩を抱いて起こし、
「大丈夫か。痛いとこ無いか」
と言うて砂を払う。払えども払えども砂は容赦なく降ってくる。建萍は下を向いたまま黙ってた。
とにかく建萍を立たせ、風を遮られるとこまで連れていく。
遺構の陰で土塀にもたれると建萍は座り込んだ。僕は隣に座り、俯いてる建萍の肩を抱きしめたけど、身体を小刻みに震わせて泣いてた。
「大丈夫か。痛ないか?」
僕が問いかけても泣いてるだけやし、砂を払ったり背中を擦ったりしてた。
すると建萍は顔を僕の胸に押し付け、声を出して泣き始めた。
僕は何も言えんかった。グっと抱きしめるしかできんかった。その間も砂はどんどん降ってくる。
どれくらい経ったやろか。建萍は泣き止んでたけど、まだ身体は震えてる。
そしてゆっくりと顔を上げた。涙の跡に砂がこびり着いてる。それを手ぬぐいで拭うと、建萍は小さな声で話し始めた。
「汉族、嫌い……」
中国語で話してたと思うけど、なんでか言いたいことは分かった。
「维吾尔族もいや……」
しっかりと僕を見て話してる。
「なんでや?」
と聞いた。暫く黙ってたけど、ボソっと言うた。
「日本人になりたい……」
そう言うとまた顔を僕の胸に埋め、また震えて泣いてる。
僕は建萍をしっかり抱き、そして背中を擦りながら建萍が言うた言葉の意味を考えてた。
汉族は嫌い……。確かに漢族が中国を支配してる様に思う。政府の要人はみんな漢族やったと思う。それにチベット自治区のチベット族も政府側の漢族に迫害を受けてると聞いたこともある。ウイグルもそうなんやろか。そやけどウイグルも嫌やなんてどういう事やろ。建萍のお父さんは漢族で、お母さんはウイグルやて言うてたのに……。それに、日本人になりたいって……。
もっと建萍と話したかったし、もっと詳しく聞きたかった。聞いたところで僕にどうにかできるんやろかと言う疑問もあった。それを考えるとなんか辛くなってきた。
しばらくすると、
「シィェンタイは、次は何処へ行くの?」
と突然聞いてきた。僕はちょっと焦ったけど、ゆっくりと返事をする。
「次は、喀什(カシュガル)やな」
「そうなのね。それなら、いつまでトルファンに居るの?」
「えーと……、明日まで。明日の10時のバスで喀什に向かうんよ」
「えっ、明日……。明日の10時ね。もう行ってしまうのね」
なんでやろ。建萍は中国語で僕は日本語で話してるはずやのに、お互いに理解して会話してる。あれ! 砂嵐の音も聞こえへん。頭がボーッとしてるんやろか。そやけど建萍の声は聞こえる。
建萍は顔を上げた。もう泣いてはいなかったし、少し笑顔になってた。
「いつ日本に帰るの?」
「まだ分からん。決まってへんのよ」
「そうなの。だったら8月25日までトルファンに居て」
8月……。僕は返事ができんと黙ってしもた。建萍は話しを続ける。
「それなら8月25日にまたトルファンにもどって来てね」
8月25日? 古沢さんもなんか言うてたな。
「その日からトルファンで葡萄祭があるのよ。葡萄の収穫祭ね。街中がお祭りで盛り上がるのよ。みんなで歌を唄ったり踊ったり、美味しいものを食べたりするのよ。それはとても楽しいわよ」
だから8月25日なんや。そやけどそんな先の事分からんし、そん時僕は何処に居るんや? 3ヶ月先のことなんて分からんし、それに帰って来れるかどうかも分からへん……。
建萍は更に話し続ける。
「お祭りの時にね、結婚式があるの。その時にね、結婚式を挙げると幸せになれるのよ」
と言うて建萍は軽く微笑んだ。
僕は辛くて目を建萍の顔から反らしてしもた。そやけど建萍は優しい声で、
「8月25日に来てね。待ってるわ」
と言うて立ち上がる。
服の砂を払い、バッグからスカーフを出して鼻と口を覆う。そして優しい目で僕を見つめると、
「行きましょ」
と言うて砂嵐の中へ歩き出した。
つづく
続きを読んで下さって、ありがとうございました。
喋るだけで口の中がジャリジャリします。明日はトルファンを出立します。
もしよかったら、またこの続きを読んでやって下さい。
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今後とも、よろしくお願いします。