28帖 レイン
今は昔、広く異国のことを知らぬ男、異国の地を旅す
楽しい時間はあっという間に過ぎると言うけど、時計を見たらボートに乗り始めて40分も経ってた。
その時、遠くのボート乗り場の方から係員のおっちゃん人民の声が聞こえてくる。どうやら戻って来いと言う様な口振りや。まだ20分も時間が残ってるのにおかしなと思てたら、おっちゃんは空を指差して何か言うてた。
何事かと思って二人同時に空を見上げる。全然気付かへんかったけど、いつの間にか空の半分以上が黒い雲で覆われてた。
「ミョンファ、あのおじさんは何て言うてるんや」
「雨が降りそうやから戻ってきてくれと言ってるよ」
「どうする、戻ろか」
「そうやね、雨が降ってきたら大変だから」
僕は最後の力を振り絞ってボート乗り場に戻る。おじさんに手伝うてもろてミョンファをボートから降ろし、僕も陸に上がった。ご丁寧におっちゃんは、早く帰ってきてくれたからと言うて1元返してくれた。
喉が渇いてたんで横の売店で水を買うて飲んでると、ポツポツと雨粒が落ちてきた。
「ミョンファやばいで、雨降ってきたわ」
「どうしよう、傘持ってきてない」
「とりあえずあそこの東屋に行こか」
「うん」
僕は手を繋いで丘に向かって歩き出した。ミョンファは僕を見てきた。雨が降ってきても、ミョンファの笑顔に曇りはない。ええ顔や。
空は黒い雲で覆い尽くされ、まだ4時やというのに暗くなる。
そしたら急に大粒の雨が勢いよく降り出した。夕立や!
その雨粒は僕らを濡らし始める。北京の雨はめっちゃ冷たかった。
「ミョンファ、東屋まで走れるか」
「うん、頑張る」
さっと二人で走り出しす。東屋までおよそ300メートルかな。でも今はその東屋さえも見えん様になるほどジャンジャン降ってきてる。シャツも、その下のTシャツも、ジーパンまでもがドボドボになる。
僕の後ろを走ってるミョンファが気になり、止まって後ろを振り向いた。
少し遅れて、こちらに向って来てる。
ミョンファの白いワンピースは既にベチョベチョで、体にピタっと纏わり付いて、身体の線と下着が透けて見える。それとミョンファの少し大きめの胸が上下に揺れているのもはっきり分かった。思わず見惚れてしもた。
そやけど今は見とれてる場合やないわ。雨は強さを増す一方で、10メートル先ですら見えなくなってきてる。それに頭から流れてくる雨水で目を開けてるのも辛い。
「ミョンファ大丈夫?」
「うん急ご。もうちょっとやし」
ミョンファは立ち止まってる僕を追い越して先に行く。
東屋のある丘の手前に川があって、石橋が掛かってる。その石橋を越えたらあと50メートルぐらいや。
ミョンファがその石橋を渡ろうとした瞬間、左足を滑らしキャーという声とともに転倒してしもた。僕はすぐに駆け寄りミョンファの体を起こした。
雨は容赦なく振り続いてる。
「大丈夫か。どっか痛くない」
「大丈夫かな? 少し脚脖子(足首)が痛い……かな」
「どれ見せてみ」
僕はミョンファの足を持って少し動かしてみた。
「它伤害了(痛いよー)!」
「痛いか。ごめんな。ちょっと捻挫したみたいやな」
ミョンファは起き上がろうとしたけど、咄嗟に僕はミョンファの身体を押さえ、
「動かんほうがええよ。とにかく東屋まで連れて行くわ」
と言うて、ミョンファの左腕を僕の首に回して抱き上げた。ミョンファは痛みを耐えてるんか恥ずかしさを隠してるんか分からんけど俯いてた。
ゆっくりと石橋を渡り丘を登る。
ミョンファは意外に軽かったけど、さっきボートを全力で漕いだし、腕力は殆ど残って無かった。なんとか東屋まで持ってくれと祈りながら急ぐ。
もう少しで東屋という所まで来た。腕も限界で苦しそうな顔をしてたら、ミョンファは自分の右腕を僕の首に回してしっかりと掴まってくれた。
そのお陰で安定して楽になった。そやけどミョンファの顔が僕のすぐ目の前にあって、お互いの吐息が掛かるほど近い。それに身体が僕の方に向いたことでミョンファの胸が僕に触れて、その柔らかさと暖かさが伝わってくる。ミョンファの鼓動もしっかり伝わってきた。
ドキドキしてるのがよく分かる。
僕の心拍数も一気に上がった。
チラッとミョンファの顔を覗き込むと痛そうな顔はしてたけど、目が合うとニコッと微笑んでくれた。
何とか東屋まで辿り着き、ベンチにミョンファをそっと下ろす。
ハンカチ代わりに使こてる手ぬぐいでミョンファの顔を拭いた。
「おおきに。シィェンタイも拭いてあげる」
ハンカチで僕を拭こうとしてくれたけど、ハンカチは既にドボドボ。固く絞ってから僕を拭いてくれた。
「取り敢えず、もっかい足見せて」
と言うてミョンファの足首を見てみた。右足と比べたら左足の方が少し腫れている様や。今は大丈夫かも知れんけど、もしかしたらこれからどんどん腫れてくるかも。早く冷やしてやりたい。
痛そうやったけどゆっくり動かしたらちゃんと動いたんで、骨には異常はなさそうや。
「ごめんな、痛かったやろ」
「ううん、大丈夫。それよりシィェンタイ、私を運んで疲れへんかった?」
「おお、全然大丈夫やで。だってミョンファは軽いし」
「ほんまー。おおきに、助けてくれて」
「ええで。それと足やけど、骨は折れてへんと思うからそんなに心配せんでええよ」
「うん。そうやけど、どうやって帰る。雨、降ってるし」
「そうやなぁ。まだ止みそうに無いしなぁ」
僕は外の様子を見てみた。空は真っ黒で辺りも相当暗くなってきてる。相変わらず雨は激しく、視界はほぼ無い。
そやしミョンファが不安にならん様に励まそうと思てたら、
「二人だけの雨宿り。なんか兴奋(ワクワク)するね」
と逆に言われてしもた。ほんまにええ子やと思た。
前線が通過したんやろか、風も出てきた。大陸性気候の北京でも寒冷前線は通過するんやったかなと春の天気図を必死に思い出してみたけど、北京の所までは記憶が無い。
そんなことを考えてたら冷静になってきて、少し疲れてる事に気が付いてしもた。
僕はミョンファの側に座る。
濡れた服は体温をどんどん奪う。ちょっとやばいかも。
「雨が止むんやったらそれまで此処で雨宿りして、ほんで帰ったらええねんけどなぁ」
「止みそう?」
「うーん、まだわからん」
その時、急に周りが白くなったかと思うと物凄い音が鳴り響いた。雷や。
キャっと声を上げるミョンファ。しかしその声も雷鳴で消えてしまう。僕もビックリするぐらい大きかった。何処か近くに落ちたような感じや。
ミョンファを見ると少し震えてるように見えた。
「ミョンファ大丈夫。雷は怖い」
「うん少し」
と言うた瞬間に閃光が走り、轟く。
目を閉じて耳を塞ぐミョンファ。
「ちょっとどころやないやん。めっちゃ怖がってるやん」
「ちょっとびっくりしただけっ!」
と強がりを言うてるが、身体はガタガタと震えてた。
雨は相変わらず激しいけど、それに加えて風もきつなってきた。
ミョンファはずっと震えてる。
「ミョンファ、もしかして寒くない」
「なんかさっきから、ちょっと、寒いかも……」
ミョンファの肩に手を回す。体がビクッとして、ミョンファは下を向いた。
肩も背中も冷えてる。
僕は意を決して言う。
「ミョンファ、おいで」
「……」
「こう言う時は、くっついといた方が暖かいねんで」
ミョンファは黙って僕に体を預けてきた。僕は腕を回してミョンファを引き寄せる。
「どう」
「……うん。暖かいよ。シィェンタイは」
「僕もミョンファのお陰で暖かいよ」
そやけど、僕の腕の中でもミョンファは小刻みに震えてる。
僕は震えを止めようと、もっと強く抱きしめた。
ミョンファの頭が僕の目の前にある。濡れた黒髪がしっとりと輝いてる。ミャンファの吐息が僕の胸に掛かってた。
雷が鳴るたんびに、ミョンファの体はキュッと硬くなる。その都度、僕はミョンファの体を強く抱きしめた。
そのうち、ミョンファは僕の胸に顔を埋めてきた。
僕らは暫く何も喋らんかった。言葉は交わさんかったけど、お互いの鼓動がお互いの体に伝わって会話をしてる様やった。
言葉では表せない気持ちを確認し合ってる感覚や。
雨が少し緩くなってきた。雷も少し遠退いてる。その代わりに気温がどんどん下がってきてる。
相変わらずミョンファは震えてる。
身体をそっと持ち上げ、膝の上に座らせた。恥ずかしいのんかミョンファは自分の顔を僕の胸に埋めた。
僕は自分の身体のあらゆるとこで覆い、触れ合える所は全て触れてミョンファを温めようとした。
するとミョンファは両腕を僕の身体に巻きつけてきた。ミョンファの鼓動と温かさが僕に伝わってくる。僕もギュっと力を込めしかも優しく抱きしめる。身体全体でミョンファを感じことができた。
ミョンファの緊張が緩み、震えが止まったような気がした。
しばらくすると雨は止み、風も収まってきた。
ミョンファは僕の胸の中で微笑んでる。完全に安心しきってるその表情は、夢でも見てる様やった。
そして黙ったまま顔を上げ、ゆっくりと目を開けて僕を見てきた。
それは全てを僕に委ねてる目やった。
そんなミョンファを僕は大切にしたい。
そして壊したくない。
そう思えば思うほど、自分の中の後ろめたい部分が僕を邪魔してくる。
僕は旅人……。
ほんまにあと一歩。いや、あと数センチやのにその距離を越えられない根性無しの自分がおった。そんな僕は、思ても無い事を口走ってしまう。
「そ、そろそろ帰るか」
「……」
「雨、止んだで」
「うん」
とだけ言うて、また僕の胸に顔を埋める。
僕は何も言わず、ギュっと抱きしめた。
出来ることは何でもしたかった。
でも、僕は旅人。
それからどれぐらい時間が経ったやろ。雷鳴は遠く東の方に去り、雲は消え、空には星が出てきてた。
「ミョンファどうする」
僕の胸の中で首を振ってる。
「もう夜のお客さん来てるで」
「いいの……」
「朴君、心配してへんか」
「大丈夫」
「でも夕方には帰るって言うてたで」
「……」
僕は時計を見る。
「6時半回ってるわ。そろそろ帰ろ……」
「いや!」
僕の胸の中で何度も首を振る。幼い子どもの様に。
「おじさんおばさんも待ってるんと……」
「帰りたく……ない」
そやな、僕かてずっとこのまま居たい。帰りたくない。ミョンファを心と体でずっと感じてたい。
どうしようも無くて、僕はミョンファの背中をゆっくり擦る。
僕が黙って擦ってるとミョンファは顔を上げてきた。今にも泣きそうなのを我慢してる。
そしてゆっくりと中国語で呟やいた。
「我想、和你、接吻」
意味は全く分からんかったけど、目を見てたら僕にはミョンファの気持ちが痛いほど伝わってきた。
もうこれ以上辛い思いはさせられへん。僕の気持ちも張り裂けそうや。
ミョンファの顔を見て決めた。僕の気持ちはもう決まってる。
ごめんやったで、ミョンファ!
「你吻我一下」
と小さい声で言うた。
僕はそっと顔を近づける。
ミョンファは静かに目を閉じた。
つづく
※ 我想和你接吻 = あなたとキスしたい。
※ 你吻我一下 = キスして。
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