17帖 ミョンファと別離
今は昔、広く異国のことを知らぬ男、異国の地を旅す
ミョンファちゃんが冷麺を運んで来てくれる、ミョンファちゃんに会える、と思てたのに、運んできたのはおばさんやった。
残念――。
そやけどそんな思いは、次の瞬間に覆った。
ちょっと険しい口調やったけど、あの透き通る天使のような声が聞こえてくる。
「お兄ちゃん、今、向こうのお店は忙しいんだからね、自分で取りに来てよね!」
というようなことを朴君に、いやお兄ちゃんに朝鮮語でつぶやく声やった。
ミョンファちゃんは膨れっ面で、そしてお兄ちゃんを睨みながら、水が入ったコップを二つ運んで来てくれた。
その表情は、何とも言い難い可愛らしさがある。
僕の視線を感じたんか、ミョンファちゃんはこっちへ振り向く。
一瞬、僕と目が合うて、僕はドキッとした。
ミョンファちゃんは、ハッとして下を向いた。
そして慌ててテーブルに水を置きながら、
「ど、どうぞ、ごゆっくり」
と、日本語で言うてくれた。
それだけ言うと、やっぱり下を向いたまま急いで隣の店に戻ってしもた。
僕は頭が空っぽやって「ありがとう」の一言も言えんかった。
ドキドキしてる。なんやこの感覚は――。
水を一口のみ、息を整えようとした。目が泳いでるのが自分でも分かった。
あかん、なんか言わな。多賀先輩が、ニヤニヤしてこっち見てるわ。
「ぱ、朴君!」
しもた! 声が裏返った。
「今、ミョンファちゃんに怒られてたん?」
「そうです。僕は、妹にいつも怒られます」
朴君は平然とシシカバブーを焼いてる。
「でも、可愛いからいいやん」
実のお兄さんに何を言うてるんや、僕は。
「可愛くないですよ、ほんとうに」
「そんなことないで、めちゃ可愛い……で」
「じゃあ妹に言っておきます。喜びますよ」
「えっ!」
それは……ちょっと……、恥ずかしい。
「そや、ミョンファちゃんも日本語喋れるんか?」
多賀先輩、ナイスフォロー。
「日本語、少し喋ります。私より下手くそです」
結構上手やと思うけどなー。もっと喋ってみたら分かるやろ。
もっと喋ってみたい!
「でもミョンファは英語も話しますよ」
「ということは、全部で四つの国の言葉を話せるってことか?」
「そうですね。日本語は私と同じ。おじいさんに教えて貰ったのです。英語は学校で習っただけ。でも話せます。僕より頭はいいです。ははは」
なるほどミョンファちゃんはすごいなあ。そやし朴君はいつも怒られてるんや。妙に納得して笑ろてしもた。お陰で落ち着いてきたわ。
「ところで、日本人のお客さんはよく来るんですか?」
「あなた達が初めてですよ。それで、初めて日本人のお客さんが来たということを昨日の夜、おじさん達と話しました。ミョンファもかっこいい日本人のお客が来たと言っていました」
「その人って冷麺を食べてた人やろ」
「そうです。二人で冷麺を食べてた。その中の一人が、最近人気の中国人ロック歌手に似ていると言っていました」
「実は昨日、朴君の店に来る前に隣で冷麺食べたんやで」
「そうしたら、あなた達のことを言っていたと思います。とても格好良かったと言っていましたから」
「ロック歌手やったら俺のことかなぁ。ギター持ってきたらよかったなあ」
そうやろなー。僕より多賀先輩の方が格好ええと言えばそうや。
それに多賀先輩は、俳優の安倍寛に似てるしなぁ。
「いえいえ違います。シィェンタイさんの方でしたよ」
何? 僕の方、と言った、よね。まさかぁ?
「僕の方? 僕は日本ではあんまり格好良くないんですけど」
「シィェンタイさんの顔は、中国では格好いい顔です。女の子に人気がある顔ですよ。ロック歌手にも似ていると思いますよ」
まじか。ほんまに僕なん? どうしよう、なんか嬉しいやん。
そやけど、まさか中国ではモテ顔やったなんて思わんかったわ。
もしそれがほんまやったら、ミョンファちゃんともっと喋りたいな。朴君、いや、お兄様に頼んでみよかな。
冷麺を食べたせいもあるけど、なんか体が火照ってきたような気がする。
すると他のお客さんが入ってきたんで、朴君は応対しに行ってしもた。
「よかったやんけ北野。ミョンファちゃんに気に入られとったとやないかぁ」
「いやーホンマですかねー、僕なんか。それやったら、また明日も来てみましょか」
「まあ俺はええけど」
多賀先輩はニヤニヤしてる。僕の心の中を読まれてるようで恥ずかしかった。
お店の方はどんどんお客さんが入ってくる。繁盛してるなぁ。
冷麺も食べたし、僕らはお金を払って店を出た。
そやけど、どうしても気になったんで、僕は隣の店を覗いてみた。
店はお客さんでいっぱい。奥の方からミョンファちゃんの朝鮮語の声だけが聞こえてた。
店に出て来るかなーと思ってたけど、出て来んかったわ。
でもそれが、ちょっと安心した。
もし出てきたらなんて言うたらええんか分からんかったし、それを考えるだけでまたドキドキしてきた。
待っててくれた多賀先輩の所へ行く。
「どうやった。ミョンファちゃんに会えたけぇ」
「居ましたけど、忙しそうでした」
「それやったら、昼飯時が終わるまで居ったらええやん。俺は行きたいとこ色々あるし、一人で行ってくるで」
僕はまだ体が火照ってるような感じがするし、なんか頭が痛いような気もしてた。
熱が出てきたんかな? 体もしんどなってきた。
「いや僕は、旅館に帰りますわ。なんか熱っぽくてしんどいですわ」
「それはミョンファちゃんのせいと違うんか?」
「ア、アホなこと言わんとって下さい。朝から喉も痛かったし、風邪引いたかもしれませんわ」
「分かった分かったぁ、そしたら先に戻って寝とけよ」
僕と多賀先輩は、駅で別れた。
僕は地下鉄を乗り継いでなんとか宿に戻ってきたけど、かなりふらふらや。
まだ、昼間やけど寝ることにした。
目が覚めた。多賀先輩はもう帰ってきてて、僕の方を見ながら静かにギターを弾いてる。
「おお北野、どうや、大丈夫か?」
「はい、大分楽になりました」
「ほんで、お前、晩飯どうすんねん」
時計を見ると、もう7時を回ってる。結構寝てたみたいや。
「どうしよかな」
「もし食べられるんやったら、これ食べや」
「なんですの、これ?」
「旅館の前にあった屋台でな、お好み焼きみたいなん売ってたから食べたらうまかってん。ほんでやで、わざわざお前の分も買うてきたったんやで」
「ほんまっすか。ありがとうございます。ほな、いただきますわ」
心配してくれてたんや。意外と優しいとこあるやん。
少し冷めてたけど辛くて美味しい。お好み焼きというよりも、一銭洋食に近かった。
食べ終わって水を飲んでたら、超さんが入ってきた。
超さんは、もう既に出来上がっている感じで陽気や。また筆談で話をした。姜さんもビールとつまみを持って遅れて入ってくる。
超さんたちは明日、黒竜江省に帰るらしい。
ほんで、もし黒竜江省に来る機会があったら是非家に来てほしいと住所まで教えてくれた。僕らも住所を教えた。
家に帰ったら黒竜江省の特産を僕らの家に送ってあげると言うてくれた。ただ、その特産物が何なのかは筆談では分からんかった。
その後もビールを飲みながら色々話をした。
途中で超さんは「美元」が欲しいと言うてきた。
僕は「美元」が何か分からんかったんで質問したら、例えで「日元」はつまり「日円」やと超さんは言う。
なるほど日本円のことか。そこまでは分かった。
そしたら「美元」は何なんやろう。
姜さんもいろいろ説明してくれたけど、その「美」というのが何かわからん。美しいお金では無いらしい。
そういえば大使館巡りをしてた時に、アメリカ大使館のプレートに「美国」って書いてあったんを思い出した。
それで「美」はアメリカかと聞いたら、正解やった。
そしたら「美元」はアメリカのお金かと聞いたら、そうだと言って頷いてくれた。
なるほど、おっちゃんは米ドルが欲しいんや。
中国では一般人民が米ドルを手に入れることは難しいらしい。
僕は今までお世話になったお礼にと思て、50ドル札をおじさんに渡すことにした。もちろん半分は多賀先輩に貰うつもりで。
そしたらおじさんは、両替と勘違いして人民元を出してきた。
僕は、これまでのお礼ですと言うて受け取りを拒否したけど、
「それはだめだ、受け取りなさい」
という事で、超さんから100元を貰った。
レートでいうと200元ぐらいするんやけど、このおじさん達にはそれ以上の世話になったんやから、100元でも高いと思た。
だから、それでは申し訳ないと思って日本の千円札も貰って頂いた。
おじさん達は、めっちゃ喜んでくれた。僕も嬉しかった。
それから30分ぐらい喋った。そろそろ寝ると言うてきたんで、最後に記念写真を一緒に撮ることにした。じゃあ嫁さんも呼んで、みんなで撮ろうということになる。
奥さん達もやって来て、みんなで写真を撮った。
そしたら、超さんの奥さんが自分のカメラを出してきて、僕とツーショットで撮りたいと言いだした。
なんで僕とツーショットなんかって聞いてみたら、
「あなたみたいに若くて美男子にはそうそう会えないのよ。いいでしょ」
と言われたようやった。
昼間、朴君が言うてた僕の顔が中国の女性にはウケると言う話は、ほんまやってんなぁ。
「そしたら私も」
ということで、今度は姜さんの奥さんと一緒に撮ることになる。
ついでに多賀先輩ともツーショットを撮ってたけど、それはあくまでおまけやった。
記念撮影会も終わり、奥さん達は部屋に戻る。
超さん達は、明日の早朝にここを発つので、お別れの挨拶をする。
僕らは、大変お世話になって嬉しい限りだということを伝える。
おじさん達も、僕たちに出会って楽しかったと言うてくれた。黒竜江省に来た時は絶対に家に寄ってくれと念を押された。
それなら、もし日本に来ることがあったら僕らの所にも来てほしいと言うた。
でもそれは叶わない事やとおじさんたちは言う。一般の中国人が外国へ行くことは大変難しいことらしい。少し悲しげな表情やった。
でもいつかまた会えることを楽しみにしてるし、これからも元気で旅をしなさいと言うてくれた。
僕らは、なんとお礼を言ったらええんか分からんかった。ほんまに嬉しかったし、明日お別れという事がとても寂しく感じた。
最後の最後に、四人で固い握手をし、
「再见」
と言うてお別れをした。
部屋の電気を消して、多賀先輩と寝ながら話す。
「なんか寂しくなりますね」
「せやなー。でもほんまにええ人に会えてよかったわ」
「もし黒竜江省に行くことがあったら……、僕、会いに行きますわ」
「また会えたらええなー」
ビールで酔いが回ったのか、まだ熱があるのか分からんかったけど、瞼を閉じたらすぐに寝てしもた。
つづく
続きを読んで下さって、ありがとうございました。
次回もまた「僕」はミョンファに会います。
もしよかったら、またこの続きを読んでやって下さい。
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また、感想など頂けましたら、大変うれしく思います。
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