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世界の果ての501号室  作者: ロッドユール
13/13

再びしおりの部屋

 僕は善人町の駅を降りると、僕が見たあの感動を一刻も早くどうしても誰かに伝えたくて、しおりの部屋までノンストップで飛ぶように走って行った。こんな時、こんな話を聞いてくれるのはしおりしかいない。

 まだ、体はどこかおかしく衰弱していたが、なぜか、訳の分からないエネルギーが体の奥底から湧き上がっていて、走っても走っても不思議と疲れをまったく感じなかった。というか、何でこんなに元気なのかと逆に怖くなるほどに、僕はエネルギーに満ち溢れていた。

 駅からの十キロ近い距離を一気に走り切り、団地の階段を駆け上がると、僕はしおりの部屋のチャイムをコンマ一秒も惜しんで素早く押した。

 しおりはいつものように、長い無音の間の後、無愛想な表情に乗っかった不機嫌な目を、開けた扉の隙間から覗かせた。大体いつも愛想のない人間だったが、寝ていたのかいつもより格段に無愛想だ。

「寝ようとしてたんだけど」

 言葉に鋭さがあった。しおりは昼夜逆転しているのでいつも朝方に寝る。でも、僕の興奮は抑えられなかった。

「僕は見たんだ」

「寝ようとしてたんだけど」

「僕は見たんだよ」

「寝ようとしてたんだけど」

 しおりの口調に、静かな怒気が籠っていく。

「最近不眠気味でろくろく寝ていないのに、なぜか今すごくいい感じで眠気が来て、その中に心地よく入ろうとしていたのよ」

 しおりが、殺意の籠った目で僕を見る。

「でも、僕は見たんだ」

 しかし、僕の興奮は抑えられなかった。僕はあれを見てしまったのだから――。

「はあ・・」

 そんな僕を見て、少し呆れた表情をして、しおりは小さなため息をついた。

「なんでそんなに全身汚れているの」

 しおりは、僕の全身を上から下までジロジロと眺めながら言った。

 そう言われて初めて気づいたのだが、よく見れば僕の全身は泥だらけで、指の先からはところどころ血が滲んでいた。僕はこんな恰好で朝の通勤ラッシュの電車に乗ってきたことに驚きつつ、でも、やはり、それどころではなかった。

「僕は見たんだ」

 僕は再び叫ぶように言った。

「僕はすごいものを見たんだよ」

 僕は興奮に目を剥きだし、しおりに迫った。

 しかし、しおりは僕の異常な興奮度とはまったく真逆に、氷河期も真っ青な冷め切った表情で僕を見つめると、「ふ~ん」とだけそっけなく言って、僕に背中を向け、部屋の中に消えた。でも、カギは掛けられなかった。

「・・・」

 僕は一瞬迷ったが、とりあえず入ってもいいのだなと思い、慌てて、扉を開け、しおりの後を追いかけて部屋の中に入った。

 いつものように玄関を上がって奥の畳の部屋に入ろうとした。その時だった。

「ダメ」

 しおりが叫んだ。僕は突如コンセントを抜かれたロボットのように、その場にピタッと固まった。

「あなたは汚いからこの部屋に入ってはだめよ」

 しおりはいつもの畳の部屋から少しきつい口調で言った。

「そこのダイニングならいいわ。フローリングだから」

 僕は仕方なくしおりのいる六畳の畳の部屋と襖で仕切られている隣の台所に通じるフローリング敷きのダイニングに正座した。確かに今の僕はどうしようもなく汚れていた。靴下も申し訳ないくらい泥で真っ黒だった。

 しおりは、ダイニングと畳の部屋とを仕切っている敷居の前で、僕と向かい合う形で、いつものように体育座りでそこに静かに座った。敷居を挟んで向かい合っている僕たちはなんだかヘンテコだった。

 しおりの部屋は、ダイニングも含めて相変わらず何もなかった。変わっているのは六畳間に布団が敷いてあることぐらいだ。

 あらためてしおりを見ると、風呂に入ったばかりだったのか、顔が上気してうっすらピンク色にほてっている。色白なしおりの肌にその淡いピンクは絶妙のコントラストで艶めかしさと透明感を際立たせ、僕は一瞬、ハッとした。

「で、何を見たの?」

 しおりに言われて、またハッと自分がここに来たわけを思い出した。

「僕は見たんだ」

 僕は興奮気味に言った。

「それはさっき散々聞いたわ」

 しおりの機嫌は少し和らいでいた。だが、呆れ顔はそのままだった。

「・・・」

 僕が興奮して一方的にまくしたてる話を、しおりはいつものように眉ひとつ動かさず無表情に聞いていた。

 すべての話を聞き終わるとしおりはしばらく目を閉じ沈黙した。

「・・・」

 そんなしおりを僕は見つめる。

「今度私も行くわ」

 そして、再び目を開けると、しおりは言った。

「それはダメだよ」

 僕は、即座に答えた。

「なぜ?」

「だって、君と行ったら僕は孤独ではなくなってしまう。僕は孤独だから死のうとしたんだ」

「そう、残念だわ」

 しおりは、本当に残念そうに言った。

「ごめんね」

 僕は、なんだかとても申し訳ない気持ちになった。

「いいのよ。あなたの言ってること分かるから。私も一人で行くべきなんだわ。そういう所なのよ。樹海って」

「僕は、アウシュビッツのユダヤ人たちはとても不幸な人たちだと思っていたよ」

「人は外からは分からないものよ」

「うん」

 僕は、しおりに話をしに来てよかったと思った。こんな話、まともな人間なら誰も聞いちゃくれない。多分、在日朝鮮人のおじさんでも無理だろう。こんな話をまともに聞いてくれる人間が知り合いにいるなんて、僕はものすごくラッキーだ。

「来てよかったよ」

「私はよかったのか分からないわ」

「そうだね・・」

 閉められたカーテンの向こうから、スズメの鳴く声が響く。今は朝なのだと、僕はこの時初めて気づいた。

「ところで、この部屋には何かいるね」

 僕はふすまを隔てた隣りの四畳半の部屋に、ふと何かを感じた。

「そうよ。幽霊がいるわ。頭の禿げたおじいさんの幽霊よ」

「えっ」

 あまりに当然のようにしおりが言うので僕は驚く。

「この部屋に越してきて、半年で気づいたわ」

「ええっ、それでまだ住んでるの。それに気づくまでになんか、ちょっと時間かかってるとこがまた気になるけど・・」

「孤独な独居老人よ。自殺ね。今じゃ珍しくもないわ」

「君は・・、その、怖くないの・・?」

「全然。怖くなんかないわ」

「君は強いんだね」

「強くなんかないわ。幽霊より人間の方が怖いだけ。それに家賃も安くなったし」

「へぇ~、僕は幽霊の方が怖いけどなぁ」

「あなたはまだ本当の人間の怖さを知らないからよ」

「そんなもんかな」

「そんなものよ」

「そうなのか・・」

 僕も人は怖いけど、やっぱり幽霊の方が怖い。

「でも、あなたがこの部屋の幽霊に気づくとは思わなかったわ。今まで一度も気づかなかったじゃない」

「う~ん、確かにそう言われるとそうだね。やっぱり一度死にかけたからかな」

 僕は首を傾げた。樹海に行って、僕は、知らずに何かが変わったのかもしれない。

「私も死のうとした事があるのよ」

「そうなの?」

「でも、痛いからやめたわ」

 しおりは、さらりと言った。

「僕もやめた。同じだね」

「ええ、理由は違うけれど」

 そこで、しおりは少し微笑んだ。

 その時、戦闘機がものすごい轟音と共にちょうどこの団地の真上を通過して行った。その残った轟音が、部屋中に轟き渡り襖がガタガタと激しく音を立てた。

「あなたは生きるのね」

 戦闘機が残して行った余音が消え、部屋はまた静かになると、しおりが言った。

「うん」

「生きていくなら、パートナーが必要だわ」 

「そうだね」

 その時、突然しおりは、大きく伸びをした。

「あ~あ、しょうがないな」

 しおりは、なぜか少しうれしそうにそう言った。

「何がしょうがないの?」

 僕がきょとんとして訊くと、しおりは悪戯っぽい笑みを浮かべて僕を見た。しおりは、笑うとやはりとてもかわいかった。

「私がパートナーになってやるか」

 しおりはしょうがないなという割には、やはり、どこかうれしそうだった。

「えっ?」

 僕は突然の話に戸惑う。

「不満?」

 しおりは少し首を傾げて僕の顔を覗き込む。

「そんなことないよ。とても満足だよ」

「ふふふっ」

 しおりはまた悪戯っぽく笑った。

「あなた今幸せでしょ」

 しおりは腰を浮かせ、僕の顔に触れそうになるくらい顔を近づけて僕の顔を覗き込んだ。しおりの温もりや息遣いを感じた。

「うん、幸せ」

 僕は本当に幸せだった。二人の頭上をもう一機、戦闘機が轟音を上げて飛び去って行った。

「自分なんてあてにならないね」

 僕が言った。

「そうよ。この世にあてになるものなんかないのよ」

 しおりはそう言って、僕の胸に入り込んできた。とても、真っ白い体だけれど、とてもやわらかく温かかった。

「でも、私はいるわ」

 しおりは、僕の胸に顔をうずめながら言った。

「うん」

 僕はしおりの体の重み、温かさ、臭い、感触、すべてをあの樹海での光景のように体のすべてで感じることができた。

「結局、平和なんだね。この町は」

 僕は言った。

「そんなものよ」

しおりは、言った。

 その時、僕の携帯が鳴った。

「もしもし」

「僕は誰ですか?」

「たかし君だよ」

「分かりました。ガチャッ、プープープー」

 また、たかし君からだった。

 みんな常に自分を確かめているのだ。猫が欠かさず毛づくろいをするように。


 今日も気づけば、大将の店で閉店過ぎまで飲んでいた。最後に残るのはまたいつもの常連メンバーだ。

「この店の唯一気に食わないところはキムチがない事だ」

 在日朝鮮人のおじさんが不平をもらす。

「ねえ、ところで、この焼き肉ってなんの肉なの?」

 ふいに太ったソープ嬢が、大きな肉の塊を口に入れながら呟いた。店の壁に貼られた貼り紙には、ただ「肉」としか書かれていない。

 テーブルを囲んだ全員が首を傾げ、その後、いつものように誰が食べるのか分からないキャベツ炒めをせっせと炒めている大将の方を見た。

「へへへへっ」

 大将は鉄板から立ち上る湯気の向こうで、その熱気で上気したピンク色に膨らませた子どものような笑顔をこちらにただ向けているだけだった。

「そういえば、ここの近くに動物園あったな」

 在日朝鮮人のおじさんが呟いた。

「そういえば、最近バクが死んだってニュースで言ってたな」

 元殺人犯のおじいさんが言った。みんなもう一度一斉に大将を見る。

「へへへへっ」

 大将はやはり、そのピンク色に上気した頬をまん丸に膨らませ、子どものように無邪気に笑っているだけだった。 

「でも、バクの肉ってうまいらしいですよ」

 僕が言った。

「そういう問題?」

 太ったソープ嬢が言った。

 今日も特に意味もない一日が月夜の闇の中に更けていく。人通りのなくなった静かな町に、大将の小気味よいコッコッというキャベツを炒める音が軽快に響いていった。


                            おしまい

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