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世界の果ての501号室  作者: ロッドユール
11/13

樹海

 僕は毎日まったくよく眠れるのだが、というか寝過ぎというくらいなのだが、(僕は毎日十時間以上寝ている)この間、行った医者になぜか処方された睡眠薬を持って富士の樹海へ向かった。

 とてもよく晴れた満月の夜だった。団地のベランダから、真黒な夜空の真ん中に、きれいにまんまるく光り輝く満月を見ていたら、なんとなく今日なのだという気がした。

 バスを降り、それからしばらく歩き辿り着いた樹海の森は、その真っ暗な闇の向こう側に、広大に広がる独特の静寂と神聖さを内包した不気味さを漂わせていた。

「・・・」

 僕はそこで一度立ち止まった。何か大きくてとても冷たい意思が漠然と僕を見下ろしているようなそんな感覚があった。それはとても巨大で恐ろしい絶対的なものだった。

 僕はほとんど車の通らなくなった月明りだけの暗い車道の端を一人歩いて行った。道路脇の暗闇が大きく口を開け、樹海という広大な生命の轟きが僕に迫る。

「・・・」

 どこでこの暗闇に入って行こうか、なかなかそんなタイミングのようなものがつかめなかった。僕は、言い訳するように、ただだらだらと樹海を割るようにして伸びるその一本道を歩いて行った。


 一時間ほど歩いて、少し疲れを感じ始めた頃、僕は覚悟を決めた。道路脇の森の中に広がる漆黒の闇は、やはり圧倒的な恐怖を湛えていた。だが、これを乗り越えなければ自分を殺すことなどできはしない。僕は自分を奮い立たせ、その暗闇の中へと思いきって足を踏み入れた。

「・・・」

 入った瞬間、もうそこは別の世界だった。今まで僕が生きていた世界とはまったく違う世界がそこにあった。僕が生きていた世界はこの世界のほんの一部、ほんの表層的な部分でしかなかった。世界は無尽蔵に奥深く、そして、多元的だった。僕はそのことに気づく。

 暗い。本当に暗い。闇が体を包む感覚に僕は背中が冷たくなるのを感じ、そして、本来、自然は人間にとって冷酷でしかないことを皮膚を通して知る。カサカサと歩くたびに枯れ葉の砕ける音、その枯葉一つ一つ、松葉の一本一本の砕ける感触、それだけが唯一の有機体の存在として闇の中で蠢く。

 暗い。とにかく暗い。闇に対して感触があるかのように、手を伸ばせば触れそうなほど暗闇が濃い。

 視覚を奪われた人間はその世界を奪われる。五感のすべてがおかしくなってくる。あまりにも静かだ。目も鼻も口も皮膚もすべてが静かだ。ここは今まで僕が生きてきた世界の常識が通用しない。ここはまったく僕の知らない未知の世界だった。ただ微かに光る木々の間から見える点のような月明かりだけが進む道としての頼りだった。

 僕は無感覚のまま先も分からず、ひたすらその暗闇の中を歩いた。空間的な世界認識がうまくできない。それに連動して、時間の感覚もなくなっていった。感覚がないと不思議と思考も静かになる。主観的な自分の存在がだんだん怪しげなものに思えてきて、自分という存在が、自分という枠の輪郭を見失っていく。自分が森の闇の中に体ごと溶けて消えていくようだった。

 歩いても歩いても、僕の中のどこかにある極限的な恐怖と興奮で、疲れはまったく感じなかった。むしろ、何か体の奥底から得体のしれない力が湧き出していた。頭の中が、普段使わない機能を使い始めていた。集中力が高まり、自分の呼吸の微細な感覚まで感じることができた。血管を流れるすべての血の流れが手に取るように分かり、すべての細胞の一つ一つの生きている鼓動を感じることができた。そして、呼吸をするたびに全身の細胞に酸素分子一つ一つが流れ、吸収されていく流れが手に取るように分かった。

僕の意識は極限まで研ぎ澄まされていた。


 どのくらい歩いただろうか、ほんの一瞬のような気もするし、一晩中のような気もする。しかし、どう考えても相当な時間歩いた体の感覚はある。

 その時、遠くの方に何か明かりのようなものが見えた。

「何だろう?」

 そうとう森の奥深くに入って来ているはずだが・・、不思議に思いな

がらも、僕はその明りの方に近づいて行った。

 不思議と恐怖は感じなかった。僕は導かれるように、真っすぐその明かりに向かって歩いた。

 その明かりは小さな焚火だった。焚火のすぐ横には、キャンプ用の黄色いテントが張ってあり、よく見ると、焚火の前に人が一人炎を見つめ座っていた。丸いメガネをかけた、白くてやわらかそうな妙に肌のきれいなおじさんだった。

 突然暗闇から現れた僕の姿を見ても、そのおじさんはまったく驚く風はなかった。顔をゆっくりと上げ無気力な目で僕を見つめると、また何事もなかったように、またその無気力な目で再び炎を見つめ続けた。何か人生の大切なものを諦めたようなその目は、生きながら死んでいるように淀んでいた。

 拒否されている感じを受けなかった僕は、小さな焚火を挟んでおじさんの向かい側に行き、そこに座った。そこには丁度座るに手ごろな平たい石があった。おじさんはやはり何も言わなかった。

 おじさんは死んだ目で炎を見つめ続けていた。僕もなんとなしに、ぼーっと、炎を見つめた。

「私は東大を首席で卒業したんです」

 僕が焚火の前に座って、どのくらい時間が経ったろうか。そんなことを、ふと考え始めた時だった。おじさんが突然呟くように言った。おじさんはやはり淀んだ目で炎を見つめたままだった。

「博士号も二つ持っています」

 その生気のない表情が、焚火の炎で揺れていた。

「私は医者であり、弁護士でもあります。政治家もやりました」

 僕に話しているというよりは何か架空の人物、もしくは独り言を言っているようなしゃべり方だった。

「・・・」

 僕は黙っていた。

「私は見たものをすべて覚えることができるんです。スキャナーがものを読み込むように、カメラが写真を撮るように、見たものをすべて覚えることができる。瞬間的に」

 すごい話なのに、おじさんは悲し気に話をする。

「まったく行ったことのない外国の言葉を三日で覚えたこともあります」

 おじさんの発する言葉は、まるで僕を通り抜けて、暗闇の中に溶けて虚しく消えていくようだった。

「そして、私は見るもの聞くものすべてをすぐに理解できました。小学生の時、ちょっと興味のあった物理の法則を、私は本でちらっと読んだだけでその中身をすべて、自然に理解していました。それは大学で習うレベルのものでした。先生たちはものすごく驚いていました。でも、私は子どもが絵本を読むように、自然と理解していたのです。理解するというより理解してしまうのです。考えるとか努力するとか、そんなことでは一切なしに、自然と分かってしまうのです」

「・・・」

「私は小学校低学年の段階で、同級生がみんなバカに思えました。いえ、大人たちもです」

「・・・」

「私は、幼くしてこの社会の仕組みとその価値をすべて知ってしまった。そして、自分がその仕組みの中で、生まれながらどこまでも評価される人間であるということもすべて知ってしまった。そして、実際、私はその中で、その中心で最高の評価で生きてきた」

「・・・」

「私は完璧だった。いや、私の人生が完ぺきだったと言うべきでしょうか。欲しいものはすべて手に入りました。金や物だけではありません。地位も名誉も学歴も、女も友人も家族も羨望も信頼も優越もありとあらゆる評価や賞賛、権力、すべてです」

「すごいですね」

「ええ、すごいんです。私は特別な人間なんです」

「でも、死ぬんですか」

「でも、死ぬんです」

「僕は女性にモテれば幸せなんだと思っていました」

 僕がそう言うと、おじさんはひどくがっかりした表情をした。

「僕にはあなたが死ぬ理由が分からない」

 僕は言った。実際まったく分からなかった。おじさんは僕が、いや、世間一般の人が欲しいものをすべて持っていた。

「理由はありません。生きている理由がないように」

「ただ死ぬんですか」

「ええ、ただ死ぬんです」

 おじさんは何の迷いもなく答えた。

「あなたも死ぬんでしょ」

「ええ、死ぬんです」

 お互いが、無意味な死の確認をすることに虚しさを感じながら、でも、言葉だけは、お互い話の流れの中で口から出ざる負えなかった。そのことにさらに虚しさを感じる。

「・・・」

 そこで会話は途切れた。頭上の木々が静かに揺れていた。樹海は相変わらずそれそのものが死者のごとく静まり返っていた。

「・・・」

 おじさんの脇を見ると、食べ終わったであろう缶詰の空き缶が何個か転がっていた。この人は死ねない。僕はこの時、直感的にそう思った。

 僕は自分がここに死にに来ている事を思い出し、ゆっくりと立ち上がった。僕が立ち上がって背を向けても、おじさんは、僕がここに来た時とままったく同じように、まったく無関心に無気力に炎を見つめ続けていた。

 僕は再び、樹海の闇の中に入っていった。

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