元特攻隊長のさとしくんの兄の話
さとしくんが自殺をした。
二十七階にある自宅のマンションのベランダから飛び降り、即死だった。発見された時、彼の醜い顔は潰れ、目は飛び出し、内臓が口からはみ出し、脳味噌が鼻の穴から流れ出たまま、彼は血だまりのコンクリートの上に横たわっていた。
今日は連休最終日ということもあって、いつもの元やくざの大将の飲み屋は、夜になっても客は僕とおじさんの二人だけだった。
外は昼過ぎからかなり激しい雨が降っている。ガード下にベニヤ板を貼っただけの簡素なつくりのこの店は道路に面して壁はなく、激しい水しぶきが店の入り口のところまではねてきていた。
そこへ、暇なのか元特攻隊長の兄が珍しく、自分でチュウハイを注ぐと、僕たちのテーブルにやって来て一緒に座って飲み始めた。
「あいつ、童貞だったけど処女じゃなかったんすよ」
元特攻隊長のさとしくんの兄の声が、静かな店内に響いた。さとしくんの兄の口元は思い出し笑いをかみ殺すみたいに、ニヤついていた。
「処女じゃない?」
在日朝鮮人のおじさんが怪訝な顔で訊き返した。
「あいつの高校時代のあだ名テンガなんすよ」
兄は、クスクスと今にも噴き出しそうに言った。
「テンガ?」
おじさんは首を前に突き出すように兄を見る。
「あいつの高校の番長がホモだったんすよ」
兄は笑いをこらえきれないといった感じで話し続ける。
「ホモ?」
おじさんは眉根を寄せ、さらに首を前に出す。
「あいつはよくケツの穴押さえてガニ股で歩いてましたよ」
ついにこらえきれなくなった兄はそう言って笑い出した。
「あいつの行ってた高校はオレが行ってたヤンキー高校にも入れないような、本当にヤバイ奴らが行く、本当のバカ高校だったんすよ」
今日の兄はいつになく饒舌だった。
「まあ、俺が言うのもなんなんすけど、ほんとに最低な高校でしたよ。ほんとバカばっかで、窓に鉄格子とか普通についてんすよ。マジやばいっすよ、ほんと」
雨音に混じり、遠くの方からゴロゴロという雷の音が聞こえてきた。
「・・・」
この前ここで、淡々と初恋の話しをしていた、さとしくんの顔が浮かんだ。
外の激しい雨音が、静かな店内に淡々と聞こえてくる。雨は相変わらず降り続き、雨脚はまったく衰える気配を見せない。そんな激しい雨の吹きすさぶ中、店の前をデート帰りのカップルや家族連れが傘をさしながら足早に駅の方へと歩いて行く。
「・・・」
そんな彼らを見つめながら、僕はこの人たちはさとしくんが死んだことなど、いやそんな人間がこの世に存在したこと自体、誰も知らないのだろうなとふと思った。それは当たり前のことなのだけれど、なぜかそのことが、その時の僕には、あまりに残酷で理不尽なことのように思えた。
「動物ってさぁ」
兄が再び口を開いた。
「動物?」
おじさんが訊き返す。
「そう、動物。ほら、たまにアフリカなんかの野生動物の番組とかやってるじゃない。ライオンとかチーターとかがシマウマとか草食動物狩ったりするやつ」
「ああ」
「ああいう世界って、弱い奴は真っ先に死んでくじゃない。ライオンとかに食われて」
「そうだね」
「そういうの、子どもの頃とか残酷だなぁとか思ってたんすよね。だけど、今は、その方が実は幸せなんじゃないかとか思うんすよ」
兄の目は少し得意げだった。
「人間って自分で死ぬしかないわけじゃない。そういう奴って」
「・・・」
「しかも、生態系の役に立つわけだし、食われればさぁ」
雷が鳴り、雨はその激しさを増していた。
「僕は最低です・・」
僕はさとしくんが、最後に力なく呟くように言った言葉を一人思い出していた。さとしくんの人生とはいったいなんだったのだろうか。そんな考えが、ほろほろと少し酔い始めた頭の中に漂うように浮かんだ。
入り口の隣りでは大将がいつもの通りバカでかい鉄板の上で大量のキャベツ炒めを炒め続けていた。客は僕たちだけだというのに、その手はとまることはなかった。
「結局、遺伝子残せない奴は存在価値ないのよ」
兄は訳知り顔でつけ加えた。
客のいない店内は、降りしきる激しい雨音と、大将の指の少ない手で器用にキャベツ炒めを炒める、ヘラの小気味よいコッコッという音だけが響き渡っていた。
「大将も一緒に飲もうよ。誰も客来ないんだし」
在日のおじさんが大将に向かって言った。
「いや、あっしはキャベツ炒めなきゃいねぇもんで」
大将は、鉄板の熱気で赤くなった顔に、子どものような笑顔を浮かべて言った。
「でもそれ、誰が食べるの?」
在日のおじさんがそう訊いても、大将はへへへっと笑っているだけだった。
「小指だけじゃなく他の指までないのはヤクザの中でも最低のヤクザさ」
在日のおじさんが昔、車の中で僕に教えてくれた。
ヤクザは弱い人間を徹底的にしゃぶりつくす。それは同じヤクザに対しても同じだった。だから、徹底的にしゃぶりつくされ、もう何の存在価値も見出せなくなったヤクザは、ただのおもちゃになる。他のヤクザたちのただの余興のために、その場の退屈しのぎのためだけに、色々と難癖をつけられて指を詰めさせられる。
僕は、ヘラを器用に動かす、大将の指の欠けた小気味よいリズミカルな手の動きを見つめた。
「俺にも二人の息子がいるよ」
その日の帰りの、静かな車中でおじさんが突然言った。
「もう十年会っていない」
なんだか、今日のおじさんはいつもと雰囲気が違った。
「おれは家族を捨てて逃げたんだ」
「・・・」
「家族だけじゃない、故郷のすべてを捨てたんだ」
初めて聞く話だった。
「兄貴は狂ったよ。頭がおかしくなっちまった。連帯保証人になっていたからな」
「・・・」
車を降りてから、おじさんの言葉の断片だけが頭に残った。僕は深くは訊かなかった。いや訊けなかった。
ふと、上を見上げると、ちょうど僕の真上に月が出ていた。真っ黒な夜空にそれはいつも以上に光り輝いていた。でも、それは冷たい月だった。
なんだか今日はとても寂しい夜だった・・。




