第三章第一話(三)あなたに酔いしれて
ミケはダイラトリーンの街の酒場で一人飲んでいる。
ダイラトリーンはアルタルから更に徒歩で二日ほどスキャイ河に沿って南に下った河口の港町である。
ミケの分量の多い長くふわふわとした髪は白地に濃い茶色と鮮やかなオレンジ色の三色に彩られている。
大きな眼を薄く開き、恍惚とした笑顔を浮かべている。
地球猫の性別は見かけでは判りにくい。
しかしミケは長い睫毛に柔らかな面持ちをしていて女性的な容姿である。
ただし着ている服は洗い晒したようなスモッグであり貧相だ。
ミケはグラスに入ったキウイの根の煮出し汁を長い舌で舐める。
店内には美しい旋律が響く。
リュートの伴奏で幻想的な恋のメロディが歌い上げられているのだ。
弾き語りをしているのは中央ボックス席のそのまた中央に座る一人の吟遊詩人だ。
種族は人間である。
長身に長めの金髪、青い瞳に精悍な顔つき。
ミケは彼を美しいと思う。
美しいといっても女性的な所はない。
しかし、神々しいまでに美しいと思う。
愛がある。
愛に満ちている。
容姿だけではない。
彼の歌、彼の奏でる演奏すべてが美しいと思う。
ああ、ここは私の天国。
ミケは高揚する気分で店中央の広いボックス席、その中心に座る人物を見つめる。
中央のボックス席には店の常連と思われる羽振りの良さそうな男女が、吟遊詩人の演奏を聴いている。
私もあのボックス席で彼の歌を至近距離で聴きたい。
もしも叶うのならば、特にお気に入りの歌のリクエストをしたい。
ボックス席に居れば、即興の歌をプレゼントしてもらえることもあるようだ。
あの中央の席に座りたい、ミケは心底願う。
しかしミケの経済事情がそれを許さない。
中央ボックス席はテーブルチャージフィーがべらぼうに高い。
ミケの座っている入口から陰になる二人掛けのテーブル席は安いが、なんと中央ボックス席から距離があることか。
いつかお金を貯めて、あのボックス席に座りたい、ミケは切望する。
「おじょうちゃん、そろそろ長いけど、いったん勘定を締めようか?」
曲が切れるのを待って馴染みのウエイターがミケに声をかけてくる。
ウエイターの男に悪意は無い。
ダイラトリーンの街はアルタルほど地球猫に優しくない。
無銭飲食で捕まろうものならば数か月に一回来る黒いガレー船に売り飛ばされてしまうかもしれない。
そうなる前にストップをかけてくれている。
「うん、そうにゃ。
そろそろお勘定をお願いするにゃ」
ミケはそう言って勘定を男に渡す。
名残惜しい、しかしまた働いてここに来よう。
ミケは現実に引き戻される。
「あと十五分はグラスを下げないぜ。
もう二曲くらい聴ければいいな」
ウエイターの男はにやりと笑いながら去っていく。
「ありがとうにゃ、恩にきるにゃ」
ミケは礼を言うが視線は中央のボックス席のほうを向いている。
なにやら談笑が始まっている。
金髪の吟遊詩人が物語を語って、周りの客が囃し立てている。
客たちは思いおもいに談笑を始めてしまい、吟遊詩人の話はミケには聞こえない。
魔法が解けたように重い現実がミケにのしかかる。
もうかなりの期間ミケは吟遊詩人の追っかけをしている。
荷物持ちや運搬の仕事をして日銭を稼ぎ、吟遊詩人の行く酒場に通う毎日だ。
家には深夜寝るときにしか帰っていない。
仲間たちにも呆れられている。
確かに呆れられても仕方がない。
しかし、こんな自分をミケは止められない。
――カラン
ミケの座るテーブル席の右側、入口の鈴がなる。
新規の客が入ってきたようだ。
壁に阻まれ、ミケの居るところから店の入り口は見えない。
「例の吟遊詩人はここで歌っているらしいにゃ。
ミケもここに居ると思うにゃ」
地球猫の少年が入ってきたようだ。
ミケは髪を逆立てる。
ミケはそれがチャトラの声だと認識する。
チャトラはミケの幼馴染だ。
世話焼きで親切な男であるが、こと吟遊詩人の追っかけに関しては否定的である。
ミケはそれがお節介に感じる。
ミケは身を低くする。
「でもミケはお金がないから、そんなに長くお店に居られないはずにゃ」
続く声はサビのものだ。
サビはチャトラの妹だ。
サビはミケの財政状況を的確に言い当てている。
なんだ?
皆で私を連れ戻しに来たのか?
ミケは怪訝に思う。
地球猫は基本リベラルな考え方を好む。
人が奇行に走って貧窮しようが、その人の選択ならば放っておくだろう。
私、何かしたっけ? ミケは更に身を低くする。
「まあ、ミケに会えなくても、ミケが心酔してしまったほどの吟遊詩人を見ておきたいわ」
更に続く声はラビナのものであった。
ラビナ! ミケは合点がいく。
そうか、ラビナがまた夢幻郷に来て、自分を探しているのだ。
ラビナは盟友だ、ラビナの頼みなら聞いてやりたい。
吟遊詩人の追っかけの合間で良いのならば。
ミケは思う。
だけどラビナに付き合うと旅が長期間になるんだよなぁ。
それは困るなぁ。
ミケがどうしようかと逡巡している間に第四の声が聞こえる。
「あれ?
テオ!
どうして君がここに居るの?」
ミケの知らない人間の少年の声である。
少年は店の中央に居る誰か顔見知りに声をかけているようだ。
少年は入口から店の中に大きなキャリバックのようなものを、ゴロゴロ、と引き摺りながら入っていく。
ミケは少年の後ろ姿を見る。
少年はウェーブのかかった栗色の髪、背は百七十五センチ程度であろうか。
少年にラビナが続く。
チャトラとサビの後ろ姿も見える。
吟遊詩人は立ち上がり、少年に艶やかな笑顔を見せる。
「ジュニア!
久しぶり。
別嬪さんを連れて夢の国巡りかい?
羨ましいねぇ!
そこで飲もうよ!」
吟遊詩人、テオはミケの隣の空席を指さす。
一同はミケのほうに振り向く。
「あ!
ミケ!」
サビがミケを見つける。
「ミケにゃ!
ミケがいたにゃ!」
チャトラもミケを見つける。
ラビナがミケに駆け寄る。
ミケは曖昧な笑顔を浮かべ、にゃー、と皆に手を振る。
二人掛けのテーブル席を二つくっつけて壁を背にサビとミケが座る。
サビの向かいにはチャトラが、ミケの向かいにはラビナが座る。
ミケの右隣の少し離れた二人掛けのテーブルには壁を背にしてジュニアが座り、向かいにテオが座る。
ミケはテオが気になってしょうがない。
憧れの吟遊詩人がこんな至近距離に居る。
至近距離で見る憧れの人は想像以上に美しい。
ああ、生きていて良かった。
ミケは崇拝の眼でテオを見つめる。
「あのさ、無粋だとは思うけれどあえて訊くよ?
大丈夫なの?」
テオはひそひそ声でジュニアに訊く。
二人はエールを飲みながら顔をジュニアに寄せて小声で話している。
ここは酒場、酔客の声は大きく、隣の声を覆い隠す。
ミケの聴覚は人間よりも鋭い。
必死で二人の会話を聞き取ろうとする。
「大丈夫って何が?」
ジュニアも小声で訊き返す。
「何がって、エリーだよ。
君があんな美人と二人旅をしているなんてエリーが正気で居られるとは思えないぞ?」
テオは心底心配そうにジュニアに問う。
「大袈裟な。
ラビナは夢幻郷のエキスパートなんだよ。
ガイドをお願いしているんだ」
「大袈裟って、君ねぇ。
エリーは自分を納得させる理由が見つかろうものなら、あの娘を消しかねないぞ」
テオとジュニアのひそひそ話は続く。
「君がエリーを見てくれていないと困るんだよね」
糾弾するような目でテオは続ける。
ミケは隣の席のもめ事に聞き耳をたてる。
どうやら吟遊詩人はラビナの身を案じているようだ。
何故だ?
ミケには事情がのみ込めない。
「もーしもーし!
ミケ?」
ミケの目の前でラビナが手を振る。
「にゃ?
にゃ?
ちょっと、ぼーとしてたにゃ。
何か言ったかにゃ?
ラビナ」
にー、とミケはラビナに取り繕ったような笑顔を返す。
「強力な助っ人を連れてきたの。
今度こそ光の谷を取り戻すわよ。
ミケに協力して欲しいの!」
ラビナはミケを説得する。
しかしミケの耳は再び隣のテーブルの会話に集中する。
「エリーはおかあさんを守るためにダイナマイトを用意するような娘だよ。
君を守るという大義名分があれば何をしでかすか」
テオは力説する。
本気で心配しているようだ。
「大丈夫だよ。
過激な事をしそうになったらエリーの友人たちが止めてくれるよ」
ジュニアはエールをあおりながらどうでも良さそうに応える。
「え?
エリーに女友達ができたのかい?
それは素晴らしい」
テオは驚きつつも心底嬉しそうに言う。
「一癖も二癖もある娘たちだけれどね」
「そりゃ常人にエリーを止められないさ。
これは帰ったら一度挨拶に行かなければならないね」
テオはそう言って満面の笑みを浮かべる。
――帰ったら
その言葉がミケの心に突き刺さる。
そうか、いつかテオは帰ってしまうのか。
ミケは泣きそうになる。
「ミケ?
ミケ?
どうしたの。
気分が悪いの?
さっきから変よ?」
ラビナは心配そうにミケを気遣う。
そんなラビナにサビがにやにや笑う。
「ミケはそれどころじゃないのにゃー」
サビは知ったような顔で笑う。
「ミケ?
貴女ちゃんと食べている?
随分痩せてしまって心配だわ。
この調子では旅は無理かもしれないわね」
ラビナはやや諦め気味に言う。
そしてウエイターを呼びソーセージとアンチョビのピザ、オイルサーモンを注文する。
ミケに食べさせるためだ。
チャトラとサビはキウイの根の煮出し汁を旨そうに舐めている。
ラビナに心配かけてしまった。
ミケは心苦しくなる。
地球猫の仲間たちは、ミケに死の危険でも無いかぎり放っておいてくれるだろう。
しかしラビナは日頃の乱暴な言動によらず心配性だ。
彼女に心配をかけるのは本意ではない。
それにラビナは光の谷を取り返すことを悲願としている。
そしてそれはミケの願いでもある。
できることならば手を貸してやりたい。
でもなー。
今留守にすると吟遊詩人は帰ってしまうかもしれない。
それは嫌だ、それだけは嫌だ。
ミケは下を向く。
そこにテオがラビナたちのテーブルに声をかける。
「おじょうちゃん、ちょっと席を代わってくれる?」
テオはミケと席を代わってくれと言っているようだ。
テオはラビナと話がしたいらしい。
突然のことでミケは狼狽える。
「俺がラビナと代わるよ」
ジュニアは席を立ち、ラビナの後ろに行き、ラビナに席を立つように促す。
ラビナはミケを見ながらも押し出されるように席を立ち、テオの座るテーブルに座る。
「後でこのテーブルにテオを連れてくるからさ」
ジュニアはミケに申し訳なさそうに言う。
ジュニアはミケを気遣っているようだ。
ミケは笑ってしまう。
「おれはジュニア。
よろしくね」
ジュニアは三人の地球猫に自己紹介をする。
「誰のジュニアにゃ?」
サビが、にー、と笑いながら訊ねる。
一瞬ジュニアは間をとり、答える。
「ジャック・フライヤー・ジュニアさ」
ミケは驚く。
ジャック・フライヤーとはラビナの宿敵の名だ。
この少年はジャックの息子なのだろうか?
「やっぱりそうにゃ。
匂いが似てるにゃ」
サビはしたり顔で呟く。
「君は俺の親父を知っているの?」
「にゃー」
サビは目を細めて鳴く。
答えるつもりはないようだ。
「うん、俺の親父がラビナに迷惑をかけたから何とかしようと思ってね」
ジュニアはミケとサビに言う。
そして二人の反応を窺う。
「匂いは似ているけれど親は親、子とは関係ないにゃ」
サビは、同意を求めるようにミケを見る。
ミケも頷く。
地球猫は幼いころには親から離れ、放浪の旅にでる。
「ジュニアはラビナの役に立ちたいのにゃ。
ジュニアはラビナの彼氏なのかにゃ?」
サビはグイグイと立ち入ったことを訊いてくる。
「彼氏じゃないよ。
夢幻郷でのパートナーだね」
「あらら、そんなにはっきりと否定するとラビナが悲しむのにゃ」
サビは真顔でラビナの横顔を見る。
ラビナはテオと朗らかに談笑している。
「そうでもないのかにゃ」
サビは再びジュニアに向き直り、にー、と笑う。
「ミケはどうするのにゃ?
ラビナを手伝うのかにゃ?」
サビはミケに振り返って訊く。
ミケは猫背になり、肩をすぼめて顎を落とす。
サビはミケより年下だが、サビのほうがミケをリードしているように見える。
「手伝いたいのにゃ。
でも今はダメなのにゃ」
ミケは大きな目に涙を浮かべる。
その涙が丸い白い頬を伝い流れ落ちる。
「泣かなくてもいいにゃ」
サビは右手でミケの頭を撫でる。
「私たちがラビナを助けるにゃ。
ね?
チャトラ」
サビはチャトラに同意を求めるように笑う。
「ふにゃ?」
チャトラはアンチョビのピザを口に咥えたまま素頓狂な声を出す。
ミケはサビを見る。
ミケはサビの真意を測りかねている。
「それは有り難いけれど、なぜにゃ?」
ミケはサビに訊く。
サビが答えようと口を開けた瞬間、隣のテーブルからラビナの笑い声が聞こえる。
「分かったわ、そこまで言うのなら荷物持ちとして連れて行ってあげるわ」
ラビナは朗らかにテオに言う。
テオは、ありがとう、頑張って光の谷を取り戻そうね、と応じる。
ミケの丸い目が更に丸く大きく見開かれる。
なんで?
なんで?
ミケは動転する。
私も行くにゃ。
ミケは下を向いてぶるぶる震える。
そして両手をぐっと握り、上を向く。
「私も行くのにゃー!
光の谷に一緒に行くのにゃー!」
ミケは叫ぶ。
ラビナは、ん? というようにミケを見る。
テオはにこにこ笑っている。
「んじゃあ、このメンツ皆で行くにゃ」
サビは、にー、と笑う。
ジュニアは苦笑する。
チャトラは、ふにゃ? ふにゃ? と訝しげに皆を見渡す。




