第三章 巻頭歌 この子に救いを ~Give My Junior the Salvation~
■ 第三章 夢の中のあなたは素敵すぎて
You Are just too Good in My Dream to Be True
挿話 この子に救いを
Give My Junior the Salvation
第一話 土星猫への威嚇
The Hisses to the Saturn-Cat
第二話 私の頭の中に囁く声
The Whispering Voice inside My Skull
第三話 地下世界の重力列車
The Gravity-Train of the Underground World
最終話 白き都市の王と外からの神
The King of the Leucopolis and the Outer-God
◆ 第三章 挿話 この子に救いを
Give My Junior the Salvation
彼女は赤ん坊を出産した。
彼女と亡き夫との間の息子だ。
正確には彼女のインターフェースが四十週と二日の間、胎内で育み出産した赤ん坊だ。
彼女は人間の出産について正しい知識を持っていた。
考えられるありとあらゆる準備を整えてあった。
出産は慎重に安全に執り行われた。
何の問題も無い筈であった。
その甲斐あって息子は元気に生まれ、彼女は息子にアウラと名付けた。
彼女は困り果てていた。
密室ともいえるこの空間の中、アウラの未来がすべて閉ざされていることを見てしまったからだ。
彼女は言葉を理解していない。
彼女には言葉が不要であるからだ。
他人とのコミュニケーションは、亡き夫との間でさえ言葉ではなく相手の脳と直接行っていた。
相手がコミュニケーションできる発達した脳をもっているならば、何の問題もなかった。
相手が知性を持たない動物であっても問題はない。
発達した脳かそれに準じるものがあればそれなりのコミュニケーションが可能であろう。
事実彼女はアウラの要求を木目細かく拾い上げることができるし、アウラをあやすこともできる。
アウラと全くコミュニケーションがとれないわけではない。
それでも彼女は困り果てていた。
人間の脳、赤ん坊の発達には言語が必要であることを事後的に知ったからだ。
この密室ともいえる空間の中、言葉を理解しない自分ではアウラの脳を人間として適切な方向に発達させることはできない。
息子の脳とのコミュニケーションを行うためには、息子の脳に言語による刺激学習が必要である。
しかし彼女ではアウラの脳をコミュニケーションができるまで発達させることができない。
彼女はアウラが生まれてから、あらゆるシミュレーションを行い続けていた。
ありとあらゆる救済方法を検討し続けていた。
元の場所に戻ることも検討した。
しかし戻れない。
戻るにはいったん往路を切り上げてから復路に着く必要がある。
簡単な物理法則だ。
自分だけであればそれもできよう。
彼女は息子と違ってそんなに簡単には壊れないのだから。
しかし赤ん坊であるアウラが居たのであれば、どんなに急いだとしても十数年の時間を要する。
その間に使われないアウラの脳神経は退化してしまう。
一度退化した脳神経は元には戻らない。
脳神経は使われ続けなければならない。
重要なのは情報を自己生産できるようになるまでのここ数年なのだ。
(誰かこの子を助けて!)
彼女は自分と同化している亡き夫との想い出に頼る。
新しいファクターを見つけて未来をシミュレートする。
しかしこの密室ともいえる空間の中、アウラの脳を発達させる方法が見つからない。
アウラが人間として生きていくために必要な言語刺激を与える方法が見つからない。
(ごめんよアウラ、私のジュニア。
おかあさんではおまえを正しく育てられない)
悲痛な思いで彼女は息子を抱きしめる。
彼女の検討の材料は枯渇しつつある。
もとよりそんなに検討の材料があるわけではない。
夫の言葉を再生する機械を作る。
それをアウラに聞かせる。
親しかったあの娘の言葉を再生する機械も作ろう。
シミュレーションでの未来は、幾何かはましなものにはなる。
しかし付け焼刃だ。
彼女は困り果てて、アウラの精神に潜ることに思い至る。
彼女はアウラの精神に潜る。
そして彼女はアウラの精神の構造を知る。
恐ろしく未分化で原始的な欲求に突き動かされている。
夢と現を繰り返しているが夢と現の境界は酷く曖昧で、夢と現を混在させて知覚する。
アウラは夢のなかでも彼女の乳を欲し、彼女の顔を見て笑う。
彼女は更に深くふかくアウラの精神の中に潜る。
そしてついに深い精神の中に、人間としての共通認識があることを探り当てる。
そこはアウラの中の世界であってアウラの外の世界でもある。
ああ、そうだった。
そもそも夫との出会いはここを介してであったのか。
彼女は合点がいく。
彼女の夫はここを通して彼女の歌を見つけた。
人間の心の中の共通認識の世界。
正しい時間の概念と歪んだ物理法則に支配される特異な世界、夢幻郷。
彼女は一縷の光をそこに見る。
ただしそこは何者かにより護られた場所。
彼女は慎重に夢幻郷の護りに穴を開け、彼女の意識を共通認識の世界の中に浸み込ませる。
そして叫ぶ。
(誰か私の息子を助けて!)
彼女は叫ぶ。
助けを乞う。
意識を細分化させて共通認識の世界に拡散させる。
彼女の叫びに気付く者はいるようだ。
しかし誰も彼女の叫びに応えない。
彼女に気付き、怯え、そして逃げ隠れる。
そればかりか彼女の開けた穴を閉じようとする者までもが現れる。
彼女はそういった存在と戦いながら穴を維持しようとする。
しかしアウラの幼い精神を媒介にしてではさほどの自由度がない。
彼女は必至で足掻き、そして助けを乞う。
(お願い!
誰か私の息子を助けて!)
彼女は悲痛な思いを叫び続ける。
繰り返し繰り返し叫び続ける。
(お願い!
誰か私の息子に救済を!)
(誰か!
誰か私の息子に救済を!)
『お坊ちゃんがどうかされたのですか?』
それは突然返事をした。
男の声に聞こえるが人間ではない。
しかしそれは紛れもなくアウラへの救済の声であった。