第二章最終話(十)最後の晩餐(ばんさん)
――崩壊歴六百三十三年の九月八日
エリフはレイズン湖付近の閉ざされた洞の中で石像を見つける。
洞には入り口が無かった。
分厚い数メートルの岩盤が外との間を遮断していて、外からは安易に辿り着けない。
中は昼間でも漆黒の闇の中だ。
エリフはこの場所を見つけるのに一年かかっている。
あまり急ぐ理由もなかったので問題はない。
エリフは暗い洞に光を灯し、石像を見る。
女の石像だ。
全身は揃っていない。
左手と下半身が欠落している。
見るからに痛々しい。
石像の女は美しい顔を苦痛に歪めているようだ。
石造の女の表情からはエリフの今の外見的年齢よりかなり上に見える。
しかし、エリフの今の顔と酷似している。
右手は人差し指を伸ばし、何かをなぞっているように見える。
ここに来るのに慎重を期している。
恐れるべきはエリナの乱入であるが、エリナは今日、ジャックの元にお遣いに出している。
ジャックの息子のジュニアが迎えに来て、エリナは嬉しそうに旅立っていった。
ここしばらくは一か月に一回ほどの頻度で、お遣いに出している。
エリナは今回が特別であるとは感じていないだろう。
エリフは木彫りの妊婦の像を女の石像の傍らに寝かせるように置く。
そして左手で図形を描く。
妊婦の像は黒い膜に覆われ、禍々しく成長してゆき、黒い肉の袋となる。
エリフは黒い肉の袋が十分成長するのを待つ。
そして肉の袋の上面を縦に裂き、中の液体に石像を沈める。
エリフは石像に左手を当てる。
黒い禍々しい煙に包まれ、石像が石像でなくなってゆく。
煙が晴れると黒灰色の不思議な光沢をもつ髪の青白い死人のような顔色の女となる。
女は微かに目を開け、エリフを見る。
しかし直ぐに目を閉じ、動かなくなる。
エリフは女の着衣を剥ぎ、剥いだ服を肉の袋の外に出す。
全裸となった女の体は左手が根元から失われている。
下半身も臍から下がない。
しかし、胸は微かに上下している。
エリフは左手を肉の袋の裂け目にあて、裂け目を閉じる。
エリフはヨシュアを救う際にエリナから手渡された紙の四番目、最後の文言を右から左になぞってゆく。
文言が銀色に輝き、すぐに消える。
光る文字が消えた後は紙の一行目の文章も消えてる。
そして黒い肉の袋が輝き、脈動を開始する。
緩やかに、規則正しく。
左手と下半身の欠落、これは犠牲魔法による体の損傷。
エリフは女の体を見てそう確信する。
エリフの今の体、女性化し、死霊系の魔法が半減してしまった体のことだが、この体の魔法構成はかつてより制限されてしまっている。
あまりにも酷い傷病は修復できない。
少なくとも一度では。
しかし、あらかじめ繰り返し魔法を畳み込んだ紙が用意されていた。
女の体の損傷を回復させるのに丁度合わせられたレシピである。
別に脳神経に損傷があるわけではない。
女の体の回復は問題なく行われるだろう。
予定調和。
シナリオ通りの進行。
エリフは脈打つ肉の袋を見下ろしながら考える。
この女は黒灰色の魔女だ。
そしてエリフの知る黒灰色の魔女エリーではない。
この女は『エリナのおかあさん』だ。
『エリナのおかあさん』は蚯蚓のクリーチャーと対峙した。
そして犠牲魔法により蚯蚓のクリーチャーを弱体化させたものの退けるまでには至らなかったのだろう。
左手と下半身を失いつつも、最後の力を振り絞ってここまで跳び、自分自身に石化魔法を施した。
恐らくは紙に空間跳躍の魔法と石化の魔法を畳み込んでおき、自動で効果が発揮されるようにしておいたのだろう。
そうでなければ、左手と下半身を失った状態でここまで逃げ果せるものではない。
なるほど、紙に魔法を畳み込むこの技術は有用だ、勉強になる。
そうエリフは感心する。
しかし、これは誰の発案なのだろう?
エリフは不思議に感じ、苦笑する。
女の体の修復には丸一日かかるだろう。
テオが腹を空かせて待っている。
いったんは戻ろう。
エリフは外に向かって跳ぶ。
エリフが新しいほうのログハウスに戻ったとき、テオはリュートを弾いていた。
込み入ったフレーズが気に入らないのか、繰り返し少しずつ細かいニュアンスを変えて弾き続ける。
それはあたかも文章を推敲しているようだ。
「あ、おかえんなさい、お師匠」
テオはリュートを弾くのを止め、エリフを笑顔で出迎える。
「腹が減っているだろう。
直ぐに飯にしよう」
エリフは微笑みながら言う。
テオは、まってましたよ、と笑いながら応える。
エリフはホーネルンの街で仕入れた水牛の肉のシチューと芋と鶏肉のフライの付け合わせを調理する。
チーズをあしらったサラダにはたっぷりと調味オイルがかかっている。
クルミが入ったパンにバターを付けて夕餉とする。
テオは料理に暫く手を付けず眺める。
「凄いですね。
俺の好物ばっかりだ」
テオはエリフを見つめ、言う。
「最後の晩餐ですか?」
テオは続けて悲しげな表情でエリフに問う。
「そうだ。
明日、私は旅立つだろう。
テオ、君はどうする?」
エリフはテオに選択を問う。
エリフの質問はエリフと行動を共にするか否かに関してだ。
「申し訳ないですが、俺にはこの時代に来た理由があります」
「うむ。
それで良い。
近いうちにまた会えるはずだ」
エリフは微笑み、テオを諭すように応える。
「それは誰の時間軸でですか?」
テオは諦めたような表情で笑う。
エリフは、さあ? というように首を傾ける。
テオはシチューに手を付け、旨そうに啜る。
「テオ、君はどうする?」
エリフは同じ質問をする。
今度はテオに、今後の行動を訊いている。
「中原に戻りますよ。
フォルデンの森が原点ですから。
でも夢幻郷でもやることがありますね」
テオは咀嚼しながら朗らかに笑う。
「俺もエリーに合わずに消えます。
エリーは半狂乱になってお師匠を探しますよ。
後始末は御免です。
ジャックとジュニアに任せてしまいましょう」
テオは悪い笑顔を浮かべて言う。
下手に関わると放っておけなくなる。
だからすべてを放り投げて逃げる。
エリフはそんなテオの判断を好ましく感じる。
「ああそう言えば、ジュニアも中原の街、確かカルザスでしたっけ? が本拠地でしたね。
なら暫くはカルザス付近には近寄らないようにしましょう」
テオはムシャムシャと食事を突きながら付け加える。
「それで良いよ。
でもエリーは君の妹弟子だ。
たまには気にしてやってくれ」
エリフも微笑み、応える。
「本人は姉弟子気取りですがね。
おかあさんからの頼みじゃ、無下にはできませんねぇ」
テオは嬉しそうに笑う。
「じゃ、食後に最後の音合わせと行きましょうか。
丁度新曲を作っていたところです
テオはリュートを指差して言う。
エリフは、それは楽しみだ、と頷く。




