第二章最終話(四)慣性弾道飛行
拙い。
地球が複雑にヨシュアの乗るリフトの周りを回転している。
ヨシュアは視界が赤く染まることで自分が回転していることを知る。
レッドアウトだ。
上半身方向に許容を超えるGがかかっている。
このままでは意識が飛ぶ。
ヨシュアはアポジエンジンの出力を最大に設定する。
姿勢は制御できない。
もはやルーレットのようなものだ。
どのタイミングを選ぶか?
南は地球半周分以上にわたり海しかない。
水平より下では地表に激突する。
北方面に在るはずの陸地方面、やや上になる瞬間、アポジエンジンを最大出力で灯す。
リフトは北東方向斜め上に十Gを超えて加速する。
ヨシュアの視界は一瞬暗転する。
ヨシュアは加速Gに抗いながらアポジエンジンの操作盤を手探りで弄りアポジエンジンを切る。
再び無重力状態が訪れる。
ヨシュアの視界が戻る。
ヨシュアは二対の車輪を回転させ、器用にリフトの姿勢を修正する。
天垂の糸は遥か後方に流れ、クリーチャーの姿は見えない。
通信機は無音になっている。
天垂の糸の直下、管制台にある四ギガヘルツ帯パラボラアンテナの指向性範囲を離れてしまったからだ。
ヨシュアは八百メガヘルツ帯の第七チャンネルに通信路を開く。
『ザザッ、シュア!
ヨシュア!
聞こえる?
返事をして!
ヨシュア!
返事をして!』
イリアの声が聞こえる。
イリアにしてはやや早い口調だ。
「聞こえるよ。
今のところ無事だ」
『……そう。
良かった。
リフトは今、十二・三三六度北方向やや東に上昇中よ。
このままだと高度二百五十キロまで上昇する。
その時の速度は秒速三千五百メートル弱。
そこから落下となるわ。
残り燃料はどれくらい?』
イリアの問いに、ヨシュアは計器盤を眺める。
「三十七パーセント」
『……』
ヨシュアの応えにイリアは暫く沈黙する。
ヨシュアはイリアが悲痛な顔をしているのだろうと想像し、申し訳なくなる。
『貴方はツイているわ。
東経百三十六・八九一、北緯四十一・八六九、ホーネルンの街北東のレイズン湖を目指して。
そこにおじいさまがいる』
「先生が?」
ヨシュアは問い返す。
しかしイリアには通じていないようだ。
『もうすでにこの通信はこちらからの一方通行になっているはず。
次は二十八メガ帯の電信にして。
よく聞いて。
直ぐに宇宙服を着て。
最高点に達したらアポジエンジンで軌道を修正する。
データは送ったわ。
その先はできるだけ滑空するの。
エアブレーキで減速しながら。
それでも高度が百キロまで下がってくると断熱圧縮で温度が上がってくる。
車輪で姿勢制御をして高度八十キロで最後の逆噴射を、ザザザッ……』
ヨシュアは送信器を制御して、リョウカイ、と打鍵する。
受信機からはノイズが返る。
5・5、と打鍵されているようだ。
ヨシュアは、8・8、と返す。
ヨシュアは受信機の周波数を二十八メガヘルツ帯に合わせる。
しかし意味のある音は聞こえない。
高度が上がりすぎていて短波が届かないのだろう。
送信機に、1・2・3……、と数字の自動送信となるようにセットし、受信機は短波帯のサーチ状態にする。
そしてヨシュアは隣の席の宇宙服を見る。
確かにツイている、そうヨシュアは思う。
高度八十キロでどれほど減速できるのかは知らない。
であるが、この危機的な状況下で自由落下する場所を選べと言われたら、ヨシュアは迷わず先生の居る場所を選ぶだろう。
先生、イリアのおじいさま、正確にはイリアの曽祖父であるエリフの居る場所へ。
そう言えば先生は今、不思議な状態にあるのだったか?
しばらく会っていない師匠の最後に会ったときの姿を思い出してヨシュアは笑う。
天垂の糸、赤道上空から北方まで五千キロ強の宙の旅路だ。
イリアは諦めていなかった。
この危機的な状況下で誰の弾道計算を採用するかと訊かれたら、ヨシュアは迷わずイリアの計算を選ぶだろう。
ヨシュアはツイている。
イリアの計算を信じよう。
そしてイリアが先生に連絡できることを信じよう。
イリアが送ってくれたデータを確認し、リフトの自動操縦用電子計算機に登録する。
最高点で九・二八度北に進路を変え、そこから慣性飛翔航路をとる。
計算は単純ではない。
飛翔高度が下がるにつれ重力は微増してゆく。
地球表面は湾曲しているうえに重力は常に地球の中心を向くので航跡は楕円軌道となる。
高度が下がってくるにつれ増加する大気抵抗も考慮にいれなければならない。
とどのつまり弾道ミサイルの航跡計算そのものだ。
エリフの居るホーネルンは、現状の着弾(着陸ではなくて)可能地域を表す範囲楕円のかなり奥にあるらしい。
つまりは余計な減速は最後の最後まで行わず、薄い大気を滑空しなければならない。
濃い大気に秒速三千メートルという速度で突っ込むと断熱圧縮であっという間に燃えてしまう。
だから高度八十キロから逆噴射で減速を行い、最終的には燃えるリフトから射出脱出して宇宙服を着てのスカイダイビングとなる。
リフトはホーネルン北方北側の山中に落とす。
ヨシュア自身は射出脱出により最後の軌道変更を行い、レイズン湖に向けて落下する。
痺れるような飛翔プランだ。
ヨシュアは笑う。
痺れるがイリアはヨシュアに、ツイている、と言った。
そうだ、俺はいつだってだいたいツイている。
幸運の女神が俺にはついている。
俺が全力でベストを尽くせば、天命が俺を地上に降ろす。
そういえば、とヨシュアは思い出す。
いつぞやのあいつも空から降ってきたのだったな。
あいつの状況に比べてどちらがよりハードだろう?
あいつもやり直しが利かない、痺れるような状況から地上に降り立った。
頭の回転はあいつのほうが勝るが、機材と船の操縦技能では俺のほうに分がある。
ヨシュアは笑う。
あいつが生還できて俺ができないはずがない。
どちらも先生頼みだとしても。
ヨシュアはモゾモゾと冷却下着を着こむ。
冷却下着はメッシュ状の特殊ゴムのワンピーススーツだ。
細い冷却水用パイプが高密度に張り巡らされていて、ある程度の高温に耐える。
冷却下着の上には十二層からなる宇宙服を着る。
断熱性、耐圧性、気密性、耐宇宙線、微小デブリ(宇宙に漂う破片)との耐衝撃性などを考えられたものだ。
金色に輝くバイザー付きのヘルメットを着けて閉める。
そして宇宙服の外部端子にリフトの操縦席にある酸素や冷却水のホース、電源ライン、ハーネスを接続する。
ここからはさして時間はかからない。
電源や酸素は宇宙服のものを使っても良い。
ただ冷却水の循環はギリギリまでリフトの高出力の冷却装置を頼る必要がある。
ヨシュアは不要な座席を外す。
そしてリフトの風防を開けてリフト外右側に投げ出す。
不要な機材や食料も投げ捨てる。
少しでも重量を軽くするためだ。
再び風防を閉めてリフト内を酸素で満たす。
しかしヨシュアは直ぐに熱交換器で船内の酸素に熱を乗せて排出する。
酸素はギリギリの量が有れば良い。
酸素は大気圏再突入時に危険だ。
酸素の排出によりリフトの重量は減り、内部の温度は冷えてゆく。
同様に不要な水も熱交換器で熱を乗せ排出を行う。
いまや船内の温度は零下二十五度になっている。
「ずいぶん軽くなった」
船内の空気は、今は零点三気圧の百パーセント窒素に置き換えられている。
ヨシュアはタイヤの回転と操縦席内の重心移動でリフトの姿勢の微調整を行う。
こんなものか。
ヨシュアはリフトが最高点に達するのを待つ。
自動でアポジエンジンの点火器が稼働し、液体ロケット燃料が循環する。
カウントを告げる電子音が聞こえる。
ヨシュアは電子音に合わせてカウントする。
五・四・三・二・一・ゼロ。
激しいGがヨシュアを座席に抑えつける。
並走して浮かんでいたヨシュアが捨てた座席等が、凄い勢いで右側遠くに離れてゆき、見えなくなる。
Gは断続的なものになり直ぐに消える。
後は無重力状態に戻る。
液体ロケット燃料残量二十九パーセント。
節約できた。
未だ四分の一以上も残っている。
ヨシュアは笑う。
今は熱圏の下層。
外は真空と言って良い。
リフトは地球の重心を二つある中心の一つとして楕円軌道を描いている。
この楕円軌道は進行方向で地表とクロスする。
クロスする先は目的地ホーネルンの先、北極圏だ。
そこに至る前に高度が下がり、大気の壁にぶつかり、リフトは燃えて無くなる。
だからその前高度約八十キロメートルの高さで速度をゼロまで落とせとイリアは言う。
しかしこの速度まで加速するのに燃料の六割強を使ったのならば、速度をゼロまで減速させるにも六割ほど要るのだろう。
ヨシュアは二対ある車輪をすべて同じ方向に回転させ、リフト全体を水平に回転させる。
そしてリフトの前後を入れ替える。
逆噴射の用意だ。
座席も百八十度回転させ、足を組んで座る。
暫くは暇だ。
二十八メガヘルツ帯に向けて信号を打鍵する。
ジュンビカンリョウセリ、カコウキドウニノレリ。
何度か打鍵を繰り返すが返信は来ない。
「日中だから、短波は苦しいな」
そうは言っても他の周波数では更に条件は悪くなる。
ヨシュアは左手でヘルメットに頬杖をつき、右手で打鍵を続ける。
リフト後部の風防越しに地表が見える。
地表はゆっくり回転しているように見える。
ヨシュアは地表を眺めながら思考の世界に沈む。
この先に先生が居るのか。
また、先生に迷惑をかけてしまう。
先生に助けてもらうことはすなわち先生を死なせてしまうことだ。
必ずしもそうはならないかも知れないが、今回は高確率でそうなるだろう。
昔は、先生は不死者であるから、転生できるから、と軽く考えていた。
だからあの献身的という言葉を遥かに超え、自己犠牲の極みの人命救助ができるのだと考えていた。
しかしすぐに、ああ、そうではないと気付く。
先生は死に場所を探しているのだ。
それでも、あの子と暮らし始めた後の先生には生きる気力が感じられた。
気力というより生への執着であろうか?
イリアもあの子に嫉妬しながらも、そんな先生を好ましいと思っていたようだ。
今の先生は転生できるのだろうか?
先生が転生してこなかったら、イリアは悲しみ、身を噛むように自分を責めるのだろうな。
そしてあの子は悲しむどころでは済まないのだろうな。
ヨシュアはゆっくり回転する地球の湾曲する地平線を眺めながら、エリフと彼の周囲の人々に想いをよせる。
――ビカッ!
バックミラーで見る進行方向垂直に稲光のようなものが一閃する。
雷ではない。
高度が有りすぎる。
ああ、あれはジャックの十六連の珠だ。
ジャックのおもちゃ、昔一緒に面白がって高度約二百キロメートルの周回軌道に乗せた十六ある人工衛星の一つ。
ジャックがエリフに知らせるべく、高出力レーザーを、おおかた湖にでも打ち込んだのだろう。
イリアはジャックに連絡をつけることに成功した。
そしてジャックはエリフに連絡をつけるべく、十六連の珠を使っている。
ジャックは一手に複数の意味を持たせることを好む。
あの稲光はジャックからヨシュアへの警告でもある。
諦めるのを許さないと。
「ジャックは相変わらず非道だな。
先生を無理やり働かせようとしている。
ギリギリまで足掻けと、そう言うんだな……」
ヨシュアはセンチメンタルな気持ちを払拭する。
こうなっては、先生は全力を尽くしてしまうだろう。
もはやヨシュアがどういう行動を取ろうが止めることはできない。
イリアやあの子が悲しむことは不可避だ。
ならば、せめて自分は最善を尽くそう。
先生の死を無駄にしないために。
ヨシュア自身が生き残るために。