第二章最終話(三)天垂の糸の怪
ヨシュアは一人、天垂の糸を登っている。
天垂の糸に登るのはこれで三度目だ。
一度目は姉のマリアと姉の夫のジャック、そしてヨシュアの妻イリア、それに従姉妹のリリィの五人で登った。
皆結婚前のことだ。
二度目はイリアと二人で登った。
そして今回は一人で登る。
勝手知ったる道だ。
天垂の糸とは、アメイジア大陸の南端、赤道直下にある四千メートル級の丘陵地帯から、垂直に高さ約三万六千キロメートルにある静止衛星軌道を超え、更に一万メートル先のバランサーまで延びている長い長い紐である。
静止衛星軌道には通称空中庭園、大きな居住区、スペースコロニーと呼んで良い人工衛星がある。
天垂の糸の接地されている地域、天垂の糸そのものから空中庭園、バランサーに至るまで、マリアのカンパニーの実行支配下にある。
要するにヨシュアに好き勝手して良い権利が有る。
権利には義務が伴うもので、天垂の糸や居住区、バランサーに関してメンテナンスをする必要がある。
いや、ヨシュアに天垂の糸の補修ができるわけではない。
単層カーボンナノチューブの繊維と複層カーボンナノチューブの繊維で編んだリボンが芯素材。
それを超超高分子量ポリエチレンで固め、ハニカム構造中空成形素材とした、比重ゼロコンマゼロゼロゼロゼロ一以下という超軽量、超強度の構造材。
例え、千切れたとしても代えの材料は現在の技術では作れない。
だから千切れないことを祈るほかない。
いやそれどころか、空中庭園やバランサーにある、昔ジャックが作り、置き換えた設備のメンテナンスもヨシュアにできるわけではない。
ヨシュアができるのは空中庭園に駐在するジャックのサポートロボットの要求に従い部材を運ぶことくらいだ。
ヨシュアは短く刈り込んだ赤い髪を撫で上げる。
天垂の糸専用リフトの中だ。
リフトと言っても形状は飛空機やバギーに近い。
真上を向いて座る座席が六席あり、頑丈な風防により外部と席内を分離している。
向かい合った回転する車輪が二対ある。
この車輪が天垂の糸の沢山あるリボンの一つを咥えこんでリボンと車輪の間に摩擦が生まれ、回転することにより上へと加速してゆく。
また、天垂の糸を逸脱しないように左右にそれぞれ半円形のガイドが可動ステーの先に設置されていて、天垂の糸を円形に挟むようにコントロールする。
座席の後ろには荷室があり運ぶべき荷物が詰め込まれている。
後ろを振り向くと、出発地点を中心とした地球が大きく見える。
操縦席にはバックミラーがあり、地球の姿を確認できる。
「誰にでもできる簡単な仕事だな」
ヨシュアは筋肉質な体を伸ばし、独り言ちる。
リフトは自動操縦でヨシュアは目的地に着くまで特にすることはない。
いや、無論本当に誰にでもできると思っているわけでもない。
特に何か問題があった場合への対処は訓練されたものでないと難しい。
しかし、三万六千メートル先の空中庭園まで平均時速六百キロメートルのリフトでも三日もかかるのだ。
地球を一周するよりは短いがそれに近い距離だ。
気楽な一人旅であるが、やることが無くて退屈だ。
甥のジュニアに小遣いでもやり、無人化させようとヨシュアは真剣に考えている。
あの坊主なら喜んで改善してくれるはずだ。
リフトの機内はコンマ三気圧強の純酸素で満たされている。
高さは地上から標高五十キロを超えてなお加速を続けている。
旅は始まったばかりだ。
リフトの外は希薄とはいえ未だ大気があるため、最高速度は出ていない。
中間圏を抜け、熱圏の半ばまであがれば最高速度に達するだろう。
もうすぐだ。
天垂の糸は地球の自転による遠心力でブンブンと振り回されて、ピンと伸びている一本の紐だ。
この紐に沿って登るということは、地球の自転方向に向かって加速することに等しい。
赤道上、地表は秒速約五百メートルで自転しているが三万六千メートルまで天垂の糸を登りつめたとき、秒速約三千六百メートルまで加速することになる。
つまり無重力状態に至るまでの旅路だ。
隣の席には万が一の為に宇宙服が用意されている。
妻のイリアが用意してくれたものだ。
一人でこれを着るのは骨であるが、練習はしている。
宇宙服は酸素ボンベと生命維持装置が装備されていて、八時間ほど宇宙空間での船外活動が可能だ。
パラシュートも装備されていて地上二十キロからの落下に耐えられる。
正直ヨシュアにはこの宇宙服の使い所が判らない。
お守りみたいなものだろうと理解している。
空は既に青くはない。
太陽の方向はやたら眩しく、逆方向には漆黒の闇に星が光る。
既に宇宙と呼んで良い高度だ。
天垂の糸はどこまでも進行方向に延びている。
一番危険なステージは抜け出せた。
ヨシュアは長い旅路に備えて意識のレベルを落とそうとする。
『ガガガッ、ガガッ、ヨシュア、聞こえる?』
妻イリアからの通信が入る。
四ギガヘルツ帯の無線通信だ。
「ああ、聞こえるよ。
そっちは聞こえるかい?」
ヨシュアも応じる。
イリアの性格からヨシュアをサポートすべく管制台に居るとは思っていた。
しかしイリアの性格から雑談をするために通信してくるとも思えない。
『聞こえるわ。
緊急事態よ。
貴方を追うように古きものの眷属が天垂の糸を登っているわ』
ふうん? ヨシュアは操縦席に備え付けられているバックミラーで来た方向、地球を見る。
天垂の糸の下には一見なにも居ないように見える。
ヨシュアは身を乗り出して後部窓を見る。
なるほど、遥か遠方、小さく蠢く何かが見える。
「見えたよ。
どれくらいで追いつかれる?」
『五分弱よ。
どんどん上に向かって加速しているわ』
「そりゃあ怖い。
取りうる手段は?」
『アポジエンジンを使って天垂の糸を離れる』
イリアは淡々と言う。
アポジエンジンとはリフトに備えられている液体ロケットエンジンだ。
イリアはそれを使って楕円軌道に乗れと言っている。
高度二百キロまで上昇し、そこから再度アポジキックを行い、秒速二千八白メートルまで加速すれば地球周回軌道に乗れる。
「周回軌道まで乗れるのか?」
『やや足りない。
今の位置が低すぎるわ。
大丈夫。
迎えに行く』
「却下だ」
クリーチャーの居る天垂の糸にイリアが登るなど、ミイラ取りがミイラになるようなものだ。
リフトは通常、天垂の糸のリボンから電力供給を受け、二対の対抗する車輪を電気モーターで駆動することにより推力とする。
電気モーターならば可動するガイドや給電ブラシと連動した木目細かい制御が可能だ。
一方アポジエンジンは天垂の糸を離れた場合の軌道変更に使われる。
出力が大きい反面、細かい制御はできない。
そして何回も軌道を変えるほどには燃料を積んでいない。
もう少し高度があればアポジエンジンを使って地球周回軌道に乗せることもできなくはないが、いかんせん今は高度が低すぎるうえに中間圏の中だ。
「ギリギリまで引き寄せて、ガイドをリリースする」
『降りるのね?
シミュレートするわ』
ヨシュアはリフトを天垂の糸の東側から西側に回す。
天垂の糸側にかかっていた重力が反転する。
ヨシュアはバックミラーで下を見る。
球体にいくつもの触手が生えたクリーチャーが今ではもうはっきりと視認できる。
『そこから自由落下で三回の逆噴射を行い、宇宙服を着て高度二十八キロメートルで射出脱出すれば比較的安全に下に降りられる。
リフトは天垂の糸東側の海に落として。
タイミングと方向、出力は指示するわ』
「了解」
『念の為、八百メガ帯第七チャンネルにも予備通信路を開いて』
「了解」
ヨシュアは応えながら、イリアの現在の表情を想像する。
多分泣きそうな顔をしているのだろう。
しかしイリアの感情とは裏腹にイリアの判断はいつも適切だ。
ヨシュアはヨシュアのベストを尽くせば良い。
今は下のクリーチャーとの間合いをはかることが肝要だ。
ヨシュアはバックミラーで大きくなりつつあるクリーチャーを見る。
拙い。
想像するより遥かに大きい。
巨大な球体の一部がレール状にへこみ、天垂の糸を挟み込みながら迫ってくる。
どのようにして推力を得ているのか不明だ。
触手を大きく伸ばしている。
「大きい。
ガイドをリリースするだけでは無理だな」
『そう。
なら、西に向かって水平方向に最小単位でキックして』
「了解」
ヨシュアはアポジエンジンの点火器を稼働させる。
そして液体ロケット燃料を循環させる。
十五秒後にアポジエンジンが使用可能になる。
クリーチャーはバックミラーでみるみるうちにその大きさを増してゆく。
ヨシュアは上側の可動ガイドをリリースする。
リフトは仰け反るように先端部を天垂の糸から離す。
天井の窓に地球と迫ってくるクリーチャーが見える。
ヨシュアはリフトの腹部、二対の車輪側にあるペイロードを切り離す。
ペイロードはリフトから離れて浮き上がる。
ヨシュアはリフト下側のガイドをリリースする。
リフトは背面状態になり、天垂の糸を離れ西側に流れる。
完全な無重力状態だ。
ヨシュアはカウントする。
五・四・三・二・一・ゼロ。
ヨシュアは最小単位でアポジエンジンを灯す。
ヨシュアは激しい重力を受け、座席に押さえつけられる。
逃げられたか? ヨシュアがそう考えた瞬間、激しい衝撃がリフトを襲う。
リフトは回転する。
回転する窓の外にクリーチャーから延びる触手が見える。
クリーチャーはリフトを追い越した後、天垂の糸を離れて西側に流れたらしい。
そして遥か上方からリフトに無数の触手を伸ばしているようだ。
いまや触手の長さは数キロに及んでいる。




