第二章第三話(九)空飛ぶ回転体
アムリタとエリーは九千メートルテラスを探索する。
六千メートルテラスと同じ構造であれば九千メートルテラスの中央奥に横穴通路があるはずだ。
六千メートル通路は雪に埋もれていたので放置したが、九千メートルテラスではそれほど雪が積もっていない。
アムリタは小型のスコップで雪を掻き出す。
すると程なく通路が見える。
エリーは空中に文章を綴る。
アムリタはヘッドマウントランプの灯りを点け、奥を照らす。
低い太陽はかなり奥まで通路を照らすが、反って最奥部の暗闇が強調される。
なにか、カチリ、という音がし、更に、ブーン、という音が聞こえてくる。
「どう?
中になにかある?」
「百メートルほど先に扉がある。
その奥にも空間があるようだ。
行ってみるか?」
エリーは訊く。
アムリタは少し考える。
「そうねぇ。
行ってみたい気もするけど、この後の天候が不安よね」
アムリタは残念そうに言う。
「そうだな、予想より早く天候が崩れそうだ」
エリーは空を見上げながら言う。
尤も見える範囲では快晴そのものでエリーも空を見て気象予測をしているわけではない。
エリーは中が気になったが、今日の夜アムリタが寝た後に一人で調べることとし、今はアムリタの判断に従う。
東の空は晴れ渡り、太陽は地平線から離れ、超高層ピラミッドを照らす。
アムリタはアノラックの下に目出し帽、酸素マスクを着用している。
「ヘッドランプ、バーナー、コンロ台、コッヘル、ケトル、燃料は下山には不要だな。
ここに置いてゆく。
ピッケルとスコップは……、持っていくか」
エリーは荷物を軽くするために荷物を選別する。
アムリタもそれに倣い、荷物を選別する。
アムリタはバーナーで雪を溶かし、お湯を作る。
そして平たい水筒の中に詰める。
「温かいよ、エリー」
アムリタはエリーの水筒を受け取り、同様に中身を詰め替える。
この水筒は行火代わりにインナーに着けているものだ。
ありがとう、とエリーは薄く微笑みながら言う。
「さて、行きますか」
アムリタはバックパックを、よいしょ、と担ぎ上げる。
荷物も減り、酸素も消費していてかなり軽くなっている。
エリーもバックパックを担ぎ立つ。
「下りは私が先導するよ」
エリーは薄い微笑みを浮かべながらアムリタに言う。
エリーはアムリタほど疲れていない。
ペースを作るなら自分が先導したほうが良いだろうという判断だ。
アムリタは、おねがいね、と微笑みながら応える。
エリーは右手で手摺を掴み、左手でストックをつきながら階段を下りる。
アムリタは少し離れて付いてゆく。
下りは下りでバックパックの重みが膝にかかり、体力を奪う。
しかし重力に従っているので気分的には楽だ。
エリーはアイゼンの踵を利かせ、段を作りながら一歩一歩下る。
もとよりエリーは魔法の防御壁で守られていて、一気圧十五度での運動である。
多少天候が荒れようが問題はない。
身動きができなくなるほど天候が荒れれば、アムリタを連れて七千五百メートルの踊り場まで跳べば良い。
一度に跳ぶことはできないが細かく刻んで跳んでもさして時間はかからないだろう。
「エリー!」
アムリタの呼ぶ声がする。
鋭い声だ。
「エリー、そこで止まっていて頂戴!」
エリーは振り返る。
アムリタは十メートル程上で止まっている。
どうも数回呼ばれていたようだ。
アムリタはナイロンザイルを右の手摺に括り付け、バックパックを捨ててエリーのほうに駆け下りる。
エリーはアムリタの行動の意味が判らなかった。
アムリタはエリーの下半身に肩を当てそのままエリーを右の肩に担ぎ、ナイロンザイルとカラビナを使って二人を結びつける。
エリーは混乱する。
いったい何が?
アムリタはエリーを抱えたまま数歩階段を下り、階段の左側の手摺を跨ぎ、乗り越えて跳ぶ。
エリーはアムリタの肩に抱えられ、後ろ向きになった視界に映ったものを見てやっとアムリタの行動の意味を理解する。
――グシャー、ダーン
階段を見上げて左はるか上方、南側のほうに直径十メートルはあろうかという巨大で分厚い車輪のようなものが跳ねている。
巨大な車輪は空中を舞う。
アムリタは階段の北側に向かって左手に掴んだナイロンザイルを頼りに駆ける。
――ゴキャ、グギャギャギャギャー
巨大な車輪は今までエリーが立っていた階段を両側の手摺ごと削り、巨大な音をたてる。
階段は階段ではなくなり、遥か下方の階段だった場所に深い溝ができ、その中で回転しながら止まる。
アムリタは階段から離れた氷の斜面にエリーを抱えたまま倒れる。
(何だ?
今のは何だ?)
アムリタに助けられなければ死んでいた。
エリーは更に混乱する。
エリーの酸素ボンベは巨大な車輪を避ける際に谷側に落下している。
エリーは防御魔法を解いてしまう。
拙い、そうエリーが思ったときには息ができなくなっている。
風景は暗転し、息を吸っても吸っても楽にならない。
やばい、落ち着かなければ、エリーが薄れゆく意識でそう考えたとき、エリーの口元は酸素マスクで覆われる。
アムリタが自分の酸素マスクをエリーの口元にあてているのだ。
アムリタは凍り付く目出し帽の口元、紫色になった唇で微笑む。
風向きが変わる。
山頂から極寒の風が吹き降りてくる。
霧が山頂から這い下りるように下ってくる。
あたりは濃霧に包まれる。
体感温度が一気に十度は下がる。
恐らく実際の気温も相当下がっているはずだ。
アムリタは再びエリーを肩に担ぎ、右手でナイロンザイルを手繰りながら階段方向に歩く。
一歩、一歩と。
エリーもアムリタも雪まみれになっている。
目出し帽にも雪が入り、顔面は凍てつくように寒い。
手袋の中にも雪の侵入を許してしまっている。
アムリタはなぜ動けるのだ?
エリーは酸欠の意識の中驚嘆する。
エリーはアムリタに担がれながら、自分の体を修復する。
血中の酸塩基平衡をバランスさせ、呼吸を取り戻す。
血中ヘモグロビン濃度を上げ、脳に酸素が回るようにする。
そのうえで魔法防御を再構築する。
「アムリタ、もう大丈夫だ。
下してくれ」
エリーは叫ぶ。
しかしアムリタからの返事はない。
エリーは空間をアムリタの下に跳ぶ。
そしてアムリタに向き直る。
アムリタの目は何も映していない。
アムリタはエリーに向かってゆっくりと倒れかかる。
エリーはアムリタを抱き抱えるように支える。
アムリタの目はゴーグルの中で閉じられる。
意識が混濁しているようだ。
「アムリタ!
アムリタ!」
エリーは酸素マスクを外し、アムリタの口元に押し当てる。
そして階段へと空間を跳ぶ。
一回、二回、三回。
数回の跳躍で階段に戻る。
そこでアムリタを抱きしめる。
危ない。
体温低下が始まっている。
目出し帽もグローブシステムも既に使い物にならない。
極低温の氷を肌に密接させているのと同じだ。
エリーはアムリタの目出し帽と手袋を剥ぐ。
アムリタの指は青紫色になっている。
まずい。
血流が途絶えている。
エリーはアムリタの頬に自分の頬を押し当て両手を握る。
全身を防御できないから、全身を温めることができないから、せめて顔と頬だけでも防御層の中に入れる。
防御層内の温度を四十度程度に調節する。
アムリタの顔と手指の血流が戻る。
エリーはアムリタの顔と手指の毛細血管を広げる。
エリーは自分のバックパックから予備の目出し帽を取り出し、アムリタに被せる。
そして同様にアムリタのグローブを外し、ソニアからもらった予備のグローブシステムに交換する。
酸素マスクを装着し左手をアムリタの首にあてる。
アムリタのバイタルを戻さなければならない。
そしてせめてアムリタの顔面だけでも防御しなければならない。
風は更に冷たく強く吹き荒ぶ。
風は吹雪となり細かい雪が二人を容赦なく覆う。
何故自分の防御魔法は自分しか護れないのか。
何故空間の跳躍と魔法防御を同時に使えないのか。
エリーは悲痛な叫びをあげる。
自分の魔法は制約が多すぎる。
登るか? それとも下るか? エリーは迷う。
酸素残量を考えると下るべきであろう。
しかし行動不能に陥ったアムリタを抱えて千メートルを下れるだろうか?
いや、八千メートルの踊り場に着いたところで小型のテントしかない。
アムリタを救えるだろうか?
エリーは階段の下を見る。
階段は数十メートルに渡り無残に削られ、破壊されている。
多くの破片が階段を覆っている。
エリーは、今度は階段の上を見る。
階段の十メートル程上にはアムリタが下したバックパックがある。
ああ、中にはソニアがくれたグローブシステムがある。
アムリタのお守りだ。
上に登ろう。
エリーは決意する。
九千メートルテラスまでは二百メートル程度。
横穴通路まで戻れば吹雪は凌げる。
バーナーもあるので暖もとれる。
アムリタの治療もできるだろう。
最悪の場合はアムリタを石化魔法で現状保存する。
最悪の場合だが……。
エリーは自分のバックパックから携帯用投光器を取り出し天に向かって信号を送る。
『キュウジョコウ、ワレソウナンセリ、キュウセンメートルテラス二ムカウ』
三回信号を送る。
なにも返事は無い。
この天候では可視光はソニアの人工衛星まで届かないのか?
エリーは携帯用投光器を廃棄する。
エリーはアムリタを担ぎ、酸素ボンベをアノラックに結び付け、階段を上り始める。
 




