第二章第三話(八)祝砲
――崩壊歴六百三十四年の五月三十一日三時
アムリタとエリーは深夜の七千五百メートルの踊り場に立っている。
目出し帽にゴーグル、アノラックのフード、その上にヘッドマウントライトを装備している。
谷方面を照らしても霧が見えるのみ。
二人ともバックパックに酸素ボンベを括り付け、顔には酸素マスクを装着している。
「さて、三時よ。
アタックを開始するわ」
アムリタは上機嫌で宣言する。
エリーも、ああ、行こう、と応じる。
アムリタは携帯用投光器で天に向かって信号を送る。
ズキューン
銃声のようなものが下から聞こえる。
ソニアが応じたのだろう。
二人は頷きあい、登り始める。
酸素ボンベは重い。
しかし酸素吸入があると足が軽い。
重いはずのバックパックも軽くなった気がする。
いままで一歩一歩が鉛の足のように重かったのが嘘のようだ。
体温も上昇したように体感する。
強風が吹き上げてくる。
風は恐ろしく冷たく湿ったものであるが、後ろから吹いてくるのでまだマシだ。
先導するのはアムリタだ。
アイゼンを装着した二重靴で階段を踏み固めながら登る。
エリーはアムリタが踏み固めた後を登る。
右手には伸縮可能なストックを持ち、左手にはカラビナを持ち、手摺のガイドに潜らせて引摺る。
エリーは、アムリタの背後を守るべく、ストックを持ったままの右手で文章を綴り、状況を調べる。
この風は日の出前に止むだろう。
そして二時間ほど風のない状態が続き、その後風向きが逆になる。
午後に向かって天候は崩れてゆく。
十時までに七千五百メートルの踊り場に戻れれば凌げるだろう。
先の階段の状況も調べる。
所々危険なところもあるが、気を付ければ概ね問題ない。
七時間で千五百メートルを登り降りする。
装備を含めて二十キロ弱を担いでいるが、平坦な階段だ。
自然の山嶺をアップダウンするわけではない。
十分実現可能だろう。
怖いのは酸素マスクの凍結。
酸素吸入ができなくなれば希薄な酸素下、重病人のような状態で下山を試みることになる。
それに目出し帽、三重の手袋、二重靴の中、靴下の凍結も怖い。
鼻や頬、手指や足指は簡単に凍傷で失われてしまう。
手袋と目出し帽、靴下はスペアがあるが、それを使うときは即刻下山を決意しなければならない。
でも大丈夫、アムリタは私が護ってみせる、エリーはそう決意している。
そうでなければこの冒険に自分が付いてきている意味がない。
八千メートルより上では自分は総力で自分の身を固める。
そして万全の状態でアムリタの万一の場合に備える。
アムリタが音をあげたら空間魔法で即、連れ帰る。
エリーには今回の冒険に対するアムリタが持っているような拘りはない。
アムリタが少しでも窮地に陥ったとき、魔法でアムリタを救うのにエリーには何の躊躇いはない。
アムリタは私が護ってみせる。
二人は各々十八キロのバックパックを八千メートルの踊り場まで担ぎ上げる。
相変わらず周囲は霧の中であるが真暗闇というわけではない。
日の出はまだ先であるはずであるが白んできている。
踊り場の手摺に括り付けてある物資は無事だ。
アムリタは、未使用の酸素ボンベに交換する。
「エリーは酸素ボンベ、交換しないの?」
アムリタは今まで使っていた酸素ボンベをナイロンザイルで踊り場の手摺に固定しながら訊く。
「さして酸素を使ったわけではないからこのまま登るよ」
エリーはこの踊り場での荷物を触わらず、アムリタを待つ。
エリーは荷物の重量が重くなるのを嫌った。
今後も不要になり次第、物資は廃棄する予定だ。
アムリタは、了解、と応え立ち上がる。
「日の出は九千メートルで見たいけど、少し間に合わないかしらね」
アムリタはそう言いながら登り始める。
風はこころもち緩んできているように見える。
霧で周囲は見えないが、天頂を仰ぐと暗い空が見える。
もうすぐ霧が晴れるだろう。
エリーは自分の体の表面に沿って層を作る。
死霊系魔法での防壁だ。
そしてその層を空間魔法で覆う。
この層は瞬く間に体温で温められ、暑いほどだ。
見えない防御層の中の空気を循環させ、外部との熱交換を行い、温度を調整する。
もはやエリーにとってここは極限状態ではない。
酸素は薄いが、酸素ボンベの中の酸素と外部の空気を混合し見えない防御壁の中に送り込む。
一気圧に整えられ、気温十五度に保たれたこの防御壁の中の空間は寧ろ快適ですらある。
音が多少聞こえ辛くなるが、アムリタの動きに集中すればアムリタの声は聞き洩らすことは無いだろう。
ここから先、アムリタの感覚とエリーの感覚は異なることになる。
エリーはその差分を埋めるべく、空間に文章を綴り続ける。
重要監視対象としてアムリタのバイタルをモニタする。
アムリタの体表温度は下がっている。
特に顔面と手指が重要だ。
アムリタの手指の温度は低い。
ただ、アムリタは音をあげず前へ前へと歩を進める。
エリーはアムリタの後ろ姿を見続けながら登る。
エリーは思う。
アムリタは格好が良いな、と。
アムリタと同じ感覚を共有できないことを少し残念に感じる。
八千五百メートルの踊り場を超えたあたりで、霧が急速に晴れてゆく。
谷側の景色が鮮やかに広がる。
「綺麗だ!」
アムリタは指さし叫ぶ。
エリーも振り返り、谷側を眺める。
東南方向から南には大洋が広がる。
東方向から北側にはアメイジア大陸が延々と続くように広がる。
どこまでも海が続き、どこまでも陸が続く。
手前は暗く、先にいくほど明るく見え、遥か彼方先は白く混濁し一つの弧となって繋がる。
「登ろう、エリー!」
アムリタは再び山側を向き、歩を進める。
エリーは暫く風景を眺めつつも、アムリタを追う。
既に九千メートルの踊り場は目視できる。
エリーはアムリタの気持ちが判る。
九千メートルテラスで日の出を見たいのだ。
間に合うか? 日の出まであと二十分程度しかない。
急げば間に合う。
幸いにも今は殆ど無風。
気温は七千五百メートルから既に十度近く下がっているが、体感温度はさほど寒くない。
アムリタは力強く登ってゆく。
エリーはその後に続く。
あと百メートル、あと八十メートル、手摺の切れ目が近づいてくる。
バックパックは重い。
疲労もある。
でもこの日の出はなんとしても九千メートルテラスで見たい。
東側のルートを選んで大正解だ。
正面から太陽が昇ってくる。
狙ったわけではないが期待はしていた。
アムリタは九千メートルテラスに登りつく。
そしてエリーの手を引く。
そのとき、アムリタの顔がオレンジ色に染まる。
エリーも九千メートルテラスに立ち、振り向き、地平線を見る。
嗚呼! 絶景かな! オレンジ色の歪んだ太陽の頭が地平線から顔を覗かせている。
暗かった空が輝き、地平線、水平線の奥から明るさを増してゆく。
近くの麓は雲海に隠れて見えないが、遠く離れた地面は急速にオレンジ色の光につつまれてゆく。
「エリー!
エリー!
凄いね!
この風景をエリーと見られて良かった!」
アムリタは酸素マスクと目出し帽を外し、両手を天に突き上げて言う。
「エリー!
ありがとう!
貴女のおかげよ!
エリー!」
アムリタは日の出を見るエリーを背後から抱きしめる。
日の出の太陽は刻一刻とその姿を変え、太陽の恵みは眼下の雲の形を変えてゆく。
オレンジの光は次の瞬間、激しい白い光となって直視できないものに変わる。
瞬く間に眼下の雲が払われてゆき、おだやかな風景がそこに現れる。
すべてがミニチュアのジオラマのように、森が、川が、岩場が、湿地が、平野が、海岸が、そこにはっきりと現れる。
アムリタはバックパックから三角形の布を取り出す。
そこにはデフォルメされた黄色の髪の少女と灰色の髪の少女と赤い髪の少女の絵が描かれている。
その三角形の布を七千メートルテラスの手摺に括り付ける。
そして空から見えるように広げる。
「私たちは辿り着いたのよ。
その痕跡をここに残すわ」
アムリタは荒い息で、それでも笑いながら言う。
――ズキューン、ズキューン、ズキューン
下から小さな音がする。
「ソニアだ。
ソニアの祝砲だ。
祝福してくれている!」
アムリタとエリーはハイタッチをし、微笑みあう。
そして再度天を向き、天に向かって両手を伸ばす。
天頂から南に流れてゆく朝日に光る銀色の光に向かって。




