第二章第三話(五)六千メートルテラスで朝食を
――崩壊歴六百三十四年の五月二十七日五時
標高六千メートル。
早くも地球は丸いと感じることのできる風景だ。
未だ日の出前であるが東の空は明るくなってきている。
眼下には雲海が広がり、地平線は白み百八十度を超えて続く。
ここは超高層ピラミッド、六千メートル付近にある通称五合テラスと呼ばれる半円形状の平地。
雪が厚く積もっている。
アムリタとエリーはここに大きなテントを設営し、三日を過ごしている。
ベースキャンプであるが今は高地順応のための滞在に必要な物資しかない。
高地順応が不十分な状態で過度な運動を行うと危険なためだ。
「高地順応も完了ね」
アムリタはテントから出て伸びをする。
下はオーバーズボン、上はフード付きのアノラック、手袋に二重靴の完全防備だ。
初日は運動をする気になれなかったが、エリーの魔法により徐々に息苦しさが無くなり、いまでは普通に運動できる状態にある。
「そうだな。
六千メートルでは」
同意するエリーも同様の恰好をしている。
ただしフードを被っていない黒灰色の髪は首下までのナチュラルボブカットになっている。
エリーは登山に際して邪魔になる髪を切った。
見る角度により銀色に見える黒灰色の髪の下に細く長く白い首が見える。
「ここから上の高地順応はまた別物だ」
「ええ、先ずは六百メートル上に今日ソニーが持ってきてくれるテントを運び、セカンドキャンプを設営するのね。
そして往復して物資を運び上げている間に順応を期待する。
エリーにも期待しているわ」
アムリタが、よろしくね、と言う間に、コゥゥゥという音がし、だんだんと大きくなってくる。
左手側から前面に向かって飛空機が旋回し、前面上空に停止する。
「来たわ!
ソニー!」
アムリタは手を振りながら大声で飛空機に声をかける。
飛空機の操縦席には帽子にサングラスをかけたソニアが小さく手を振る。
飛空機は姿勢を変えながら五合テラスの中央に着陸する。
「二人とも生きてるー?」
ソニアは爽やかにテラスに降り立つ。
エンジンは止めない。
膝までの厚手のコートに帽子姿、酸素ボンベを背負い、顎の下には酸素マスクが垂れ下がっている。
「残りの荷物と食料を持ってきたよ。
先ずは食べよう」
ソニアは布袋を持ち上げてみせる。
三人はテントの中に入り、布袋を開ける。
中には保温に気を使って梱包された水牛のリブステーキ、鳥のスープ、ホウレンソウのソテー、温かいパンが入っている。
「リブステーキ!
ソニー、判ってくれたのね!
貴女はこころの友よ!」
肉が入っているのでアムリタは泣きながら喜ぶ。
「大袈裟ねー。
マイナス二十五度では直ぐに凍ってしまうから早めに召し上がれ」
三人はソニアの朝食を食べる。
テントの中は零下五度程度であるが、それでも急速に冷えてゆく。
「美味しいわ、ありがとうね、ソニー」
アムリタは泣きながら食べる。
「物資はすべて持ってきたよ。
「アイゼン、ピッケル、伸縮可能なストックは予備を含めて四つずつ。
ヘッドライト二つ。
燃料棒二ダース。
「予備のゴーグル。
ハーネスは各種。
シュリンゲは百二十と六十をそれぞれ半ダース。
カラビナとエイト環をそれぞれ二ダース。
ナイロンザイル。
「テントは大中小の三つとツェルト二つ。
ナイフは大小四つ。
ロールペーパー一ダース。
タオル大小それぞれ一ダース。
バーナーとコンロ四台と燃料。
コッヘル、ケトル、携帯用食器各種。
「五百リットル酸素ボンベ追加で六本と予備の酸素マスク四つ。
着替え各種。
薬類。
「後は、スープストックにシチュー、麦飯やパンは既に良いように凍っている。
適当に解凍すると食べられると思うよー」
ソニアは伝票を見ながらツラツラと列挙する。
ソニアはテントの外に行き、飛空機の後部ハッチを開く。
荷物の数々が積まれている。
「悪いけど私は手伝えない」
ソニアは高地順応できていないのだ。
「大丈夫、私たちが運ぶわ」
アムリタとエリーは飛空機の荷室にある物資の数々をベースキャンプの中に運び込む。
「ここにお店開けるね。
ジュニアの道具屋超高層ピラミッド五合テラス支店。
これだけあれば万が一の時にも安心」
アムリタはご満悦という感じで言う。
「荷室の奥の荷物は何かしら?」
アムリタは飛空機の荷室奥にある青いシートで覆われた大きなものを指さし訊く。
「ああ、あれは私の私物。
待機している間の食料とか」
ソニアは、貴女たちの救助道具とか、と続ける。
「ああ、そうだ。
完璧なグローブシステムを作ってきた」
ソニアは二つの袋をアムリタとエリーに渡す。
「最内側はメリノウール、二番目は防水ゴム、三番目は極厚超細密編み上げの大型ウール手袋。
そして外側は完全防水防風の三本指ミトンの四重構成。
ミトンにはメッシュゴムを融着させてあるのでグリップ力も凄いよ。
これを嵌めておけば凍傷で指がなくなることはまずないと思うよー」
ソニアは自慢気に言う。
アムリタとエリーは中を確かめる。
「凄いわ、ソニー。
ありがとう。
これはいざというときに使わせてもらうわね」
「え?
最初から使えばいいのにー?」
ソニアは不満そうだが、アムリタは、これはお守りにするわ、と笑う。
丁度そのとき、左の地平線から太陽が顔を出す。
三人は金色に光る、神々しい日の出を見つめる。
「綺麗だねー。
私たちはもっと超高層ピラミッドを見直しても良いのかもしれないね」
ソニアは嬉しそうに呟く。
「ええ、ええ、そうよ。
そうよね。
とっても綺麗だわ」
アムリタも満面の笑みで応える。
エリーも頷く。
「計画は?」
エリーが短く訊く。
「先ずはテント一基を中心に一人十八キロ、二人分合計三十六キロの物資を六百メートル上に運ぶわ。
念のために酸素ボンベも運ぶのでそれほど多くの物資は運べないけど。
で、六千六百メートルにセカンドキャンプを設営する。
そこで耐えられるだけ耐えて、ここに戻る。
それを今日は二往復を目標。
この作業を高度順応できるまで繰り返すわ。
そうやって必要な物資をセカンドキャンプに持ち上げる」
アムリタは荷物を選別しながら応える。
エリーはその持てる力すべてを使って高度順応を支援してもらっていいのよ、とアムリタは微笑みながら付け加える。
エリーには飛空機で九千メートルのテラスに運ぶ支援と、魔法での高度順応支援との違いが判らない。
「まあ、了解だ。
雪が残っているとは言え、通常の登山とは違い、手すりのある四十五度の階段を登るだけだ。
今日は天候も落ち着いているし問題無いだろう」
エリーも荷造りをしながら応じる。
「じゃあ、頑張ってねー。
私は下に降りるよ。
さすがにここじゃ、飛空機のエンジンを止めてしまうと再起動が面倒なんだ。
なんかあれば投光器で知らせてね。
電波ビーコンは監視しておくから」
ソニアはそそくさと飛空機に乗り込み、人差し指と中指を使った敬礼をして飛び立つ。
アムリタは、ありがとうねー、と言って手をブンブンと振る。
「氷点下二十五度の世界に長居はできないかなー」
ソニアは独り言ちる。
ソニアはいったん超高層ピラミッドの斜面を離れ、雲海の中に飛空機を沈める。
飛空機は霧に包まれる。
ソニアは赤外線スコープを頼りに地形を確認し、機体を制御する。
三千メートルのテラスに下りるまでさほど時間はかからない。
ソニアは器用にテラスの奥に飛空機を着陸させる。
外気温は零度付近で寒くはない。
あくまでも五合テラスと比較してではあるが。
ここならば飛空機のエンジンを切っても再起動にもたつくことはないだろう。
ソニアはコートの前ボタンを外し、胸の目を露出させる。
さて、どうしようか、とソニアは考える。
もっと下まで降りて待機する場所を探すか、それとも閑だし中を探索するか……。
ソニアが考えていると、コゥゥゥ、という音がし、だんだんと大きくなってくる。
ソニアの表情は冷たいものになる。
飛空機がこちらに向かってくる。
ソニアは胸の目を使い、謎の飛空機を見る。
ソニアの胸の目は多少の赤外線領域の光を見る。
飛空機は、お世辞にも上手とは言えない姿勢制御である。
誰だ? この下手くそな飛空機は? ソニアは飛空機の投光器を使って警告信号を送る。
そして直ぐに離陸できるように準備を整える。
敵か?
ソニアの飛空機の機銃は既に相手飛空機を捉えている。
相手飛空機は特に臨戦態勢を取っているようには見えない。
霧の中から発光信号が返ってくる。
ソニアは笑う。
意外なところで会うものだ。
ソニアは霧の中、相手飛空機に向かって発光信号を送る。
無事に着陸できるように誘導するために。




