第二章第三話(四)高地順応
エリーは姿勢を正し、腕組みをして考える。
超高層ピラミッド。
南東沿岸に聳える直径二万四千メートル、高さ一万二千メートルの円錐状の多目的ビルディング。
失われた古代文明の遺跡。
「アムリタ、君は標高一万二千メートルの世界を舐めているとしか思えない」
エリーは腕組をしたままアムリタを見て言う。
「ええ、気温は季節にもよるけれど零下七十度、酸素分圧は地上の四分の一以下。
常に強風が吹き荒び、雪や氷が溶けることもない極寒の世界。
標高八千メートル以上では人間は高度順応を行うことができない。
だから酸素ボンベなしでは生きてゆくことができない。
極寒と強風、低圧低酸素で四肢は簡単に凍傷になり失われる。
そういう所ね?」
アムリタは涼し気な笑顔を浮かべ、滑らかに言う。
「そのとおりだ。
それは言葉にすれば簡単であるが、要するに寒冷地獄そのものだぞ?」
「そうそう、一度で頂上まで登るのは無理よね」
アムリタは頷きながら言う。
「だから、六千メートルから九千メートルまでを登るのよ」
エリーは、うーむ、と考える。
超高層ピラミッドは海抜ゼロからいきなり立ち上がっている断面が直角二等辺三角形の円錐形をした人工建造物である。
その構造は三千メートルごとに四つの部分に分かれている。
最初の三千メートル付近は切り落としたように数百メートルの垂直の壁となっていて、来るものを拒む。
しかしそれより上は一応十六方位にそれぞれ階段が頂上まで続いている。
装備を整えれば登れないこともない。
「六千メートルまで飛空機で行って、高度順応を行う。
そこから登攀を開始し、デスゾーンからは酸素ボンベを担いで一気に九千メートルにある棚を目指す。
そしてそのまま六千メートルまで下り飛空機で離脱する計画か?」
三千メートル、六千メートルと九千メートル付近には半円形に切り拓いた平地がある。
垂直離着陸が可能な飛空機ならば離着陸が可能かもしれない。
ただし四千メートル以上では気圧が低いため、レシプロエンジン機では到達は難しい。
強風に耐える操縦技術も必要となる。
デスゾーンとは人間が高度順応できない八千メートル以上の高度区域を言う。
この高度区域では酸素供給より酸素消費のほうが早くなり、酸素ボンベ無しでは人間は生きられない。
消化器官は機能せず、居るだけで生命が削られてゆく死の領域。
高度六千メートルから九千メートル。
直線にして四千二百メートルと少しが死の領域を跨ぐわけだ。
「ええそうよ、エリー。
さすがね。
話が早いわ。
先ず六千メートルにベースキャンプを設営するの。
そこで数日過ごすわ。
高度順応できたら、六百メートルごとにキャンプを設営し物資を上に往復して運ぶ。
そして標高七千八百メートルに最終キャンプを設営する」
アムリタは左の掌を右手の肘にあて、右手の人差し指で天井を指し示しにこやかに笑う。
「最初の六千メートルで既に零下二十五度、酸素分圧二分の一以下だぞ。
高度順応できるのか?」
エリーはアムリタを試すように訊く。
「エリー、自分ならなんとかできるって顔している」
アムリタは逆にエリーの顔を覗き込むように顔を傾け、意味ありげに微笑む。
そんなアムリタを見てエリーは考える。
フム、完全に乗せられているがまあいいだろう。
高度順応ができていない状態、すなわち高山病の状態をいかに回避するか。
エリーはその課題について考える。
酸素の絶対量が少ない状況では希薄な酸素を取り入れるために多くの呼吸を必要とする。
これはある程度の高度までは単に呼吸数を上げることにより補償できる。
しかし、急激な高度の増加や過度な運動で必要酸素量が多くなった場合、呼吸数の増加では必要な酸素量を体内に取り入れることができなくなる。
過換気症候群という状態だ。
この状態になると呼吸が激しくなり、必要以上に二酸化炭素を排出してしまう。
その結果、血中の酸塩基平衡がアルカリ性に傾き、呼吸性アルカローシスとなる。
こうなるといくら息を吸っても必要とする量の酸素を取り入れることはできない。
高度順応には色々な要素があるが、支配的なのは腎臓での体内炭酸水素塩を排斥する身体機序だ。
これにより呼吸性アルカローシスの危険なく呼吸数増加による酸素供給量を増やすことができるようになる。
そのうえで血中ヘモグロビンの密度、絶対量を高め、血中により多くの酸素を蓄えられるようにするなど、様々な変化により順応する。
しかし普通に行えば六千メートルの高地順応に健康な人間で二カ月は要する。
これは恐らくアムリタが求めている解ではない。
アムリタはその高度順応をエリーの魔法でなんとかできないのか? と訊いている。
エリーは考える。
二段階あるだろう。
先ず平地での操作。
腎機能を高めて予め炭酸水素塩の排出を最適化させる。
また造血幹細胞の分化を加速させ赤芽球、赤血球への分化過多となるように誘導する。
更に骨格筋の毛細血管密度を増やし、体内の血液量自体も増やす。
高地順応の機序を予め行うアイデアだ。
だが単にヘモグロビン密度を上げるのは色々副作用が怖い。
脳の毛細血管を強化、拡張して脳の血流量を増加させるとともに肺活量も増大させて酸素循環も強化するべきだろう。
次に六千メートルに辿り着いた際の操作。
腎臓の炭酸脱水素酵素を阻害することにより代謝性アシドーシス、つまり血中の酸塩基平衡を意図的に酸性側に傾け、呼吸性アルカローシスを緩和の方向に誘導する。
呼吸数の増加で供給酸素を増やすことができれば、前もって総量を増やしておいたヘモグロビンが増えた分の酸素を体内に維持する。
その他色々考えなくてはならない。
心肺はもつのか?
脳浮腫や肺水腫の予防と対策も検討しなければならない。
副作用に対する対策も……。
エリーは頭の中で検討を続ける。
そして六千メートルの高地順応に必要な期間、二カ月を数日程度に短縮できると結論付ける。
「……元が健康であるという条件付きであるが、私の魔法で六千メートルからの高度順応を支援できる。
相当体を弄ることになるが……、人間の体なんてどうとでも弄れる」
「さすがエリー。
素晴らしい。
さすがよ。
貴女は大魔法使いよ」
アムリタはエリーの両手を取りながら賞賛する。
「実は既にかなりの準備をしているのよ。
ベースキャンプ、アタックキャンプ用のテント四基。
アイゼン、ハーネス、伸縮できるピッケル、五百リットル酸素ボンベ十本程度、酸素マスクに二重ゴーグル、防寒着、帽子にミトン、オーバーミトンにブーツにシェラフ、シェラフマット、全て極寒地仕様よ。
他にも一杯。
もうすぐ届くわ。
ソニーにも話してこなくっちゃ」
アムリタは満面の笑みを浮かべ、エリーの両手を握りしめて自分の胸に抱く。
そして、ねえねえソニー、と言いながら階下に降りてゆく。
エリーは一人二階に残る。
「へー、エリーと二人で冒険の旅に行くんだ。
うんうん、協力するよ」
階下からソニアの声が聞こえる。
ソニアとアムリタが話しているようだ。
アムリタの声は小さくて聴きとり難い。
エリーにとってアムリタとの会話は色々救われるものがあった。
エリーはジュニアを唯一無二と考えるが、ラビナに取られたとはいえ、別に死別したわけではない。
ジュニアが五体満足で生きていてくれるならば今はそれで良しとしよう。
いつか取り返せば良い。
つくづく自分は幼いと思う。
でかいのはなりだけだ。
でも、成長すれば良い。
今は弱くみっともないが、ジュニアを、皆を護れる強さを身につければよい。
いつか大人の女としてジュニアの前に立てば良い。
エリーは決意する。
自分はジュニアを諦めないと。
好きを諦めないと。
ジュニアが老衰で死ぬとき、傍らに居るのは自分でなければならない、と。
「えー?
超高層ピラミッド?
私、寒いのはちょっと勘弁かなー。
だいたいあそこ、わざわざ斜面を登らなくたって頂上まで登る方法はいくらでも……。
なんなら私が飛空機で――」
ソニアの声は続く。
確かにエリーにもアムリタがなぜ超高層ピラミッドに登りたいのか理解できない。
エリーが見るに、アムリタは危険な環境に身を置こうとする性癖がある。
考えてみれば超高層ピラミッドは最も近くにある極限環境だ。
アムリタが超高層ピラミッドを選ぶのは彼女の性癖に合致する。
アムリタと行動を共にすることは危険を共有することに他ならない。
しかしエリーはそれでも良いと思う。
自分が断ればアムリタは一人で行ってしまう。
そしてアムリタは死ぬ。
アムリタは自分が護ろう。
超高層ピラミッドでアムリタを護りきれれば、自分も少しは変われるかもしれない。
「――そうなの?
修行みたいなものなのかな?
まあいいや、六千メートルテラスまで二人と荷物を運んで、また迎えに行けばいいのね?
オッケオッケー」
階下からのソニアの声は上機嫌だ。
エリーの思索は続く。
それに、超高層ピラミッドは古代遺跡だ。
おかあさんは色々古代遺跡に関して調べていたことがある。
一度行ってみたいと思っていた。
おかあさんの痕跡が見つかるかもしれない。
「最近妙なものを大量に発注していたのはこのためだったんだね。
大急ぎで仕入れるようにするよー。
飛空機も極寒地仕様に整備しておく」
階下からソニアの声と、ありがとう、ソニー大好きよ、と言って笑うアムリタの声が聞こえる。
エリーは階下に降りてゆく。
ここ暫くの醜態を謝罪せねば。
それに、アムリタの造血能を鍛えるために食事管理を開始する必要がある。
アムリタは肉食系女子だし、豚のレバーを中心に献立を考えるか……。




