第二章第三話(二)エリーの暗愁
「エリー、隣に座っても良いかしら」
アムリタはエリー屋根の上に座るエリーに声をかける。
二階部屋の窓の外にある屋根の上だ。
エリーはそこで膝を抱えて座り、一方をぼんやりと見ている。
その方向にはジュニアの住まう共同住宅がある。
エリーは、アムリタを見て、あ? ああ、と虚ろげに応える。
特に断るでもないのでアムリタはエリーの隣に腰かける。
エリーの反応は落ち着いてきている。
アムリタはやや安心する。
ここ一週間は反応が無いか、ボロボロと大粒の涙を流して泣き出すかのいずれかであったからだ。
「ここは風が有って気持ちが良いわね。
もう少し見通しが良いともっと気持ちが良いのでしょうけれど」
アムリタは通りを挟んだ向かいの建物の屋根を見ながら言う。
二階からの風景なので多少は眺望があるものの、ジュニアの道具屋は路地の奥、入り組んだところにある。
直接は見えない。
低層階の建物に囲まれていて絶景というわけでもない。
雲が多いものの太陽は出ていて暖かい。
エリーは『浅き夢の世界』から帰った後、暫くは気丈に振る舞っていた。
ジュニアとラビナも目覚め、夢幻郷での出来事を説明する。
そしてジュニアは夢幻郷に行くべく準備を始める。
エリーは夢幻郷に入れないので一緒に行くことはできない。
アルンは、夢幻郷に入っても足手まといになるだけだ、と言って残る。
ソニアは一緒に行くことを希望していたが不安定になってゆくエリーが心配になり、アムリタと共に残ることとなった。
――今度は無茶な起こし方をしないでくれよ。
ジュニアは笑って言った。
その一言がエリーを傷つける。
ジュニアとラビナが夢幻郷に旅立った後、エリーは酷く落ち込む。
涙脆くなる。
「少しどこか旅にでも行かない?」
アムリタはエリーに提案する。
アムリタはエリーに向ける言葉を選びかねている。
危急の課題はジュニアのことだが、これは爆弾にしか思えない。
今は気軽には触れられない。
次の課題はエリーのおかあさん探しであるが、これもいかがなものだろう。
店の話や夕食の話も、エリーの精神状態が悪ければ糾弾と取られそうで怖い。
そうやってあれこれ考えるうちに当たり障りのない話題となってしまう。
それでは駄目だ、と思い、気分転換を勧めることとしたのだ。
エリーはチロリとアムリタを見る。
虚ろだが反応を示している。
「……すまないが今はそんな気分にはなれない」
エリーは暗い口調で応える。
「私は震えるような冒険の旅がしたいのよ。
エリーが一緒だったら心強いわ」
アムリタはエリーの事情に関して踏み込むことを放棄する。
その代わり、自分の勝手な事情にエリーを巻き込むことを画作する。
エリーは無言のままである。
「本当は過去に戻る方法を探したいのだけれど、今は手掛かりも無いから」
アムリタは続ける。
エリーは視線の方向をジュニアの住まう共同住宅の方向から、眼前の建物の屋根に移す。
「私は遊牧民の出だから旅が好きなのよ。
まさか時間を旅することになるとは思っていなかったけれど、エリーにも会えたし今のところ良い旅だわ」
アムリタは自分語りを続ける。
「あの時代で何があったのか心配であるけれど、悪いほうには考えないようにするつもり。
私、エリーの言葉に救われたわ。
風の谷の祭殿で『旅先で何が起きるか判っていたら詰まらないだろう?』って言ってくれたでしょう?
まさにそうよね。
全面的に同意するわ。
悪いほうに考えても意味がないしきりがない。
旅先で何が起きるか、寧ろ楽しみにするべきよ」
アムリタはエリーに笑いかける。
太陽が雲に隠れる。
「……あれは私のおかあさんが良く言っていた言葉なのだ……」
エリーは空中を見つめたまま、アムリタの言葉に反応する。
エリーは抱えている両膝の上に顎を乗せる。
アムリタはこのようなやや姿勢の悪いエリーの恰好を見るのは初めてである。
「私の喋ることは殆どがおかあさんの受け売りなのだ。
私はおかあさんのような強い人間ではない……」
エリーは言葉を続ける。
アムリタは黙り、エリーの横顔を見ながら話しの続きを待つ。
「おかあさんの、『旅先で何が起きるか判っていたら詰まらない』という言葉は、実は壮絶な覚悟の言葉なのだ。
どのような結果でも受け入れる。
そのうえで、命賭けで最善を尽くす、そういう意味だ。
それを私は気軽に口走る……」
エリーはそこまで言い、しばらく無言となる。
アムリタはじっとエリーの言葉の続きを待つ。
「……おかあさんの目的は色々あるのだろうけれど、その一つは多分私の産みの母を探すことなのだと思う。
おかあさんは過去に戻る方法を研究していた。
そして今、私の前から消えているのなら、多分過去に戻ることに成功したのだよ。
だからもう会えないのかも知れない。
私はそう思う」
エリーは両膝を抱えて顔を膝小僧に押し付けて泣く。
アムリタは左からエリーを抱きしめて引き寄せる。
エリーは抵抗なくアムリタに体重を預ける。
「あのね、エリー。
私は難しいことは全然判らないけれど、エリーのおかあさんはやっぱりこの時代に存在すると思うの。
だって過去に行きっぱなしって訳じゃないんでしょう?
ジャックが言っていたわ。
未来に行くほうが簡単だって。
コールドスリープとかの方法が有るんだって。
過去に戻って用を済ませたら、再びこの時代に戻ってくるはずよ。
だってこんなに可愛い娘が待っているんだから」
アムリタはエリーを抱きしめながら耳元で囁く。
エリーはビクッと体を震わせる。
そしてゆっくり顔を上げてアムリタを見返す。
至近距離で視線が合う。
「そうか……、その可能性があったか……。
身動きが取れない状態にある可能性……。
ならば探し続ける必要があるな……」
エリーは再び顎を両膝の上に置き、視線を落とす。
「ねぇ、ここは寒くなってきたわ。
部屋に戻りましょうよ」
アムリタは立ち上がり、エリーの腕を引き上げる。
エリーは特に抵抗することなく立ち上がる。
二人は窓からエリーのベッド伝いに部屋に戻り、テーブル席に並んで座る。
「私は少し特殊な育ち方をしているんだ」
エリーは頬杖をつきながら呟く。
「物心ついたときからおかあさん以外の人間との接触は少なかった。
おかあさんが私の母であり父であり教師であり唯一の友人だった。
だからさっきの件も含めて、私はおかあさんの影響を大きく受けている。
いや、お母さん以外の影響は全く受けていないと言うべきか……。
「私がごく幼い頃のことは覚えていない。
住んでいたのは人里離れた山奥だ。
人との付き合いもそれなりにあった。
おかあさんは優秀な医者だから必要とされることも多かった。
しかし、同年代との触れ合いは殆ど無かった。
ジュニア以外は……。
「八年くらい前だ。
ジャックがおかあさんを訪ねてくるようになった。
ジャックはおかあさんのことをお師匠様と呼んでいた。
最初はジャックと数人の大人だけだったが、ジャックはジュニアも連れてきてくれるようになった。
「ジュニアは私にとって唯一の歳の近い友人だったのだよ。
私はジュニアが来てくれるのを待ち続けた。
ジュニアは多分、おかあさんの話が聞きたかったのだろうけれど、私の話を聞いてくれた。
私と付き合って野山への探索にも付き合ってくれた。
「私にはおかあさんとジュニアしか居ないんだ。
おかあさんが居なくなってジャックが後見人になってくれた。
私はおかあさんが居なくなって悲しかったが、ジュニアの傍に居られることには感謝している。
「今の私にはジュニアしか居ないんだ。
取らないで欲しい。
返して欲しい」
エリーは両手で顔を覆い俯く。