第二章第一話(四)ゲートの向こう側
濃い藍色の空、夜と昼の狭間、薄暗い光の中、荒涼とした景色が広がる。
荒野に岩が点在し、それがどこまでも続く。
「ここはもう夢幻郷なの?」
ジュニアは傍らの少女に訊く。
少女はラビナであるのだが飴色の髪が腰まで長くなり、表情は大人びて見える。
身長もかなり高い。
服装は先ほど着ていた室内着ではなく刺繍のある荘厳な貫頭衣だ。
ゆとりのある布はウエストで銀糸に縁取られた白い帯で締められ、上下を別ち、膝丈のスカートのようにも見える。
そしてラビナは左手に銀の装飾が施された小銃を持っている。
「いいえ。
ここは未だ『浅き夢の世界』。
私は貴方を誘い夢幻郷へ導く」
ラビナは荒野を歩き始める。
ジュニアはキャリバックのようなものを引きずりながら付いてゆく。
ジュニアの服装も貫頭衣に裾を絞った薄い布のズボンに代わっている。
「このカバン、何で夢の世界なのにあるの?」
ジュニアは自分のキャリバッグを見ながら不思議そうに訊く。
「それはこっちが訊きたいわ。
ジャックといい、貴方といい、『夢見る』素質があるのかもね」
ラビナは冷たい口調で言う。
「ラビナ、君の小銃も夢の世界に持ち込めるんだね」
「そうよ。
この小銃は夢の世界への媒体であり、夢幻郷での羅針盤であり、護身用にもなるの。
色々お得よ。
こちらの小袋には薬莢や備品一式が入っているの」
ラビナはポシェットに似た首下げ紐が付いている小袋を見せる。
可愛らしいデザインであるが重量がありそうに見える。
「なんで君の姿は現実世界と違うの?」
「夢の世界だから誰かが確定させるまでは基本不定形なわけよ。
自分で自分の姿はあまり気にしないでしょ?
だから一人で夢幻郷に来ている人は多少異なる自己認識で確定させてしまうことが多いの。
貴方の場合は私が一緒に来ているからほぼ現実世界のとおりよ。
「尤も今は未だ夢幻郷ではないから、強い意志を持てば姿を変えられるかもしれない。
もっと美形にしてみる?
もっと高い身長がお望みかしら?
それとももっとマッチョにしてみる?」
ラビナは岩の横に空く空洞に入りながらからかうように説明する。
「この姿のままで良いよ」
ジュニアはラビナに続き、空洞の中の階段を降りる。
階段は薄暗い中を数十段にわたり赤く光る空洞に続く。
空洞の奥に二つの薄絹を纏った女性を形取った二体の石像がある。
石像の前にそれぞれ百二十センチほどの石柱があり、石柱には無地の掌大の石板が据付けられている。
そして石像の間には大きな石の扉があり、行く手を遮っている。
「この石板は禁止者が夢幻郷に入らないようにするための認証機。
いくつかの資格が試される。
人間であること、正気であること、人間の範疇にあること、過去に追放されたことがないことなどね。
他にもあるらしいけれど私は知らない」
「人間であることと、人間の範疇にあることは同じじゃないの?」
「必ずしも同じじゃないわ。
人間であっても精神のあり方が人間の範疇にない場合とか、肉体や精神は人間だけれど存在そのものは人外である場合とか色々あるのよ。
尤も、ここを通って中に入れないだけで、そういった存在は夢幻郷にはたくさんいるわ」
ラビナの説明にジュニアは、たくさんいるんだ……、と呟く。
夢幻郷は人間の精神の基底部分であるにも関わらず、化け物や超人、人外、そういった有象無象のもので溢れていることになる。
「そもそもこの石像を作ったのは誰なの?」
「蕃神たちであるといわれているけれど詳細は不明ね」
「蕃神?
外からのもののことだよね?
邪神が夢幻郷を守っているんだ?」
ジュニアは眉間に皺をよせながら呟く。
なんで外からのものが夢幻郷を守ろうとしているのだろう?
邪神とはいえ神は神ということだろうか?
蕃神、すなわち外国の神が人間たちの基底となる共同認識を守っていることにジュニアは強い違和感を覚える。
「ここは夢幻郷からの出口でもあるの。
夢幻郷側にも石像があるわ。
出るときの認証はなく、夢幻郷の内部の何かを持ち出していないかだけが問われる。
基本持ち込んだもの以外は持ち出せない」
ラビナは、判った? とジュニアに訊く。
ジュニアは、了解、と応える。
「階段では振り向かないで。
振り出しに戻ってしまうから。
帰りも同じ。
では一緒に入りましょう。
石板に両手を置いて」
ラビナは両手の掌を左右の石板に添える。
ジュニアはラビナの後ろから、ラビナの手の甲に掌を重ねる。
――ゴゴゴゴゴゴゴ……
重い音を響かせて中央の石の扉は上にもちあがってゆき、四メートル程度の高さに止まる。
「行くわよ」
ラビナは扉が開いた空間に現れた通路に歩を進める。
ジュニアは距離を詰めてラビナに続く。
ジュニアが通過した真後ろで、ドカン、という激しい音が響き、石の扉が閉る。
通路は直ぐに降りの階段となる。
二人がやっと降りられるほどの広さの空洞があり、周囲は最初赤く照らされ、階段を降るに従い暗くなる。
階段はどこまでも続くと思われるほど長い。
六百段ほど降りたであろうか、壁は紫色に照らされ明るくなってゆく。
さらに百段ほど降りると階段は途切れ、水平な通路となる。
通路の先には門が見え、その先に空が広がっている。
二人は連れ添って門を潜る。
空は異様な紫色に染まり、満月が天空に座している。
これは本当に月なのだろうか?
現実世界で見る月よりも遥かに大きく青みがかっている。
その表情も全く異なり、禍々(まがまが)しい。
周囲は岩山の裾野のようで背後には今く潜ったゲートがある。
ゲートの上には緩やかな登り斜面が続く。
岩山の反対側は枯れ野の段丘となっていて遥か彼方に山脈が見える。
周囲には人工建造物はなにも無い。
「夢幻郷へようこそ」
ラビナは優しく美しくジュニアに笑いかける。
「どう?
野垂れ死ぬ理由が少しは判ったかしら?」
ラビアは掌で荒涼とした風景を指し示す。
「確かに知識がなければこの先どうすれば良いのか全く分からないね」
ジュニアは認める。
知らずにここに迷い込んで、出口を見失ったらこの荒涼とした枯れ野を彷徨っているうちに命を落とすことになるだろう。
「先ず、このゲートの位置を覚えるの」
ラビナはゲートを指さす。
ジュニアはキャリバッグを開け、四角い箱のようなものを取り出し、箱の上面の画面をのぞき込む。
「あ、それ風の谷の祭殿で使っていたやつね」
「そう、電子計算機。
衛星による位置測位はできないようだけれど、六軸センサーは動くみたいだね。
まずはここの位置を起点にしてみるよ。
光の谷はどこにあるの」
ジュニアはキャリバックを背負い、手に電子計算機を持ち、ラビナに尋ねる。
「この丘を越えて三百キロ彼方よ」
ラビナは岩山の上のほうを指さし、笑う。
「三百キロ!」
「徒歩で片道約十日といったところね。
どう?
行く?」
「最低でも二十日間寝続けるということか……。
さすがに現実世界での肉体が持たないな」
ジュニアは夢幻郷が気軽に来て良いところではないことを理解する。
「現実世界の体のことならば大丈夫よ。
二カ月以上は保つわ。
夢幻郷に来ることによって新陳代謝が極端に遅くなっているから」
ジュニアは、へぇ、と相槌をうつ。
不思議ではあるが、たしかに数日しかもたないのであれば夢幻郷に来て都市を築くなんてことはできないであろう。
「ひょっとして君が幼い容姿をしているのは夢幻郷に来ている間成長が止まっていたから?」
ジュニアの問いにラビナは視線を空中に逃がす。
「もしそうなら、体は幼いままなんだから酒なんか飲んだら拙いだろうに」
「いいのよ、もう手遅れだから。
私の身長はここ数年全く伸びていないけれど、成人女性の最低ラインはクリアしているでしょう?」
「存外、今の容姿が本来の君の成長した姿なんじゃないの?」
ジュニアはからかうようにラビナに言う。
ジュニアの指摘にラビナは少し傷ついたような表情を見せる。
その顔を見てジュニアは少し狼狽える。
「そうかも知れないしそうではないかも知れない。
確かに私はあまりにもここに長く留まりすぎた。
現実世界は私にとって胡蝶の夢かもしれない。
でも、どのみち夢の中の話よ。
いいじゃない、私のことはどうでも。
それよりもどうするの?
行く?
帰る?」
ラビナはやや寂しそうな表情でジュニアに二択を迫る。
「準備が必要だな、現実世界側の。
店を一カ月近く空けるならエリーやアムリタに引き継がなければならない……。
その後でお願いできるかな?」
「そうね、それでも良いわ。
私もアルンに簡単な書置きしかしていないしね。
では戻りましょう」
ラビナはジュニアに背を向け、ゲートに向かい歩き始める。
「ちょっと待って。
せっかく来たのだから、少し夢幻郷を案内してよ」
ジュニアはラビナを呼び止める。
ラビナは振り向き、少し考える。
「なら、この丘を登りましょう。
多少眺望が開けているから」
ラビナはゲートの上の岩山の上を指さす。
ジュニアは、ありがとう、と言って歩き出す。
ラビナはジュニアの後ろを歩く。