第一章第一話(三)後見人
ジャックとアムリタがフォルデンの森から二キロほど走ったころ、周囲は急速に暗くなっている。
とは言え、東の空に満ちた月があり、月明かりで真暗と言うほどではない。
グリース草原に生える草は背丈が高くなってきて、アムリタの腰のあたりにまで達している。
「この先は川だ」
ジャックは走りを歩みに変え、アムリタにそう言う。
ジャックの言うとおり、水の流れる音が背の高い草々の向こうから聞こえてくる。
ジャックは握っていたアムリタの右手を離すべく左の掌を開く。
アムリタはジャックの左手を握ったまま離そうとしない。
「えへへへ」
妙な笑いかたをするアムリタにジャックは恐るおそる、もう良いよ、と促す。
アムリタは名残惜しそうにジャックの左手を離す。
「逃げきれたの?」
「化け物は森の奥に移動したようだ」
ジャックは森に向かって左方向を指さす。
「化け物は何か大型の動物を追っているようだね。
大きめの猿かもしれない。
逃げ遅れたのか……、二匹が逃げている」
ジャックは人工衛星からの俯瞰映像を確認する。
既に闇につつまれ、可視光では結像しない。
受像周波数を赤外線領域まで下げれば逃げている動物を認識できはする。
しかし、今は人工衛星の姿勢や角度の条件が悪い。
森の木々に隠れ逃げ走る動物が何であるかは明確には判らない。
災害のようなあのクリーチャーは依然として去ってはいない。
運の悪い哀れな逃げ惑う獲物達の後ろの木々が激しく爆ぜてゆくのがジャックの人工衛星の赤外線映像で分る。
「あの化け物はジャックを追ってきたの?」
「いや違う……と思う。
アレは時を操る魔法の行使、多分君が時を超えてきたから現れた。
時の猟犬は時の秘密を覗くものを破滅させると言われている。
こっちに来ないということは言い伝えも当てにならないね。
考えてみれば逃れられた人が存在するから言い伝えが残っているわけか。
意外とあっさりと逃げられて良かったね」
「犬ってイメージではなかったのだけれど。
どっちかって言うと芋虫?」
「ああ、猟犬って言っても犬とは無関係だよ。
時を操る魔法を嗅ぎつけ、執念深く追いかけて追い詰めるので付いた冠さ。
形状はもっとシャープなものといわれていたんだけれどね」
ジャックは首を捻りつつも、あまり気にしていないようだ。
アムリタは、ふうん、と頷く。
「時を操る魔法……、私をこの時代に跳ばした人たちは確かにいるのでしょうけれど、私には良く分からないのよ」
アムリタはいかにも残念そうに呟く。
ジャックは無言でアムリタを見る。
「そうね、私をこの時代に跳ばした人たち、彼らは恐らく私を逃がそうとしたのね。
彼らもあの化け物に会ってしまったのかな?
森の外の山並や風景は私の知っているものとそう変化は無いのだけど、私の居た森の広場は無くなってしまっているわ。
広場にあった集落の石造りの建造物は全て無くなっちゃった。
たった二百年で石造りの建物が跡形もなく無くなっちゃうものなのかな?
みんな無事だったのかな?」
アムリタはそう言って黙る。
ジャックも返答できずにいる。
無事であろうが無かろうが、二百年の時は無情にも、アムリタの家族、友人知人達を等しく過去の人にしてしまっているからだ。
「この先の川はここからでは泳いでしか渡れない。
しかも川岸は湿地で背の高い草が生えていて歩きにくい。
川下に行くと川幅は広がるが浅瀬があって渡れる。
街に行くなら本当は川下なんだが、そっちにはあの化け物が移動しているから……、川上に行こう。
ここから二キロほど行けば岩場になっていて、確か川を渡れるはずだ」
ジャックはアムリタにそう提案し、来た道から見て左に歩き出す。
「ジャックは街に行くの?」
アムリタもジャックに付き従いながら問う。
ジャックは一瞬、間をとる。
「……そう、まず君を安全な所に連れていかないとね」
はて、とアムリタは考える仕草をする。
「今の私には安全ってどういうことか判らない」
アムリタは微笑みながらそう言う。
ジャックも安全という言葉の定義を考える。
単身二百年未来に跳ばされ、生きてゆくのが大変なことは想像に難くない。
ジャックは奇妙な既視感を持って思い出す。
自分もこの世界に来たときは単身だったことを。
そして、かけがえのない人達に出会い、そしてその人々の助力により生き残ってこられたことを。
「ジャック、私を用心棒に雇わない?
あの化け物を倒すのは無理だけど、相手が人ならば私、そこそこ強いよ?」
アムリタは落ちていた枝を拾い、振り抜いてみせ、どう? というようにアピールする。
なるほど太刀筋はなかなか鋭いものがある。
ジャックよりは強そうだ。
「戦士だったの?」
ジャックは興味が出てきたので問う。
「そうそう、戦士……、兼、巫女?」
アムリタはどちらも見習いだけれどねと言い、てへへ、とはにかみながらそう応える。
「巫女には見えないが……。
戦士と巫女って両立するものなのかい?」
ジャックは笑う。
そういえば、この川の遥か上流に風の谷の祭殿があったか、ジャックはかつて訪れた所縁の場所を思い出す。
風の谷の祭殿からの声、ジャックを助け導いてくれたものの一つだ。
この少女との出会いもあながち偶然ではないのかもしれない。
そう考え、ジャックの心は決まる。
「心配要らない。
僕が今日から君の後見人になろう」
ジャックはアムリタに対しそう宣言する。
アムリタの顔から笑みが消え、大きな目を見開き、絶句する。
「少なくとも君がこの時代に居るかぎり」
ジャックは言葉を続ける。
アムリタは言葉を返せずにいる。
なぜ後見人になってくれるというのか、その真意を図りかねている。
「残念ながら、今は、僕は成すべきことがあるので、僕が直接君の面倒をみることができない。
だから君を僕の協力者達に預けることにする」
ジャックはアムリタの反応を無視して続ける。
「大丈夫。
彼らは君と歳が近いから直ぐに仲良くなる。
そして彼らを巻き込み、君がこの時代に来た意味を探すと良いよ。
彼らもまた成すべきことがあり、仲間が必要だから。
アムリタ、僕は君が彼らと良い仲間になると思うよ」
ジャックは優しくアムリタに語りかける。
かつてジャックが語りかけてもらったときのように。
「ジャック、貴方は私を導いてくれるのね。
最初に会ったのが貴方で私は幸運だ」
アムリタは碧色の瞳に涙を溜め、しかしジャックをまっすぐ見ながらそう言う。
「私は二百年を超えて、良い人に巡り合えた」
アムリタに笑顔が戻る。
「誰にでも良い人であるわけではないよ。
アムリタ、君の境遇がかつての僕に似ているからだ」
ジャックも笑い返す。
「その口説き文句に女はコロリと落ちてしまうわけね」
明るい顔つきでカラッと笑う。
アムリタの目には既に涙は無い。
「落ちる必要はないさ。
アムリタ、君は持ち前の図々しさでこの時代を逞しく生き抜けば良い」
アムリタの軽口にジャックも軽口で応酬する。
「そう、私は図々しいんだ。
逞しく生きるよ!」
「うん、その調子」
ジャックは笑う。
もはや夜の帷は下り、フォルデンの森は背景の山並みに隠れ、視認することはできない。
とは言え、真暗というわけでもなく、東の空の月が光害となって星はあまり見えていない。
ジャックは五月の東の空に一際眩しく輝く星の方角を見つめる。
春の大三角形と呼ばれる星座の右下に位置するアークトゥルスの方角だ。
僕がこの時代に来た意味を僕は見つけられただろうか、そうジャックは考える。
その時――
――ターン、ターン……
――ターン
三発の音がフォルデンの森の方向から聞こえてくる。