第一章第三話(九)最も重要なこと
――ドクン!
――ドクン!
激しい陣痛がエルザを襲う。
脂汗が噴き出てくる。
有りえない! 有りえない! 有りえない!
この状況のすべてが有りえない!
エルザは混乱の中にいる。
エルザは静かに夫と二人で子供を産むはずであった。
エリーが来てくれたので、安全なお産になるはずだった。
それなのに! それなのに!
トニーは古きものの手によって肉塊となってしまった。
エルザは古きものの眷属に追われながら、ロキというクリーチャーの背で出産に挑もうとしている。
なぜだ?
エルザには理解できない。
理解したくない。
ただ、ロキの、蜘蛛の背中は、たしかにエリーが言うように心地よい感触だ。
上質なベッドのように適度に硬く適度に柔らかく、そして温かい。
エルザには凄く長い間に感じる。
エリーが何か言っている。
しかしエルザには現実感を持って聞こえない。
ただ、激しい痛みに合わせていきむ。
いきむ。
いきむ。
すべてが夢のように感じる。
エルザの開く足の間に跪くエリーのエルザの左手を握る右手だけが、エルザにとって実感を伴う。
いつの間にかロキは逃げるのを止め、触手のクリーチャーに向き直って腕を顔の前で水平に平行に上げ、防御の姿勢をとっている。
触手のクリーチャーの打撃のたびにロキの両腕から眩しい閃光が放たれる。
ロキは耐えている。
激しい振動がエルザにも伝わってくる。
エリーは左手を動かし続け、空中に光る文字を連ねている。
エルザは思い出す。
エリーは言った。
胎児の頭は自然に産み落とされるには大きすぎる。
胎児は頭蓋骨を滑らせ、頭を変形させ、狭い母親の産道の形に合わせて潜り抜けて、文字どおり命懸けで生まれてくる、と。
エルザにはそれがどういうことか正に今体験している。
この子の頭が通り過ぎるには私の産道はあまりにも狭い。
頼む、頼むから出てきておくれ。
エルザは声にならない声で叫ぶ。
エリーはエルザに向かい、何か叫んでいる。
しかしエルザには聞こえない。
聞こえないが、大丈夫!
大丈夫だから、お願い!
――ホギャ! ホギャー!
エルザの聴覚が戻る。
甲高い声だ。
エルザには最初誰の声なのか判らない。
判らないがこの声を聴くと乳が張ってくる。
エリーは下着姿になり、エルザの足の間で作業をしている。
そして着ていた白いワンピースで赤子をくるみ、抱え上げる。
「ロキ!
もういい!
逃げてくれ!」
エリーの声が飛ぶ。
ロキは右手をガードに残したまま左手を大きく素早く繊細に後ろに回す。
左手を背中の者たちが落ちないように添えながら、体を大きく右に跳ばす。
「がんばったな、エルザ!
君とトニーの子だ!
女の子だ!
この子に乳をやってくれ!」
エリーは揺れる蜘蛛の背の上で、エルザにワンピースでくるまれた赤子を渡す。
エルザの腕の中に抱かれた赤子は真赤な皺くちゃな顔で激しく泣いている。
エルザは襟口から左の乳房を出し、赤子の口を乳首に誘導する。
赤子は泣くのを止め、エルザの乳首に夢中で吸い付く。
エルザは左の乳房の乳腺に母乳が走り抜けてゆくのを実感する。
「初乳を与えられたこの子は幸せだ。
君の免疫で護られる」
エリーは厳かにエルザに言う。
――バシーン!
――バシーン!
クリーチャーの触手の攻撃は容赦無くロキの体に降りかかる。
エリーの護りの魔法が発動しているとはいえ衝撃が伝わってくる。
「君の質素な食生活で適切に維持された腸内細菌はこの子にも受け継がれる。
母乳だけでも問題なく育つはずだ」
恐ろしい触手のクリーチャーの攻撃を背景に、エリーは優しい微笑を浮かべながらエルザに言う。
「切れた会陰は修復しておいた。
瘡蓋のようなものが付いていて違和感があるだろうが、明日の朝には取れる」
エリーのレクチャーは続く。
エリーの左手は下にダラリと下げられ、掌は黒い霧に包まれる。
「食べ物はロキに採ってきてもらうが良い。
ロキは優しい奴だから君たちを助けてくれるだろう」
エルザは疲れ果てている。
しかし、エリーがなぜ今、そんなことをエルザにレクチャーしているのか判ってしまう。
エリーが今からしようとしていることが判ってしまってもいる。
なぜエリーはこんなにも死にたがるのか?
「食べ物には必ず火を通すのだ。
野菜とはいえ必ずだ」
微笑みを湛えるエリーの表情とは裏腹に、エリーの左手の黒い部位はどんどん拡大してゆく。
いくつもの銀色に発光する禍々しい図形が現れては消え、現れては消え、激しく短い閃光が続く。
エルザは、愚かな妹を持つ姉の気分とはこういうものか、と苦笑する。
赤子は乳を飲み終えて落ち着いている。
新生児にしては豊富な母親譲りの真黒な髪は羊水に濡れて頭皮に張り付いている。
大きなつぶらな濃い茶色の瞳でエルザを上目使いで見つめている。
エルザは我が子の顔を記憶するべく凝視する。
ごめんなさい! ごめんなさい! ごめんなさい!
おかあさんを許してね!
エルザは心の中で叫ぶ。
エルザは赤子に魔法の封印を施す。
一つ、二つ、三つ。
この子の三つ目の封印が外れることがあるのだろうか?
エルザはそれを確認できないことが悲しい。
その間にもエリーの魔法は完成してゆく。
でも間に合った。
「疲れたの。
この子を抱っこしてもらえるかしら」
エルザは白いワンピースに包れた赤子をヒョイとエリーに差し出す。
その勢いは速く、新生児を受け渡すにしては気軽に過ぎて、エリーが受け取らなくては赤子が落ちてしまいそうであった。
エリーは、え? という顔をしながらも反射的に赤子を両手で受け取ってしまう。
エルザはエリーの思惑を潰すことに成功し、満足する。
「この子の名前はエリナ。
エリナ・アイスナー。
貴女の名前から貰ったわ」
エルザはやつれた顔で、それでも精一杯の笑みを作り、エリーに宣言する。
エルザはエリーに伝えなければならない最も重要なことを伝え終わった。
赤子は、エリナはまっすぐな濃い茶色の大きな焦点の定まらぬ瞳でエリーの顔を見つめ、微かに笑う。
エリーはエリナの笑顔を見てしまう。
エリーがエルザから目を離した瞬間、エルザはエリーの前から消える。
エリーはエルザを見失う。
暫くの後、霧の奥からエルザの叫び声が聞こえる。
「古きものの眷属よ!
我が敵よ!」
触手のクリーチャーも動きを止める。
声のするほうを確認するように複数ある蚯蚓のような頭を動かす。
そして方向を変え、再び早い速度で動きだす。
「私はここだ!」
エルザは詠唱を行いながら空中に二重の円と内側の円に内接する五芒星を描く。
そして二重の円の間に文言を綴ってゆく。
図形は銀色に輝き、空間を歪め、その直下に人が一人通れるくらいの白く発光するゲートが現れる。
エリーはエルザの意図に気付き、エルザのほうに跳ぶ。
「エリー!
その子をお願い!
貴女に出逢えて良かった!
貴女が居てくれて良かった!
貴女たちに加護と祝福あれ!」
「早まるな!
その体で動くと死ぬぞ!」
エリーは必死にエルザの元に駆け寄ろうとする。
「このお護りの紙、使わせてもらうわね」
エルザは首に下げていた小袋の中の紙を開き、右手の人差し指で二番目の文言をなぞる。
エルザの周囲は鈍く光る。
続いて三番目の文言もなぞる。
「エルザ!」
エリーとエルザの間には触手のクリーチャーが居る。
エルザはゲートの中に消える。
それを追うように触手のクリーチャーはゲートの中に入る。
「エルザー!」
エリーがゲートの中に踏み込もうとした瞬間、ゲートは閉じ、後にはなにもない空間となる。
「エルザ!
なんで君は、君たちは私の言うことを聞かないのだ!」
エリーは天を仰ぎ見て咆哮する。
初めて、エリーの顔に激しい怒りの表情が浮かぶ。
ロキが心配そうにエリーの後ろに佇む。
――ホギャー! ホギャー!
エリーの大きな声に反応してエリナはエリーの腕の中で泣き出す。
「すまない。
もう大きな声を出したりしないよ。
大丈夫。
大丈夫だから。
……今から私が君のおかあさんだよ」
エリーはエリナを万歳させるように右の肩にのせ、背中を摩る。
ゲフ、という大きなげっぷの音がエリナの口から発せられる。
エリナの泣き声は小さなものになり、口で乳首を探す素振りをみせる。
「今日は砂糖水で我慢しておくれ。
明日になれば乳を飲ませてあげられるから……。
ロキ、すまないが乗せていってくれ。
私も温もりが欲しいんだ……」
ロキは蜘蛛の足を曲げ、身を低くし、背中に乗るように促す。
エリーは下着姿のままロキの蜘蛛の背中に腰かけ、猿の背の根元付近まで腰をずらしながら進む。
蜘蛛の背の中央部分はエルザの羊水と血で茶色く濡れている。
エリーとエリナを乗せたロキの姿はゆっくりと霧の中に消えて行く。
第一章 第三話 きみが生まれた日 了
続 第一章 最終話 あなたの右目をください