第一章第三話(八)蚯蚓(みみず)の怪
リビングにある外へのドアは激しく外から揺さぶられている。
エリーは静かに立ち上がる。
エリーが手を翳すとエリーの周囲の空間が光だす。
エリーはエルザに離れるようにジェスチャで示すとドアに近寄り、無造作にドアを開ける。
そこにはトニーが立っている。
いや、トニーと言えるのだろうか?
トニーの下半身には元は犬であったらしきものが融合して付いている。
犬たちは口を開き、エリーを威嚇する。
『いあいあ!
えるぐすらとら!
ふたぐん!』
トニーは焦点の合わない目をして、奇妙な言葉を叫ぶ。
そして両手を広げてエリーを抱きしめようとする。
しかしトニーが抱きしめたのはエリーの周りの空間だけであるようだ。
ガキン! という硬質な音が発せられ、トニーの手は弾かれる。
「嫌!
トニー!」
エルザは悲鳴を上げる。
「トニー、怖いだろう。
すぐに助けてやるからな」
エリーは憂いを湛えた表情でそう言いながらトニーの体に両腕を回し、トニーを抱きしめる。
トニーは両手を振り上げ、激しくエリーを打ち付けようとするが、エリーは動じない。
エリーに動きを封じられているようだ。
エリーはトニーを見ていない。
エリーはトニーの体の後ろに連なり、長く伸びる触手を見る。
そして霧の奥に潜み蠢くクリーチャーを見る。
クリーチャーは霧の中で幾匹の細長い蛇のようなものが絡み合っているように見える。
「なるほど、蚯蚓だ。
でも幸いなことに一部だ」
エリーはダラリと左手を下にさげる。
エリーの左手が黒い霧を発しながら黒ずんでゆき、その面積を広げてゆく。
エリーの左手からはいくつもの銀色に発光する禍々(まがまが)しい図形が閃光のように瞬きながら現れては消える。
エルザは気付く、霧の奥のクリーチャーにエリーは生贄の魔法で対抗するつもりだと。
生贄の魔法は大規模なもののはずだ。
しかしエリーによる魔法は無詠唱のまま異常に速い速度で構築されてゆく。
間に合うか!
エルザはトニーとエリーの間に跳び、トニーからエリーを引き離す。
続いてエリーを抱えて再度空間を跳ぶ。
遠くへ。
霧の奥、家から離れた場所に。
「エリー!
エリー!
……トニーはもうだめよ!
だめなの!
ああなって元に戻ったものはいないのよ!」
エルザは泣きながらエリーに言う。
「父も母もああなってしまった。
私たちはあの蚯蚓の化け物に狩られる運命なのよ」
エルザは空間の跳躍を幾度か繰り返す。
そして止まり、地べたに座り込む。
エリーは跪きエルザを抱擁する。
「この穴は閉じても良いか?」
エリーはエルザに訊く。
ここはエルザが開けた穴のある場所だ。
エルザの開けた穴は、再び銀色に光る二重の円に接する五芒星が浮かび上がっている。
二重の円の間には弧状に掠れた文字が滲んで浮かんでいる。
「ええ、閉じてちょうだい」
エルザは観念したように呟く。
「元の時に戻りたがっていたのはトニーなのだから。
私はトニーがいれば良かっただけ……」
エルザの流す涙は黒い湿った土に落ちる。
エリーは右手を翳し、空中に浮かぶ五芒星を消す。
空間の歪と光は消え、ただの空間に戻る。
『いあいあ!
えるぐすらとら!
すとら!』
トニーの声の、トニーの声とは思えない声が、犬の呼吸音のような音とともに突然聞こえてくる。
見ると霧の奥にかつてトニーだったものが現れる。
トニーの下半身は軟体動物のように長く伸び、体が二メートルの高さまで持ち上がっている。
このクリーチャーは空間を跳ぶようだ。
「ああ、トニー……」
エルザは座り込んだまま動けない。
エルザの座り込んだあたりが濡れている。
「破水?」
エリーはエルザを抱き上げて空間を跳ぶ。
「ロキ!
ロキー!
来てくれ!」
エリーはなにも無い空間に向かい、叫ぶ。
――グアォオォ!
遠くで獣の咆哮する声がする。
程なく、エリーが断続的に空中を跳ぶのと並走するように、上半身が巨大な猿、下半身が巨大な八本足の蜘蛛であるクリーチャーが現れる。
「ロキ!
ありがとう!
背中を借りる!」
エリーはエルザを連れてロキの背中まで空中を跳ぶ。
ロキは上半身の太く長い毛むくじゃらな左手を後ろに回し、二人が落ちないように支え、走る。
エリーが右手を翳すとロキの周りの空間が鈍く光り出す。
直後、蚯蚓のクリーチャーが走るロキの後ろに現れる。
その触手の一本の先に、かつてトニーであった肉の塊が付いている。
『いあいあ!
るぐすらとら!
える!』
肉の塊から発せられる声は既に人間のものではない。
ペチャッ、ペチャッ、というなんとも悍ましい音が常に聞こえる。
エルザは腹を抱えて蹲る。
エリーはエルザをロキの背中の上に寝かせる。
エルザの顔は苦痛に歪んでいる。
「エルザ、すまないが内を診せてくれ!」
エリーはエルザの顔を見ながら言う。
エルザは目を閉じ、無言で頷く。
エリーはエルザのマタニティドレスを捲り、下着を脱がせ、指を使い、内を診る。
「エルザ、もう選択肢は無い。
ここで産む。
大丈夫だから。
陣痛を促進させる」
エリーは静かな笑みをエルザに向けそう言う。
ここというのはこのクリーチャーの背の上でということなんだろうな。
エルザは痛みの中考える。
エリーの左手は黒い霧を発し、エリーはその左手をエルザの腹に押し当てる。
エルザは険しく表情を歪める。
エリーは右手でエルザの左手を握る。
ロキは後ろに回した左手をそっとエルザの体の右側面に添える。
その状態でロキは触手のクリーチャーから逃げるべく木々の間を縫うように奔る。
――バシーン!
――バシーン!
――バシーン!
蚯蚓のクリーチャーの触手が大きく振り上げられ、ロキの尾部を叩き付ける。
叩き付けられた場所は激しく光を発し、やがて消える。
エリーの護りの魔法が発動しているのだ。
しかし都度、大きな振動が伝わる。
走る速度はロキが勝るが、クリーチャーは断続的に空間を跳び、距離を詰めてくる。