第一章第三話(五)妊婦検診
「三十五週くらいだね」
妊娠の週数の話だ。
エリーがエルザのところにやってきた二日目の朝食後、エルザは寝室でエリーの診察を受けている。
四十週目が出産予定としてあと五週程度という診立てをエリーはしたことになる。
エルザはロングスカートでベッドに仰向けになって足を開いて寝転がり、エリーの内診を受けている。
エリーは右手をエルザの下腹部に当て、左手の中指と薬指とを挿し入れ内を診る。
「未だ子宮口は閉じている。
子宮口の厚さは薄くなってきているね。
子供の心音も元気だし発育も良好。
君のバイタルにも問題は無い。
再来週以降いつ生まれても正常の範囲内だね。
次は一週間後に内診を行い、様子を見る」
エリーは桶の水で手を洗いながらエルザに診立てを告げる。
「それより、逆子だ。
四つ這いになって頭を下げてくれ」
エリーはエルザが上体を起こすのを助けながら言う。
エルザは言われるままベッドの上で膝と肘をつき、肩を下げ、腰を上げる。
エリーはエルザのロングスカートの乱れを直す。
「そう、そのまま背を反らして。
いくよ」
エリーはエルザの腹を両手で持ち上げるように摩る。
するとエルザの腹の中で、胎児がズルリと大きく回転するように動く。
「わっ!
動いた!」
エルザはここまで大きく腹の子が動くのは初めてだったので驚く。
「逆子の状態がこの子にとって自然な体勢だったのだよ。
それを居心地の悪い状態にしたから動いた。
今は逆子ではなくなっている。
放っておくとまた逆子に戻るかもしれないので、これからは日に何回かはこのポーズをして安定させてくれ」
エリーが指示するのは逆子にならないようにするポーズであるらしい。
「逆子のまま出産していたら危なかったのかしら?」
エルザは恐るおそる訊く。
「大丈夫さ。
私がいれば例え、逆子だったとしても取り上げてやれる。
腹を少し切ることにはなるけれどね」
問題はない、と微笑むエリーの物騒な応えにエルザは竦む。
エリーが居ないまま出産していたらやばかった。
エリーが居てくれて良かった。
エルザの血圧が上がる。
だけど腹を切るってどういうこと?
ここで帝王切開の手術をするということ?
エルザはエリーの底知れなさに恐れをなす。
「逆子でなくても母子何れかの状態が危険であれば、腹を切って取り上げるよ。
切ると言ってもほんの少しだ。
痛くないし傷も残さない。
通常の帝王切開の場合、二人目以降も切ることになってしまうが、私の術ならば二人目を正常分娩できる場合が多い」
エリーの淡々とした説明にエルザは頭がクラクラしてくる。
なんなのだ、この人は?
「お願いするわ」
エルザは辛うじて応える。
しかしエルザにはエリーがどんどん判らなくなる。
エリーに腹を切られないで済みますよう。
エルザはそう願わずにいられない。
腹の子がポコポコとエルザの腹を内側から蹴る。
腹を支えているエリーの手に抗議しているかのようだ。
「おや、元気だね、きみ。
早く出ておいで。
おかあさんとおとうさんが待っているよ」
エリーは微笑を湛えながらエルザの腹の子に囁く。
診察が終わり、エルザはリビングに居る夫に報告する。
エリーは水を張った桶やタオル、敷布を片付けて、何かの本の余白部分に記録を付けているようだ。
「あと五週が予定日ですって。
でも再来週以降ならいつ生まれても正常の範囲内だとか」
「なに?
再来週?
準備を急がなければなぁ」
トニーは慌ててそう言う。
エルザには準備なんてエリーが過剰なまでに済ませてしまうのだろうとしか思えない。
エルザの予想どおり、エリーは過剰な準備を始める。
可哀想に犬たちは、馬小屋の奥の半分をエリーに強奪されてしまった。
エリーは馬小屋の奥に炭焼き用の窯、煮炊き用の竈を作り、ガラス瓶を熱し様々なガラス容器を吹き作成する。
そして、木桶とガラス容器で化学プラントを作成する。
酒を蒸留しアルコールを精製する。
岩塩から塩化ナトリウムを精製する。
塩化ナトリウムを水酸化ナトリウムと塩素に分離する。
更に水と塩素からイオン交換膜により塩酸を合成する。
薄い塩酸水溶液と塩化ナトリウムから次亜塩素酸を合成する。
アルコールは蒸留水で希釈して消毒薬となり、水酸化ナトリウムは脱脂用洗剤、次亜塩素酸は漂白殺菌剤となる。
エリーは古い掛け布団を解体し中の綿花と布を水酸化ナトリウムの水溶液で煮て脱脂する。
茹で上がった綿花と布を次亜塩素酸水溶液で再度煮て漂白殺菌し、脱脂綿とサラシにする。
脱脂綿の一部は希釈したアルコールにひたし、アルコール綿とする。
エリーは二日間ほどこれらの作業を行ったのち、今度は使っていない包丁、鋏、金属串などを加工しだす。
どこからか用意したハンマーで打ちつけ、変形させ、焼き入れをし、砥石で磨き元が何であったか判らない医療用の器具が次々に作られていく。
犬たちはその作業を怯えながら遠巻きにして眺める。
エリーはこれらの作業を炊事洗濯の合間に行い、いつもの微笑を絶やすことなくほぼ一週間で終わらせてしまった。
肌着やシーツ、布団カバーといったものの洗濯は、ここのところ馬小屋で煮て漂白し、竈の熱で乾燥させている。
魔女だ、エリーは魔女だ、錬金術師だ、エルザは心の中からそう思わざるをえない。
この知識量、訳の分からない深く広く満遍ない雑多な技術、作り出すものの数々、そのすべてがエルザの常識を凌駕する。
それ以前に、単に子供を取り上げるだけで、ここまでの前準備は絶対に必要ではないはずだ。
人間の赤ちゃんを取り上げるのにここまでの大げさな作業が必要だとしたら、とっくの昔に人類は滅んでいる。
実際のところ、エリーもできるからやっているだけだろう。
なにも無ければそれなりに対処できるはずだ。
趣味が入っている、エルザはそう看破する。
とは言え、清潔で洗い草臥れた柔らかいオムツが大量に手に入った。
さすがはエリー、有難う。
エルザはエリーに頭が下がる。
夕食後、トニーの淹れたお茶を三人で飲む。
エリーは新生児用の肌着を縫っている。
前合わせを紐で閉じる形のものだ。
縫代が外側にくるように縫うのがポイントであると言う。
少し前は外に連れ出す為のツナギの形をしたものも縫っていた。
「エリーはなんでもできるのね」
エルザは心底感心する。
ここまでできる必要はまったく無いと思うが、ここまでできる人間はめったにいまい。
ここまでできるのに、なんで会ったときはあそこまでボロボロの着衣であったのだろうか?
エルザは疑問に思うが、自分のためには努力しないタイプなのだろうと解釈する。
「新生児用の肌着など、型紙があれば誰にでも縫えるよ」
エリーは柔らかく微笑みながら応える。
そう言うエリーは型紙から自分で起こしている。
「出産に必要なものも揃ったし、サラシやオムツ、肌着も用意できた。
出産時に着る私達の白衣も用意した。
あとは母乳が出ない場合どうするかだが……。
母乳マッサージで出なければ状況が状況だけに、出産直前に無理やり乳腺を開いてしまおうかと考えている。
いいかな?」
自然に任せたほうが良いから普通ならばやらないのだけれどね、と付け加えながらエリーは訊く。
いいかな? と言われてもエルザには意味が判らない。
意味は判らないものの確かに母乳なしで赤子を育てるのは無理だと思う。
よろしくお願いするわ、と愛想笑いをしながらエルザは応える。
信じて大丈夫なんだよね?
エルザは心の中で祈る。
「なに、案ずることは無い。
人間の体なんてどうとでも弄れる。
私にかかれば例え、妊娠していない女であっても母乳を出させられる」
エリーは優しい笑顔を湛えながらとんでもないことを口走る。
「へ、へぇ、そうなの」
エルザはそう言いながら内心、本当に信じて大丈夫なんだよね? と縋るように祈る。
*1) エリーは逆子の矯正指導を行っていますが、あくまでもフィクションです。妊婦の腹を圧迫することは非常に危険ですので絶対にまねをしないでください。逆子矯正は信頼のおける産科院、助産院に相談してください。
 




