第一章第三話(二)人と動物を別(わか)つこと
「誰か腹の子を取りあげる者は居るのか?」
しかし、エリーはあくまでもエルザの出産に関して関心が移っているようだ。
「いいえ、私と夫で産むわ」
そう、私は夫と二人で子供を産む決心をしてこの空間にやってきたのだ。
エルザは決意を持って笑う。
「君は経産婦か?」
エリーの表情から微笑が消えている。
「いいえ、初産よ」
「君の旦那は医者か?」
「違うわ」
「母子ともに危険だぞ?」
「そうかしら?」
エルザとしてももちろん不安はある。
いや、不安だらけである。
もし可能であるのならば経験豊かな助産師に委ねたい。
しかし彼女の事情がそれを許さない。
「妊婦を脅すつもりはないのだが……。
私が取りあげようか?」
エリーは再び顔に微笑を浮かべるが、先ほどとは異なり、エルザを憐れんでいるようだ。
「貴女は赤ちゃんを取りあげたことがあるのかしら?」
エリーが、この黒灰色の髪を持つこの若い女が、見た目通りの年齢であるのならば、どれほどの人生経験を持っていようか?
エルザには疑問であった。
「ああ。
ある」
エリーの応えは短く強い意志を感じさせる。
「貴女はお医者様?」
エルザは、そんなはず無いだろう、と思いながら訊く。
この若い女が医者であるわけが無い。
よしんば赤ん坊を取り上げたことがあるにせよ、助産師の助手でもしたことがある程度であろう。
エルザはそう値踏みする。
しかし。
「そうだ」
エリーは即答する。
自信に満ちたエリーの返答にエルザは一瞬絶句する。
エルザはエリーの年齢を知りたくなる。
「さぞかし沢山の赤ちゃんを取り上げたのでしょうね」
エルザは冗談めかしてエリーに訊く。
エリーは優しげな薄い微笑を湛えたまま微かに、しかししっかりと頷く。
「あはははは、面白い人ね。
この世界には一人で来たのかしら?」
エルザは腹を抱えて笑う。
「そう。
ここへの穴は二人で開けた。
私だけでは開けられないので。
そしてそれぞれが別の穴を潜った。
だからここに来たのは私一人」
笑うエルザにエリーは特に気を悪くした素振りもみせずに落ち着いた優しげな言葉でエルザに応える。
「貴女はきっと私の親戚ね。
そうでなければこの空間に穴を開けるなんて芸当ができる訳ないもの」
この直交空間に自分たち以外の人間は居ない。
この直交空間への入り口を開けたのは、エルザの知るかぎり、エルザの家系のものだけだ。
だから、エリーがここに居ることが驚きなのだ。
エルザの家系は細く長く続き、あまり多くの親戚がいるとも思えない。
しかしエルザは自分の先祖の全てを知っているわけでもないので、ひょっとしたら傍流があるのかもしれない、と考える。
エリーが自分に似ていることをエルザは自覚している。
無論エルザは自分がエリーのような飛び抜けた美貌であるとは思っていない。
しかし、二人を並べると同じ家系であると思うものも居るだろう。
その程度には似ている。
「貴方の開けた穴はどこにあるの?」
エルザは訊く。
中途半端に開けた穴はこの世界に災厄を招き入れる。
「ここからはかなり離れている。
中から閉じたので今はもう無い。
元の時に戻る必要は無いから」
エリーは涼しい顔でそう応える。
エルザは驚く。
元の時、元の世界に戻る用意なくこの世界に来たことが、彼女の常識からかけ離れていたからだ。
穴を閉じてしまうともう元の時間には戻れない。
エリーはこの空間と現実世界を自由に行き来できるのだろうか?
それとも、時空を放浪することが怖くないのだろうか?
「貴女はここに何をしに来たの?」
エルザは核心を訊く。
この直交空間に目的も無く来るはずがない。
「私の目的は既に達せられている。
この直交空間の住人に会いにきたのだよ」
エリーは優しい微笑を湛えながらエルザに応える。
やはりそうか。
エルザは身構える。
直交空間の門番に近づき、この空間を支配するか、もしくは時間を支配するか、その何れかであろう。
「私はここを通って最低二回過去に跳ぶ。
目的でも予測でもなく観測事実として。
そして今はその最初の試み」
エリーは続ける。
エルザにはエリーが何を言っているのか判らない。
「とは言え、今はもう次の目的を見つけた」
「と言うと?」
エルザは釣られて訊いてしまう。
「エルザ、私がここに来た理由は君が無事に出産できるよう手伝うためだね」
「あはははははは、貴女は面白い人ね」
エリーの応えにエルザは思わず吹き出す。
「君はそうやって笑うが、エルザ、君は出産を舐めているとしか思えない」
エリーは微笑を湛えながらエルザを見上げて言う。
「初産で、介助者なしで、元気な赤子を無事出産できる確率など楽観的に考えても五分だぞ?
出産の際に産道が十分広がらなかったらどうする?
逆子だった場合どうする?
心肺停止で生まれてきたらどうする?
臍の緒の処理はできるのか?
出血が止まらなかったらどうする?
「発達した脳と二足歩行。
人間を人間たらしめているこの二つの性質のため、人間は動物が普通にできる出産を自力ではできない。
長い時間をかけて育つ胎児の頭は自然に産み落とされるには大きすぎる。
そして母親の産道は二足歩行の為に発達した太腿の筋肉が腸骨を下から蓋をして著しく狭い。
「胎児は頭蓋骨をずらし、重ね合わせ、頭を変形させ、狭い母親の産道の形に合わせ潜り抜け、文字どおり命懸けで生まれてくる。
人間の出産には正しい知識と正しい技術を持った介助者が必要なのだよ」
エリーの出産に関する語りに、エルザは毒気を抜かれる。
まさかこの空間で、霧の中で出会った見知らぬ女から出産に関しての講釈を聞くとは予想だにしていなかったからだ。
「悪いことは言わない。
私に任せなさい」
そう言って、エリーはゆるりと立ち上がる。
エリーの背はエルザより顔半分高い。
エリーはエルザの左を通り過ぎる。
一連の動きがあまりにも自然であったため、エルザはエリーが真横を通り過ぎるまで何もできない。
「何れにしろ、霧の中、長いこと外に居るのは身重なものには毒だ。
行こう」
エリーはエルザの横を通り過ぎながらエルザのほうを見ずに言う。
「って、え?
どこへ?」
エルザはエリーのほうに振り向き、エリーを追いながら辛うじて訊く。
「君の家だよ。
赤子を産むために用意したのだろう?
そこに私も泊めてくれ」
エルザはエリーの図々しい申し出にまたも絶句する。