第一章第一話(二)時の猟犬
ジャックは手を振り払われた場合に備えて、人工衛星の状態を確認する。
最も近い人工衛星は頭上を西南西の方向に離れていきつつある。
後続する人工衛星が東北東の空から近づきつつあるがやや角度がある。
人工衛星は全部で十六あり、二十二度づつずれた軌道を概ね等間隔で周回しているが、使える人工衛星はこの二つ。
しかし最近は地上監視を繰り返していたため、太陽光蓄電池の充電率は共に六十パーセント程度。
ジャックの切り札は撃てて合計二回が限度。
人工衛星の姿勢を変えるべく彼の右目を使って指令を出す。
見た目にはジャックの隠れた一連の作業は見えない。
しかし結果的にこれらジャックの影なる努力は不要なものとなる。
少女は特に抵抗する様子も無く、ジャックに右手を任せる。
ジャックは、失礼! と呟きながら森から離れる方向に少女の手を曳き、走り出す。
少女がジャックとともに森を後にするのを合図にしたかのように、森は鳥や小動物の激しい鳴き声で喧噪につつまれる。
――ギャァ! ギャァ! ギャァ!
鳥たちは警告音で仲間に危機を伝える。
森の上空には鳥たちが森から飛びたつ。
どこに隠れていたのか、リスや兎、狐といった動物たちが森から一目散に離れていこうと駆け出している。
隠れている選択肢は無い。
野生の本能が彼らを逃走に駆り立てる。
「うわ。
凄い」
少女は周囲の変化に驚き、呟く。
ジャックは左手で少女の手を曳く。
そして右手にアタッシュケースのような鞄を持ちながら森を背に低い草々の生えるグリースの草原を走る。
――バチッ、バチッ、ブゥウーン
弾けるような音が後方で鳴り、黒い煙が湧きたち、青い暗い光が現れる。
――バチン!
青い光は一瞬で掻き消え、その後に紫色の光が空間一帯に数多く明滅する。
明らかに何か、悍ましい存在が出現しようとしている。
「何なに! 凄い大きな化け物が出てきたわ!」
少女はジャックに手を曳かれながら後ろを振り返り叫ぶ。
巨大な蚕蛾の幼虫のごとき形状の体躯に、海老や昆虫の足に似た触手の大小が無数に生えているクリーチャーの姿が、黒い霧の中、紫色の雷光に照らされ見え隠れする。
ジャックも走りながらチラリとクリーチャーを一瞥する。
しかしすぐに前を見る。
「見るんじゃ無い。
アレに認識されたら危ない」
ジャックは少女に警告する。
声は大きいが口調は柔らかい。
「アレはなんなの?」
「……古きものだ。
時の猟犬」
ジャックは走りながら応える。
しかし伝え聞くのと随分と形状も印象も違うな……、ジャックは付け加える。
「やっつけることはできないのー?」
走りながらも少女の質問は止まない。
「アレを?
今の僕たちじゃ無理だな……。
君、少し……」
「アレを使っても?」
「――!」
少女はジャックの言葉を遮りながら問う。
少女の左人差し指は夕焼けの上、藍色に染まる南南西の空にゆっくりと動く小さな光を指している。
少女に黙ってもらうよう頼もうとしていたジャックは、少女が指さした先を見ながら驚きのあまり一瞬言葉を失う。
「アレが見えるのか?」
地表から高度二百キロメートルで地球を周回する全長十四メートル程度の人工衛星である。
藍色の空を背景に沈みゆく太陽の光を太陽電池パネルが反射しているため、存在は認識できる。
しかし、アレがどのようなものか肉眼で認識するというのならば、その目は人外のものだ。
「見えるというか……。
見えたというか……。
ありえた未来として、おじさんがアレからの光の筋をあの化け物に浴びせていたわ!」
少女は走りながらそう叫ぶ。
ありえた未来、ジャックは心の中で少女の言葉を反芻する。
そうかそういうことか、ジャックは悟る。
ジャックに手を曳かれ、逃げる未来ではなく、ジャックの手を振り払うという未来。
「ジャックだ」
「えー?」
少女は意味が判らないというように訊き返す。
「僕の名前はジャックだ」
ジャックの言葉に、アムリタは合点が行ったように頷く。
「判った!
ジャック!
私はアムリタ!」
少女は大きな碧色の目でジャックを見ながら笑う。
この状況で笑うとは相当に図太い。
少なくとも表面上は。
そう考え、ジャックも笑う。
「うん。
アムリタ、それで、君のありえた未来とやらでは僕の光はあの化け物を倒せたのかい?」
走りながらジャックはアムリタに話の続きを問う。
「知らない!
その先は見ていないの!
怖いから!」
「なるほど」
その未来ではアムリタはジャックの手を払い除け、ジャックと距離をとる。
そしてアムリタは直後に現れるクリーチャーと対峙する。
ジャックは衛星からのレーザー照射攻撃を行うという筋書きになるようだ。
話が本当ならば、アムリタは自らの都合の良い未来を選択できることになる。
「ねぇねぇ、ジャック!」
「なんだい?」
アムリタは嬉しくて堪らないというようにジャックに呼びかける。
「男の人に手を曳かれながら逃げるというシチュエーション、かなりグッと来るんだけれど!」
アムリタは満面の笑みでジャックにそう言い、ジャックの思索を吹き飛ばす。
「そりゃあ良かった。
しかししばらく黙ろうか」
ジャックも走りながら応える。
面白い娘だ。
ジャックも自然と笑みが浮かぶ。
ジャックは人工衛星の姿勢を再び変え、衛星軌道からの俯瞰カメラをフォルデンの森付近に向ける。
背後にいるはずの巨大なクリーチャーはカメラには映っていない。
既に役に立たなくなりつつある可視光画像から赤外線画像に切り替えても同じである。
ただ、紫色の放電のような光の明滅と、森の入り口付の輪郭が変わっていることが確認できる。
木々は失われ重機で削ったように地面が抉られている。