第一章第三話(一)直交空間の魔女
笛の音が聞こえる。
笛の音は、優しく寂しげなメロディを奏で、遠く霧の奥から聞こえてくる。
誰かが笛を吹いている。
そのことにエルザは大きなお腹を摩りながら驚く。
ここが通常の世界であればこれほど驚かない。
しかしここはエルザと彼女の夫の隠遁の場所だ。
エルザが彼女と夫の子を産むために選んだ誰も来られないはずの場所なのだ。
深い霧が立ち込め、視界は二十メートルほどしかない。
森と言ってもよいのだろうか。
下生えは全くない。
黒い湿気を帯びた土の上に木々が点在している。
木は高く枝を広げてはいるが、その上は霧に包まれていてよく見えない。
空は真白で太陽と思われる弱々しい光が木々の枝から漏れてくる。
エルザは笛の音が聞こえてくる方向を見る。
エルザはフード付きの黒いマントを着てはいるが、フードを頭に被ってはいない。
黒く長い艷やかな髪はマントの外に流れるように揺れ、白い顔を更に白く浮き上がらせる。
エルザの顔は二十代後半に見える。
茶色の瞳と紅を引いた形の良い唇は艶やかで印象的な顔立ちを作っている。
エルザはマントの下に淡いピンク色のマタニティドレスを着ている。
ロングスカートがハイウエストから大きなお腹を超え、足元まで続く。
夫にはあまり家から離れないようにと言われている。
しかしこの笛の奏者の正体を調べなければならない。
エルザは笛の音のするほうに向かって空間を跳ぶ。
笛の音が大きくなり、笛の奏者に近付きつつあることが判る。
方向は間違っていない。
エルザは続けて飛ぶ。
程なく、遠目に笛の奏者を見つける。
奏者は、大きな木の幹の根元にもたれるように木の根に座って笛を吹いている。
若い女だ。
女は斑なスモッグのような古びた着物を着ている。
女の寂しげなその横顔は驚くほど整っていて、さながら白磁の人形のようである。
なによりも驚くのは女の見る角度により暗い灰色から白銀まで変わる黒灰色の長い髪だ。
エルザは今までこのような髪の色を見たことがなかった。
エルザは注意深く黒灰色の髪の女から見て左やや後方となる位置に移動する。
女は陶器でできたフルートを奏でている。
珍しい左利き用のフルートだ。
女はフルートを吹くのを止めて座ったまま正面を向く。
女の正面に一匹のクリーチャーが近付いてきたからだ。
クリーチャーの上半身は太い二本の腕を持つ白い大型の猿に見える。
そして下半身は八本脚の蜘蛛のようであり、蜘蛛の頭の部分に猿の胴体が繋がっている。
蜘蛛に似た体躯は白地に黒の紋様となる体毛で覆われている。
女がクリーチャーに襲われる、助けなければ……、エルザはクリーチャーを値踏みする。
エルザは重いお腹を気にしつつも、黒灰色の髪の女とクリーチャーに速足で近づく。
しかし、クリーチャーの動きはエルザの予想に反して乱暴なものではなかった。
クリーチャーは上半身の右の腕に持っているものを、ゆっくりと黒灰色の髪の女に差し出す。
女はそれを木の根に座ったまま右手を伸ばし受け取る。
何かの果実の受け渡しをしたようだ。
エルザは歩みを緩め、ゆっくり女とクリーチャーに近づく。
クリーチャーはエルザを見る。
恐ろしい巨大な猿の顔。
しかし、クリーチャーはエルザから視線を外すと反対方向に駆け出し、霧の中に消える。
エルザは歩みを止める。
「こんにちは、私はエルザ。
貴女は誰かしら?」
エルザは左手を腰に当て、右手は木の幹にかけ、黒灰色の髪の女に声をかける。
黒灰色の髪の女とは距離約七メートル。
「……こんにちは、エルザ。
私はエリーという。
旅のものだ」
黒灰色の髪の女はエルザに顔だけを向け、応える。
相手を威圧しない柔らかな笑みを浮かべ、薄い灰色がかった水色の目を薄く開き、エルザを見つめる。
先ほどの寂しそうに見えていた印象は全く無い。
敵か?
敵ならば勝てるか?
エルザは、とりあえず有利な間合いでエリーを目踏みする。
「今の生物は貴女が使役しているの?」
先ほどのクリーチャーは明らかにエリーと名乗る女に懐いているようであった。
エルザの夫もクリーチャーを使役する。
同様の能力がエリーにもあるのではないかとエルザは予想する。
「使役……。
いいや、友達だよ。
なにも食べずに死にかけていたら、食べ物を持ってきてくれるようになった。
以来二年間、食べさせてもらっている」
エリーと名乗る女は手に持った果実を右手で軽く顔の高さまで持ち上げてみせ、失礼、と言って果実を皮ごと齧る。
「良い友達ね」
エルザは笑う。
笑うとエルザの顔は艶やかさを増す。
エルザは警戒をしながらも、三メートルの距離まで近寄る。
エリーの顔の細い黒灰色の眉は優美なラインを描き、薄い灰色がかった大きな水色の目も黒灰色の長い睫毛に縁どられている。
鼻梁は高すぎず低すぎず形の良い鼻を作り、赤い唇と真白な肌は化粧気が全く無くとも幻想的な美しさを浮き上がらせる。
頬のラインはもう少し肉付きがあったほうが良いかもしれない。
それでも全体としてちょっと有り得ないほど綺麗な女だとエルザは認める。
エリーの見た目は二十台前半であるが醸し出す雰囲気はエルザより年長者のものに感じられる。
エリーは特に座った姿勢を変えずにエルザの大きな腹に視線を移す。
「妊娠しているのか?」
エリーは問う。
「そう、ここには子供を産みにきたのよ。
近くに夫と住んでいるの」
「この世界で?」
エリーは間を取らずに続けて問う。
エルザはエリーがこの空間が通常の世界では無いことを知っていることを悟る。
単に迷い込んだというわけではなさそうだ。
「そう、この空間で」
エルザはエリーがどこまでこの空間のことを把握しているのか探るべく、短く応える。