第五章最終話(十一)就寝前の歯磨きを忘れずに
――崩壊歴六百三十四年七月十日午後一時
「そんなに気になるなら、一緒のリフトに乗ればよかったのに」
ジュニアは隣、副操縦士席に座るリリィに笑いかける。
リリィがバックミラーで後ろに続くリフトをじっと見つめていたからだ。
ジュニアたちは早朝、天の浮島から出発し、天垂の糸を登っている。
リフトは二機、辛うじて目視できる距離をとって進む。
先行するリフトにはリリィ、ジュニア、エリーが乗っている。
後続のリフトにはソニア、アムリタ、ルーク、フィーの四人だ。
「まぁねぇ……、でもねぇ……」
リリィの口調は歯切れが悪い。
予め熱圏下部、地上から二百キロに無人リフトで燃料を上げてあった。
一行はその無人リフトを回収した。
今、リフトが二機ある理由である。
二機のリフトに分乗するため、チームを二つに分ける必要があった。
組分けには色々条件が出てくる。
先ずルークとフィーは同じチームが良かろう。
フィーがルークを守ると言ったからだ。
そして二人にアムリタを『お守り』として付ける。
アムリタは生き残るのだろうし、アムリタの『組』も彼女により生き残るだろう。
アムリタと連携が取りやすいのはエリーかソニアだ。
この時点でリリィはルークとのチーム組みから外れざるを得ない。
エリーはパイロットとしては期待できない。
それよりもエリーはアムリタと同様に生き残ることが確定している。
エリーはもう一つのチームに入り、他のメンバーの『お守り』になるべきだろう。
よって組分けは自然と今のようになる。
実際、リフトを乗り換えるのに、危険が伴う。
エリーとジュニア、それに自分が移動するのが最も適切という判断もある。
リリィはリーダーとしてこの組分けに納得している。
納得してはいるが母親としては息子が心配ではある。
熱圏に入って久しい。
リフトは天垂の糸の東側に張り付いて登っている。
太陽はリフトの進行方向やや西側、すなわち前方下にある。
今は直射日光は当たっていない。
窓は紫外線を遮っているはずだ。
しかしそれでも眩しい。
バックミラーには延々と天垂の糸が続き、その先には青き地球が視界一杯に広がっている。
左右を見るとそこには漆黒の闇に星々が輝いている。
モーターの駆動音、車輪の回転ノイズ。
定期的に発生するジョイントを乗り越える際の小さな衝撃。
色々な音が聞こえるが、全体的には静寂と言える。
リフトは順調に天垂の糸を登る。
「軌道エレベーターと言うから、もっと頑健な建造物だと思っていのだけれど、本当にストラップなのね」
エリーは延々と前方に続く天垂の糸を見ながら呟く。
天垂の糸は建造物ではあるが自重による圧縮力に耐えているわけではない。
寧ろ引力と遠心力の引張力に耐えている。
静止衛星軌道にある空中庭園を中心に、地球側にある天垂の糸は重力により地球に落下しようとする。
逆に最遠端にあるバランサー、通称クラゲ側にある天垂の糸は遠心力により地球から離れていこうとする。
その両者の膨大な力が釣り合ってピンと張った一本の紐として静止しているのだ。
天垂の糸は、そのもの凄い引張力に千年以上の長きに渡り耐えている。
古代文明の偉大なる遺跡だ。
単層カーボンナノチューブ繊維と複層カーボンナノチューブ繊維の極細線。
それをリボン状に編み、超超高分子量ポリエチレンでハニカム構造に中空成形している。
比重ゼロコンマゼロゼロゼロゼロ一以下という超軽量。
そして超強度。
現在では同じものは作れない。
失われた技術である。
多数あるリボンは円環状のジョイントにより互いに触れないように配置されている。
それがどこまでも続く。
リフトは向かい合って回転する車輪が二対でリボンを挟み、摩擦により攀じ登ってゆく。
リボンは電力の供給や回生電力の回収、アースなどの機能別に色分けされている。
リフトは重力や遠心力に逆らう場合はリボンから電力供給を受けて動力とし、逆の場合は回生ブレーキ(モーターの外力による起電力発生による制動を用いたブレーキ)により発生した電流をリボンに返すのだ。
「確かに細いわよね、全体的に。
古代文明は凄いわよね」
リリィはチラリとジュニアの顔を見る。
いつもならばジュニアはこの手の話に食いついてくるはずだ。
しかしジュニアのテンションは低い。
まったくもって凄いね、とだけ返す。
リリィは思い出す。
ジュニアとソニアは今回の準備に、並々ならぬ熱意を注いだ。
新規リフトの建造、空中庭園に持ち上げる資材の調達、作成、その他諸々。
二人とも睡眠時間を削りに削っている。
それでも熱圏下層までは怪異に備えて緊張感した面持ちであった。
熱圏に入ってから既に五時間、何事も無く過ぎ去っている。
初めての宇宙空間、見下ろす果てしなく青い地球。
最初は感動したが、窓の外は同じ風景が続く。
恐れていた怪異も現れなさそうだ。
そろそろ緊張を解いても良いかもしれない。
「もう直ぐ高度八百キロ、熱圏突破だね。
ここからは外気圏、順調と考えて良いのかな?」
ジュニアは少し疲れた顔で言う。
「そうね、危険区間は脱したわね。
ここからは長丁場だから交代して休みましょう。
そう言えば昼食、未だだったわよね?
エリー、ジュニアと席を代わってくれる?」
ジュニアは操縦士席から立ちあがり、後部座席に移動する。
エリーはパックされたトレー形式の宇宙食を三つ取り出し、配る。
ジュニアは、有難う、と言って受け取る。
リリィはインカムのマイクを引き出す。
「こちらリリィ、ナンバーツーリフト、聞こえる?」
リリィの声に呼応して無線機が、ガガガッ、と鳴る。
『こちらアムリタ、聞こえるわ。
ルークもフィーも元気よー。
お昼ご飯も食べ終えましたー。
え? あ、はいはい、二人とも美味しかったそうでーす、どうぞー』
アムリタの明るい声が響く。
こちらはハイテンションだ。
「それは大変結構。
とりあえずは危険区間を抜けたわ、一安心と言ったところね。
空中庭園までは三万六千キロメートルの旅、三日かかるから交代で寝てね。
そっちは二交代で辛いでしょうけれど頑張って、どうぞ」
『はーい、頑張りまーす、どうぞー』
「それと、フィーとルーク、寝る前に歯磨きするのよ、どうぞ」
『聞こえたかしらお二人さん……、了解、だそーでーす。
でも、未だ寝る時間じゃないでしょー、だそーでーす。
ソニー、何かある? ……こちらからは特になにもありません、どうぞー』
「わはは、それじゃね、オーバー」
『はいはい、それでは、オーバー』
賑やかな交信は終わり、再び静けさが戻る。
「さてと、後は任せて……、あらら、もう寝てしまったの? 余程疲れていたのね」
リクライニングさせた後部座席を見て、リリィは笑う。
ジュニアは宇宙食を開けることなく寝息をたてている。
「ほとんど徹夜だったそうだから……、ソニアもだけれど」
エリーは応える。
「わはは、ジャックと同じ匂いがするわね、二人とも。
使命感覚えると寝食忘れて没頭するのよね」
「確かに……」
エリーも笑う。
「さてと、こちらもご飯にしましょう」
リリィは宇宙食のパックを開ける。
冷えてはいるが良い匂いがする。
水牛のシチューに塩茹でされた野菜、固焼きのパンだ。
確かに旨い。
「こんなに美味しいなら、食事が楽しみになるわね」
リリィは笑う。
エリーは首を傾け、どうも、と笑う。




