第五章最終話(七)山の男にして海の男
「鮮やかなオレンジと墨色のモザイク、とっても綺麗だね」
吟遊詩人はサビの髪を見て言う。
お世辞を言っているようには見えない。
吟遊詩人は目深くフードを被っているが、表情は見て取れる。
身長に対して小さな貌。
成人男性と思われるのだが、ふとした折に見せる表情は少女のようだ。
小鹿亭の中央、ピアノ至近のサビたちの席。
テーブルには三段のグラス・タワーが移されている。
頂上は吟遊詩人に配られ、二段目の一つはラビナが飲んでいる。
マロンも小さなグラスでシャンパーニュを飲む。
シェーレが飲んでいるのは消毒用アルコールを薄めたものだ。
「にゃはは、お褒め頂いてどうも有難うなのにゃ」
サビは、にゃー、と笑う。
まんざらでも無さそうだ。
サビとアオはキウイの煮だし汁を飲んでいる。
「先ずは有難う。
凄く素敵なグラス・タワーだったね。
あんなの見たの、初めてだ。
とってもとっても感謝するよ、有難う」
シャンパンが各テーブルに配られた後、吟遊詩人はサビたちの席に来た。
吟遊詩人はアンシュ・ラルと名乗る。
「猫さん、君はとってもお金持ちなんだね。
でもね、ここまでの散財ってどうなのかなぁって正直思うんだ」
サビたちが名乗ったにも関わらずアンシュはサビのことを、猫さん、と呼ぶ。
アンシュの口調はやや小言じみている。
サビが使った金額は裕福な商人の年収の数倍に達する。
お気に入りの吟遊詩人への振舞いとしては確かに常軌を逸している。
ではあるが振舞われた吟遊詩人が指摘することでもない。
「迷惑だったかにゃ?」
サビは余裕のある顔で訊く。
「ははは、だから本当に有難いんだってば。
僕も店も潤って助かるよ。
店長は借金を返して更に店を大きくすることができるし、僕だってね……」
先ずは乾杯だね。
シャンパーニュを頂こうよ」
吟遊詩人はグラスを皆に勧める。
「とっても残念なことに、猫のプリンセスはシャンパンを飲めないのよ。
緑色のお姐さんもね」
ラビナが可笑しそうに説明する。
「え? そうなんだ……、へえぇ?
自分は飲まないのにあれだけのお金を?」
アンシュは、信じられない、という表情を浮かべる。
その顔も美しい。
「お酒の価値は味だけではない、うん知っているよ。
伝統や歴史、受け継がれてきた匠の技、独創性……。
それにバックグラウンド……。
豊作や不作、幸運や悲運、数々のドラマ、それ故の希少価値……。
そしてそれらを総合したステータス……。
そのステータスだけに価値を見出すということだね?
うーん深いなぁ、ただ残念なことに僕にはよく分からないんだよ、お酒の価値って」
吟遊詩人はシャンパングラスを目の高さで揺らして匂いを嗅ぐ。
中の金色の液体がクルクルと回転する。
「私にも分からないのにゃ、お酒の価値なんて」
サビもグラスを目の高さに持ち上げ、揺らす。
中に入っているキウイの根の煮だし汁がクルクルと回る。
「まあ飲めないんだから仕方がないよね」
「まあアンシュにここに来てもらうのが目的だったのにゃ」
サビは、にゃー、と笑う。
アンシュは、ふーん? と訝しそうに首を傾げる。
「うーん、まあそうだね……、確かに普通なら僕はここに来ていないかな。
僕は今まで振舞の席を断り続けているんだよね……」
アンシュは無理やり納得するかのように呟く。
「やっぱりにゃ、来てくれたんだから価値は有ったのにゃ」
サビは胸を張る。
「僕にそこまでの価値は無いんだけれどねー」
「何で振舞の席を断り続けているの?
吟遊詩人としての矜持とか?」
ラビナは訊く。
「あははは、別にそんな矜持は無いよ。
そもそも飲み屋で弾き語りしているのもお金が無いからだし。
実はね、僕にはどうしても受け付けられない女性のタイプがあってね、下手に振舞を受けると席に呼ばれるの断れなくなるだろ?
そういうのって凄く困るんだ。
だから、いっそ全部断ってしまえ、って感じ?」
アンシュは美しい顔で、たはは、と笑う。
「女性恐怖症なんですか?」
マロンが訊く。
「女性恐怖症って……、まあそうかな……」
アンシュは憂いを含んだ表情で遠くを見る。
シェーレとマロンが、ウンウン、というように頷く。
「特定のタイプに対してだけなんだけれどね。
幼少のころのトラウマから脱却できていないんだ」
アンシュは苦笑する。
シェーレが、それはお気の毒に、と頷く。
アンシュは、ここに居る皆なら全然大丈夫、と笑う。
「ああ、確かに今まで飲んできたお酒とは違うね。
あんまり飲んだことなかったけれど、シャンパンって凄く複雑な味なんだね。
花の香りに似ている……、だけじゃなくて瑞々しい果実の香りも……。
バターを付けて焼いたパンのような香ばしさもある」
アンシュはグラスをクルクルと回し、匂いを嗅ぐ。
続いて中の液体を口に含む。
「全体としては辛口。
甘みは控えめ、だけれど蜂蜜のように口当たりが良く甘みと酸味が口の中で弾ける。
不思議な調和。
なるほど、これはお酒好きの人が好きそうなお酒だね。
あはは、ごめん月並みなことしか言えない。
でも、すごく美味しいよ」
そう言って吟遊詩人は笑う。
シェーレとマロンは、はー、とため息をついいて吟遊詩人の貌を見つめる。
ラビナも優雅にグラスを傾ける。
マロンも小さなグラスを、両手で呷る。
二人とも満足そうだ。
「ちょっと教えて欲しいのですが……」
マロンが赤い顔で挙手する。
「え、なになに? 鼠さん」
「マロンです……、アンシュさんの噂は最近になっていきなり出てきたんですよ。
私たちの情報ネットワークは確かに南方にはやや弱いんですが、それでもアンシュさんほどの演奏家の情報が入らないなんてちょっと考えられません。
今までどこに居らしたんですか?」
「え? 僕の演奏ってそんなにハイレベル?」
アンシュは真顔でラビナに訊く。
ラビナは曖昧に頷く。
「っていうか、多分人違いなんじゃないかな?
最近、凄い吟遊詩人が大陸のほうに現れたそうだよ。
僕は聴いたこと無いんだけれど、演奏も歌も抜群なんだって。
しかもフットワークが軽くて色んなところに現れるんだとか。
フットワークが軽すぎて、見つけるのが凄く難しいらしいんだけれどね」
「金髪でリュートを弾く?」
「そうそう、魅惑的な演奏で一度聴くと虜になってしまうほどだとか……。
どれほどのものなのか、一度聴いてみたいね」
アンシュは微笑む。
「私たち聴いたことがあります。
テオという天才吟遊詩人ですよ。
でもアンシュさんもトータルでは引けを取っていませんよ。
いいえ、ある意味テオ以上です」
シェーレは合掌しながらアンシュを称える。
マロンとアオが同意するように激しく首を縦に振る。
「へえ……? 噂どおりなら伝説級の天才かと思ったけれど、意外と大したことないのかな?
って、僕の楽曲のどこがそんなに良いの?」
アンシュはいかにも意外だというように訊く。
シェーレとマロンは、どこがって……ねぇ、と視線を外す。
「それにしてもいきなり現れたような印象をうけるんですよ」
マロンは話を引き戻す。
「ああうん、僕は山から下りてきて、先月からこの島に来ているんだ。
僕はね、冒険家なんだよ。
吟遊詩人をして稼いで、貯まったらまた冒険に出るんだ。
その繰り返し。
今はね、山を攻めているんだ」
アンシュはグラスを空ける。
そして御代わりのグラスを取る。
その態度に遠慮は無い。
ラビナも競うようにグラスを取る。
「山って、まさかヌグラネク山?」
ラビナも赤い顔で訊く。
「ヌグラネク山? えっと違うよ。
ネナイライ山……、僕は山の男なんだよ」
「ええ?」
一同が驚く。
ネナイライ山はバハルナ島の山ではない。
恐らくもっと南方に位置する別の島にある巨大な山だ。
見えるけれど辿り着けない幻の山である。
「どうやって行ったの?」
ラビナは胡散臭そうに訊く。
「ヨットで。
こう見えても僕は海の男でもあるんだ」
アンシュは胸を張る。
麗しい笑顔はとても山の男にも、海の男にも見えない。
「おかげで思いの外早く再チャレンジできそうだ。
本当にありがとうね」
「ええ? それじゃこの店を辞めてネナイライ山に行くんですか?」
シェーレは悲痛な声色で問う。
「辞めるって、元々スポットで入っているだけだから。
まあ、最近はよく声をかけて貰っていて助かっていたんだけれどね」
アンシュはなんでもないことのように言う。
「でもまあ、明日から早速準備を始めるよ。
もうここには来ないかな?」
「そんなぁー」
シェーレとマロン、アオの泣き声が揃う。




