第五章第三話(二)ある日常の風景
「ねえエリフ、なんでそこまで人口が減っちゃったの?」
アウラは訊く。
地球の暦では崩壊歴四百二十年。
恒星船が地球に向けての加速を始めて船内の時間で一年が過ぎている。
時間の進み方は既に地球観測系より遅くなっている。
ここは恒星船の中、無機質な居室。
テーブルが有り、アウラは椅子に座って頬杖をつく。
アウラは八歳、この恒星船の中の唯一の搭乗員だ。
『一番の理由はやっぱり地軸移動なのだけれど、もう一つの大きな理由はエネルギーの枯渇だね』
アウラがエリフと呼ぶ声、教師エリフが応える。
喋りかたは凄くゆっくりだ。
教師エリフとは何者か? 乳母サリーとは? これらの問いに答えるのは難しい。
地球の風の谷にある人工頭脳ハードウェア。
夢幻郷の光の谷にある人工頭脳ハードウェア。
それらが有機的に結合・統合した人工頭脳。
その数ある人格たち。
粗くはそう説明される。
そしてパイパイ・アスラの体の一部であったもので構成する機械群。
パイパイ・アスラが天井や壁、床に残した魔法陣。
恒星船の制御コンピューター。
夢幻郷光の谷に居るシャイガ・メールによる思念の中継。
夢幻郷と魔法陣を繋ぐ媒体としてのアウラ自身。
こういったものが連携して機能し、思考機械とアウラの会話を実現させる。
更には人工知能の地球側の端に、エリフやサリーというリアルな人格が垣間見える。
『地軸移動、地殻変動により残り少なくなった油井やガス田は海に沈み、メタンハイドレートは比較的短い期間で崩壊し気化してしまった。
石炭は採り尽くされ、方々に小さな炭田が残るだけとなってしまったんだよ』
教師エリフはアウラの教師だ。
今は地球の歴史の授業が行われている。
「エネルギーが少なくなると人口も減るの?」
アウラは問う。
『どちらかと言えば減った人口が元に戻らない理由だね。
人口は人体を構成する元素の利用できる範囲内でしか増やすことができない。
必要とされる元素のうち、利用できる量の割合が最も少ないものが人口の上限を決めてしまうんだ。
これはよく樽木に例えられる。
樽は沢山の木片を筒状に組み立てるのだが、いくら他の樽木が長くても、一番短い樽木までしか水は入らないということだね。
『人体を構成する元素は体重にもよるけれど、多い順に酸素65%、炭素18%、水素10%、窒素3%、カルシウム1・5%、リン1%……、これらは六大元素といって人体組成の約98・5%を占めるんだ』
教師エリフは説明する。
「ああそういうこと……、利用できる窒素が少ないから人口が増えないのか……。
窒素を利用できるようにするためにエネルギーが要る……」
アウラは教師エリフの説明を先回りする。
『うんそのとおり。
大気の78%をも占める窒素だけれど、窒素はとても反応性に乏しい元素だからね。
反応性の高い窒素化合物に変換しないと生物は利用できない。
これには何かしらのエネルギーが要るんだよ。
逆に言えば窒素は生命活動に無害な気体だからこれだけの量があっても問題ない。
いくら酸素や二酸化炭素が生命活動に必要だといっても、ある意味猛毒だからね。
これだけのパーセンテージを占めていたら人間は生きていけない。
『太古では自然界の、陸上や海洋に棲息する生物由来の窒素固定を利用していたんだが、これでは大した人口は養えない。
総量は多いのだけれど自分の周りには少ししかないのだからね。
人口が増えていったのは石炭からアンモニアを合成できるようになってからだね。
いわゆる化学肥料が開発されてから人口は爆発的に増えたんだ』
教師エリフの歴史授業は既に脱線している。
「つまり単なる産業革命だけでは然程の人口増加に繋がらない……、ということ?」
アウラは歴史の授業に引き戻す。
『生産性の増大は重要な要素だね。
増えた人口を養う分の経済的成長がなければならない。
同様に人口増加に見合う食糧供給が無ければならないという単純な原理だよ』
「そっかー、やっぱり食べ物だよね?
食べ物が無ければ人口は増えないよね?
ははは、凄く分かりやすい」
アウラは朗らかに笑う。
「ねぇエリフ、食糧問題って窒素固定細菌とクロレラで解決だと思うんだけれど、なんで地球ではそうしないの?」
アウラは朗らかに訊く。
窒素固定細菌とはニトロゲナーゼ(窒素固定作用のある酵素)によって大気中の窒素を還元し、アンモニア態窒素に変換する微生物である。
アウラの乗る恒星船には窒素固定細菌により気体窒素を固定化し、ミドリムシを培養するプラントがある。
ミドリムシの作るデンプンやパラミロン(デンプンに似た性質を持つ物質)は様々な酵素により糖やアミノ酸、調味料、更には食料用蚕蛾の餌となる。
それらの食材がアウラの日々の食事に供されるのだ。
宇宙空間で気体窒素固定を行い、アウラを養っていけるのなら、同じシステムを地球に作れば食糧問題は解決しないか?
なぜそうしないのか? というアウラの問いだ。
少なくとも表向きは。
『うーん? なんでだろうね……。
この恒星船の設備は、君のお父さんが作ったワンメイクの環境だからね。
この恒星船の中でなら資源は潤沢だけれど、地球はここほど恵まれていないんだよ。
地球の全人口を養って、さらに人口を増やすにはまだまだ課題が多いのだと思うよ、きっと』
教師エリフは応える。
自然な回答に聞こえる。
「ふーん? おかあさんがね、地球のお魚は凄く美味しいって、手紙でね。
エリフも地球のお魚、好き?」
アウラは訊く。
『魚? そうだね、魚も美味しいのかな?
でも私は海老や蚕蛾の幼虫のほうが好きだね。
海老は蚕蛾の幼虫と似た味がするんだよ。
君も蚕蛾の幼虫のお肉、好きだろう?』
教師エリフは朗らかに応える。
「うん好きだよ。
でも、あれってタレの味で勝負って感じなんだよね、ハンバーグにしてもボイルにしても。
サリーの料理って美味しいんだけれど、単体で食べても、あんまり味、しないと思うんだよね」
アウラは呟く。
『ははは、サリーに感謝しなくてはね。
実際のところ凡そ食べ物はみんなそんなものだよ。
であるからこそ調味料に工夫するのさ。
サリーの作る食事は美味しいだろう?』
教師エリフの口調は落ち着いていて優しい。
「そうだね……、ねぇエリフ、地球に着いたら魚を食べたいな。
ううん、魚だけでなくて、鶏や豚、羊なんかも食べられるといいな」
アウラは歌うように言う。
『ああそうだね、サリーと一緒に作ってあげるよ。
私もサリーほどではないが料理ができるんだ。
そう言えば、さっきサリーが言っていたんだが今日のご飯は新レシピだそうだよ。
甘辛のバーベキューソースだそうだ。
私も味見してみたいよ』
「え? ああそう言えばいい匂いがしている。
じゃ、そろそろ外すね……。
次はまた明日で良いの?」
アウラの声は少し寂しそうだ。
『私はいつでも良いのだよ。
アウラが好きなときに呼んでくれれば良い』
教師エリフは優しく言う。
「そうだね、でも僕は本物のエリフとお話できるのかって知りたいんだ」
アウラの声に影が差す。
『アウラ、アウラ、確かに私たちは直接話すことができない。
でもね、サリーも私も君のことが大好きなんだよ。
そうだね、君が眠っている間に、また本を送ってあげるよ。
楽しみにしていて』
教師エリフはアウラを気遣うように言う。
「うん、分かった。
楽しみにしているね。
それじゃまた明日」
アウラは別れの言葉を告げる。
うんまた明日、教師エリフも応える。
『勉強、終わり?
それじゃ晩御飯にしましょう』
教師エリフではない別の声が響く。
乳母サリーだ。
部屋の入り口では、くすんだ銀色の筒に手足を生やしたものが自立している。
右手と思しきものには料理用のおたまを持ってニコニコと笑っている。
「ああ、ありがとうサリー。
配膳は自分でできるよ。
自分のことは自分でしなくちゃね」
アウラは立ち上がり、伸びをしながら返す。
『ま、偉いのね。
助かっちゃうわ』
乳母サリーの声が嬉しそうに響く。
ヘルパーロボットが乳母サリーというわけではない。
ヘルパーロボットは恒星船の制御コンピューターとは独立している。
ただ、乳母サリーと協調して稼働し、アウラを世話しているのだ。
「……まあ自分のためなんだけれどね」
アウラは小声で呟く。
『あら、何か言ったかしら?』
乳母サリーは問い返す。
「ううん、なんでもない。
いい匂いだな、早く食べよう」
アウラは部屋を出てゆく。




