第五章第一話(七)飛空機乗りに憧れて
――崩壊歴六百十五年の八月二日午後一時
ハリーはダッカ郊外の飛空場、外縁の草むらで空を見上げる。
青空に白い雲が浮かぶ。
飛空場と言っても広い空き地でしかない。
ハリーは年齢十歳、同年齢の少年の中ではやや小柄だ。
広々とした飛空場の風に黒い髪が揺れる。
ハリーは茶色の目で空を見る。
ハリーは飛空機が好きだ。
だから飛空場に来て飛空機の発着を待つ。
しかし飛空機はいつ来るか分からない。
ここ数日は来ていない。
昨日の夜、飛空機がダッカ近郊を飛行していたらしい。
それを聞きつけ、ダッカの飛空場に来るかもと思い、朝からか待っているのだ。
期待通り飛空機は飛んできたものの、ダッカの上空を通過して近くの山に消えた。
(今日はもう来ないのかな?)
ハリーは草むらにズボンが汚れるのも気にせず腰かける。
季節は夏、特に野外に居ても問題はない。
ハリーは雲が青い空に流れてゆくのを眩しそうに眺める。
とっくに昼食時間は過ぎている。
ハリーは昼ごはんを食べていない。
(飛空機に乗りたい)
ハリーはそう切望する。
ハリーの夢は飛空機乗りになることだ。
この広い空を自在に飛んでみたい。
好きな所に飛んでいきたい。
この時代、飛空機はごく一部の限られた者しか持てない。
持っていたとしても燃料を確保するのは至難だ。
化石燃料はおろか核燃料すら枯渇しかかっている現在、飛空機の燃料は貴重だ。
飛空機を持っているのはよほどの金持ちか、怪しげな連中だけである。
飛空機のオーナーたちは、エンジンや燃料を自作しているという。
そのノウハウは一般には伝わらない。
だから、一般の家庭のものが飛空機乗りになることは容易ではない。
とは言え、ハリーも一般の家庭の子というわけではない。
ハリーはT&P商会のオーナー一族の子弟だ。
ダッカで一番有名な商社の子弟である。
しかも彼の家にも飛空機があると言えばある。
ただ、四百年前に飛んでいたその機体は今は飛べない。
言葉を選べば骨董品、ハリーの母に言わせれば粗大ごみである。
ハリーは祖父に飛空機の修理ができないか強請った。
孫に甘い祖父は、伝手を頼りに修理を依頼した。
ハリーは飛空機の修理に来たのが十代後半の少年たちであったことに驚いた。
ならず者、空賊、そう噂されるグループだ。
彼らは若いが、紛れもなく空の専門家たちだ。
彼らが言うには、機体の修理はできなくもないとのこと。
しかしエンジンの部品の入手は困難で、かつこのタイプのエンジンの燃料を集めるのはもっと無理であるという。
リーダーの少年は赤毛で落ち着いた雰囲気を持っていた。
ハリーはあと数年で、この少年のようになれるか? と考える。
絶対に無理だ、ハリーは少年と自分との格差を思い知る。
以来ハリーは空賊と呼ばれる集団、特にリーダーの赤毛の少年に憧憬の念を抱いている。
(機体はなんとかなる。
問題はエンジンの換装が必要というところなんだよな)
ハリーは考える。
ハリーも最近の飛空機のエンジンに詳しいわけではない。
しかし修理に来た少年たちの飛空機のエンジンは、明らかに形状が違っていた。
多分燃料も構造もまったく違うのだろう。
祖父はエンジンの換装を打診したが、提示される値段は孫の誕生日プレゼントとしては高価すぎた。
(あの古い飛空機を廃棄しないでもらっているだけでも感謝だしね)
ハリーは古い飛空機が場所取りであることを知っている。
ハリーの母などは骨董品の類を早く処分したいようだ。
しかし、その飛空機は創業当時、稼業を支えたものだ。
幸いにも祖父たちは象徴的な思いを飛空機に対して持っていて廃棄には否定的だ。
祖父が飛空機を廃棄する決断を行うことはないだろう。
問題は父親である。
(とうさんはかあさんに抗ってまで飛空機を守るかなぁ?)
ハリーは自分の代になるまで、飛空機が廃棄されないことを祈らずにいられない。
「ああ、お腹減ったな……。
そろそろ帰るかな」
ハリーはお腹を摩りながら独り言ちる。
今から帰ると、昼ご飯にありつく前に母の小言は免れない。
高い代償を覚悟して待っていたのに、手ぶらで帰宅することが悔しい。
ハリーは重い腰を上げる。
そして飛空機場に背を向ける。
――コォォー
近くの山側から音がする。
ハリーは振り返る。
「来た? 来たー!」
ハリーは待ちに待った飛空機が山から飛び立つのを見る。
しかもダッカ目指して飛来するようだ。
鈍色に光る機体、左右の主翼前後に四つのエンジンを持つ。
「恰好良い!」
ハリーは空腹を忘れて、飛空機を凝視する。
飛空機は滑るように最短距離でダッカの飛空場に降りてくる。
ハリーは操縦士席を見る。
「あ! あの赤毛の人だ!」
向かって左側の席にかつて会った空賊のリーダーの少年が座っている。
彼は操縦しているわけではないようだ。
無線機を左手に持ち、なにやら話をしている。
ハリーは飛空機を操縦していると思しき、副操縦士席に座る人物を見る。
(え? 女の子?)
副操縦士席に座る女の子の幼い顔に驚く。
オレンジ色のふわふわした髪にインカムを付け、真剣な表情で着陸操作をしている。
飛空機は危なげなく飛空場に着陸し、動作を止める。
左主翼の上のハッチが開く。
中から栗色の髪をした背の高い少年が出てくる。
少年は暫くどうやって降りるのか周囲を見渡し、意を決したように飛び降りる。
背負い袋が少年の背中で踊る。
続いて銀色の髪の小柄な少女が出てくる。
背の高い少年は手を差し出すが、少女はそれを無視するように胴体にあるステップを使って地面に降りる。
オレンジ色の髪の少女も降りるようだ。
主翼の上から背の高い少年の万歳する手を掴み、エイヤと降りる。
少年は少女の両手を吊り下げるように地面に下す。
少年と少女は両手でハイタッチをして微笑みあう。
(あの女の子が飛空機を操縦していた?)
ハリーは驚く。
女の子の背はハリーより高い。
しかし表情を見るかぎり、明らかに自分と変わらない年齢だ。
ハリーは飛空機に向かって走る。
飛空機のハッチは赤毛の少女に閉められる。
赤毛の少女は十代後半であろうか、そのまま副操縦士席に座る。
ハリーは飛空機に向かって駆けだす。
赤毛の少女はハリーに向かって手を振る。
エンジン音が大きくなり、飛空機は宙に舞う。
ハリーは走るのを止め、飛空機を見上げる。
飛空機は垂直に上昇する。
そして機首を回しながら速度を上げ、加速し、飛び去ってゆく。
ハリーは飛空機の遠ざかる方向を見上げる。




