第五章第一話(四)あなたの記憶
――崩壊歴六百十五年の八月二日午前七時
イリアは離れの土間でしゃがみながら肉の袋を水色の目で観察する。
これで今日、三回目だ。
未だ明けぬ朝四時にイリアは起床し、サンドイッチを作った。
ロケットエンジンを回収しに行くマリアたちに持たせるためだ。
マリア、ヨシュア、リリィの三人は五時前に出発した。
エリフとイリアは飛空機を見送る。
季節は夏、朝は早い。
空は既に白んでいる。
夜通し飛空機の整備をしていたエリフは眠そうだ。
「二時間ほど仮眠させてもらうよ」
そう言って自室に向かうエリフをイリアは目で追う。
イリアは十一歳、年齢の割には背が低く、幼い顔立ちをしている。
細い銀の髪が首筋から背中に流れる。
マリアたちは数時間は戻ってこないだろう。
慌しい時間は過ぎ、イリアは一人、息をつく。
エリフは二時間仮眠すると言った。
つまりはジャックもあと二時間は目覚めない。
しかし時間ができると、イリアは肉の袋が気になってくる。
――私が後見人になっている
――だから私の息子という位置づけかな?
イリアは昨日のエリフの言葉が頭から離れない。
だからイリアは一時間ごとに離れの土間を確認している。
イリアの髪が、肉の袋に垂れ下がる。
(私だっておじいさまの娘だ)
イリアは激しい感情に苛まれる。
イリアはエリフの実の曾孫だ。
イリアは両親を早くに亡くしていて、エリフに引き取られている。
以来、イリアにとってエリフは父であり唯一の家族だ。
父と呼んだことは無いが、父親以外の何物でもない。
そのエリフが、この肉の袋の中にいるジャックを息子だと言った。
イリアの心はかき乱される。
イリアは首を横に振る。
(私はお子様か? 何を嫉妬している、見苦しい)
イリアは自分を叱る。
エリフには多数の実子がかつて居た。
イリアの祖父もその一番若いものの一人だ。
現時点で存命している実子はいないはずである。
ただエリフには多くの弟子が居る。
幼くから弟子入りしている者たちはエリフを父親同様に慕っている。
そのような者たちの何人かは老齢に差し掛かっているものの健在だ。
イリアも会ったことがある。
イリアはそのような年長の弟子たちに嫉妬したことはない。
相手は立派な大人なのだ。
十一歳のイリアとエリフを取り合う相手ではない。
ジャックはマリアのボーイフレンドになったという。
マリアの彼氏であるのなら、十代後半より上、既に大人なのだろう。
そうであれば、ジャックもまたイリアとエリフを取り合う相手ではないはずだ。
イリアはマリアを基準に考える。
マリアたちも幼い頃に親を亡くしている。
マリアたちの凄いところはその後、自力で生き抜いていることだ。
もちろんエリフをはじめ、多くの大人たちの助力は確かに有った。
しかしマリアとヨシュアはエリフの弟子、教え子であっても娘、もしくは息子であったことはおそらく無い。
精神的に自立しているのだ。
あまつさえ幼きリリィの親となり立派に育て上げている。
彼女たちは凄い、凄まじい。
彼女たちは飛空機を使った事業を展開している。
彼女たちを信奉する若者たちを束ね、空賊を結成している。
――別に非合法な集団ではないのよ
マリアは笑ってそう説明する。
イリアにはその真偽は分からない。
しかしマリアたちが南方で一つの勢力となっていることは確かだ。
格が違う。
イリアはそう思う。
マリアの弟であったら、ヨシュアの姉であったら、同じことができるのか?
そのどちらも無理であろう。
ジャックに嫉妬している小さな自分が恥ずかしくなる。
仮にジャックがイリアとエリフを取り合う相手であったとして、それが何だというのだろう。
(自分はおじいさまを独占したいのか?)
イリアは自問する。
答えはもちろんイエスだ。
そしてそんなお子様な自分が嫌になる。
イリアはリリィを思い浮かべる。
二歳も年下なのに小柄なイリアの身長を遥かに超えている。
性格は大人びていて、飄々としている。
マリアにボーイフレンドができたと聞いても、ただマリアのために喜んでいる。
意味が分かっていないだけである可能性もあるが……。
(どんなやつなんだろう?)
イリアは肉袋を見下ろす。
ジャックとは何者か?
エリフ曰く、知人に託された子供であるという。
昨日の夜、イリアは肉の袋に押し込められるジャックを見た。
体の皮膚はケロイドでただれ、顔は死人のように青かった。
仮死状態で搬送されてきたのだ。
イリアは、大きな人だと感じた。
年齢の割に小さなイリアから見て、子供と言うには立派過ぎる体格をしている。
鍛え上げられた肉体、高い身長、端正なマスク。
エリフよりも大きく、エリフよりも逞しい。
空から降ってきたのをマリアが受け止めたのだという。
心肺停止し、仮死状態であったのをヨシュアが心臓マッサージを行い、生命を繋いだ。
(覗いてみようか?)
イリアは誘惑にかられる。
どんなやつなのか知っておくことは重要だ。
相手は無防備だし、他には誰も居ない。
誰にもバレはしない。
躊躇いはある。
知っている、許されないことだ。
しかし……、しかし……、イリアは葛藤する。
誘惑に負け、肉の袋に手を翳す。
イリアの視界は網膜上の視感度、光感度細胞から切り離される。
イリアは視る。
暗い視界。
(ここはどこ?)
室内、無機質な部屋。
ロボット? 黄金色に輝く動く人形。
声が聞こえる。
おじいさまの声?
いや違う、おじいさまに似た人工の声。
筋肉トレーニング、モニタに写る文献、絵、簡素な食事。
(何これ?)
見ていて退屈な光景。
延々と続くつまらなさそうな日常。
(もっと違う光景は無いのかしら?)
イリアは時間を遡る。
遠くに見える星、オレンジ色の眩しい恒星。
よく見ると朱色の大きな星と小さな青い星であることがわかる。
悲しい気持ち。
別れ。
(別れ? 誰との?)
イリアは別れの対象を認識して驚愕する。
肉の壁。
多数の触手を持つ肉の山。
優しい化け物、自分を愛し、自分が愛している異形の化け物。
唯一の家族、唯一の愛する人。
(駄目だ、感化されてしまう)
イリアは感情の渦に引き摺り込まれそうになるのを必死に抵抗する。
(戻れ、戻らなければ危険だ、引き摺りこまれる)
イリアは接続を切る。
意識が暗転し、暗い視界のまま目を開ける。
イリアは目を見開いたまま下を見る。
(はあ、はあ……、何だったのだろう、今のは?)
イリアの視界は戻り、肉の袋の裂け目から覗く顔を見る。
(え?)
イリアは再び驚愕する。
肉の袋の裂け目は内部から切り広げられてゆく。
裂け目から水が溢れだし、少年の白い上半身が肉の袋の裂け目から起き上がる。




