第一章第一話(一)過ぎ去りし日々より
良く晴れた日の夕刻、フォルデンの森でジャックは目を覚ます。
木の上だ。
枝が複雑に交差していてジャックの体重を支えている。
眠っていてもジャックの長身が落ちる心配はない。
大きく伸びをして傍らにアタッシュケースに似た鞄があることを確認する。
ジャックは茶色い柔らかな巻き毛を手で撫で付ける。
それだけで乱れた髪は落ち着きを取り戻す。
面長な壮年の顔は優しげではあるが、弱々しいところはなく、引き締まった印象である。
ジャックは右目に嵌めたモノクル(片眼鏡)のフレームを右手で弄りながら周囲を見渡す。
モノクルのレンズを通しても右目の視力は辛うじて木を認識する程度である。
だから左目を頼る。
その左目で見るかぎり人影どころか動物の姿もない。
ただ鳥だけが木々の間を囀りながら飛び交っている。
未だ五月の初旬で昆虫の季節はもう少し先だ。
木の上で眠っていても然程ジャックを悩ますものは無い。
ここのところジャックは夜間に移動し、昼間に眠る生活を行っている。
ジャックは再度枝の上に寝転がる。
そして、昼間のフォルデンの森付近を確認するべく目を閉じ、右目に嵌めたモノクルのフレームを触る。
ジャックの本来の右目は失われている。
その代わり作り物の眼球を右の眼窩に嵌めている。
ただの作り物ではない。
悪いながらも視力はある。
加えてジャックの右目は低周回軌道を回る十六個の人工衛星とリンクが張られている。
ジャックの右目はそれぞれの人工衛星に設置したカメラからの俯瞰映像も映す。
ジャックは自分が眠りについてから目覚めるまでのフォルデンの森周辺を、記録映像で確認する。
フォルデンの森はナイアス回廊とグリース草原を繋ぐ大きな谷に広がっている。
ジャックが寝ている木はグリース草原側の入り口付近にある。
人工衛星からの俯瞰映像はフォルデンの森に近づく小動物を残らず捉えていた。
しかし今日は森に出入りする人間は居なかったようだ。
ジャックは再度森から離れた川の向こう側に並走する街道を調べる。
街道には多くの人が行き交う。
不審な人間は……いた。
女一人と思われる人影が、街道から川の浅瀬の対岸にある巨木の陰に入ったまま二時間近くも出てこない。
未だ五月、日を避けて夕刻を待つような季節ではない。
夕刻を待つ必要があるのはジャックのように人目を避けて行動する必要がある者かだろう。
もしくは、そのような者を追跡している者か。
女一人というのにも違和感がある。
ジャックは川の浅瀬の対岸にある巨木あたりの映像を今日の早朝まで遡って調べる。
未明、一人の影がフォルデンの森から出てきて、川を渡り巨木に木陰に消える。
そこから先はその男は木陰から出てこない。
「あからさまに怪しいなあ。
川の浅瀬付近には近寄りたくないね」
ジャックは呟く。
日没まで未だ少し時間はある。
ジャックは何度も記録映像を確認し、現在の状況も確認する。
雲がかかり、可視光映像が途切れたところは赤外線映像で確認する。
長閑な一日であったようだ。
追手が居なければ、こんな日はお天道様の下で旅をしたほうが何倍も爽やかだ。
少し早いが草原でも見ながら飯でも食うか、ジャックは春の風を受けるべく伸びをする。
そして、長めのマントを翻しながら地面に飛び降り、フォルデンの森の出口に向かう。
森の出口には柳の木々があり、垂れ下がった枝を涼しげに揺らす。
森の出口の外側、グリースの草原では春の風が生い茂る新緑の草々を撫で、気持ちを癒してくれる。
ジャックは森の奥を振り返り、誰も居ないことを確認した後、森の出口方面に向かうべく歩き出す。
森の外、草原の上に、金髪の少女がいる。
(おや?)
ジャックは我が目を疑う。
少女は草原の風に金色の髪とマントを靡かせて立っている。
少女は寂しそうに自分の肩を抱いている。
少女の碧色の目は虚ろに何かあるべきものを探すがごとく、何も無い草原を見渡している。
ジャックには少女が可憐な表情を歪め、涙を流さずに泣いているように見える。
少女は未だジャックに気付いていない。
ジャックはしばしどうするかを考える。
しかしジャックは好奇心に負ける。
ジャックは森の出口を抜け、少女に近づく。
「……やあ」
ジャックは少女に声をかける。
ジャックに振り返る少女の表情は少し前の儚げで寂しそうなものではない。
意思の強そうな碧色の瞳をまっすぐにジャックの目に向け、ジャックの言葉を待つ。
「君はどこから跳んできたの?」
言葉を選び、ジャックは少女に問う。
愚問と受け取られるかもしれない。
後からここに来たのはジャックのほうだ。
ジャックのほうこそどこから来たのかと問い返されてもおかしくない。
しかし、ジャックは少女がここ数分のうちに、忽然と現れたことを確信している。
ジャックは日中フォルデンの森から出ず、日が沈むのを待っていた。
ジャックの右目は人工衛星軌道上にある彼の『眼』から送られてくる俯瞰カメラ映像も映し出す。
ジャックは今日一日、日中はこの森の出口付近に人が近寄っていないことを確認済みだ。
ジャックにはそれができる。
できるからこそ、彼は一人で幾つかの追跡者から逃れ続けている。
確かに前回の俯瞰カメラ映像から数分ほど森の出口の映像は途切れる。
だからといってその短い間に監視領域外から突然この森の出口に移動できるものでもない。
地面に隠れていたか、空間を跳んでここに現れたか、それとも……。
少女は、はて? というようにジャックから視線を外す。
夕焼けで空は茜色と藍色のグラデーションで染まり、夕焼けに赤く染まる少女の金色の髪を春の風が揺らす。
少女はなんと応えようか、というように首を傾げた後、口を開ける。
「その前に……」
再び少女はジャックの目を見返しながら続けて問う。
「今は、いつ?」
真面目などこまでもまっすぐな碧色の目をジャックに向ける。
夕焼け空の下、時間を尋ねているわけではもちろん無いのだろう。
「崩壊歴六百三十四年の五月八日……、で答になっているかな?」
少女の眼差しを受け止めながらジャックは応える。
「六百三十四年……、五月八日……」
少女は少し俯きながら呟き、そうか、と再び面をあげる。
「ん、ではどこから跳んできたのかといえば、二百九年前の同じ日からということになるわね」
そう言って少女は穏やかにジャックに微笑む。
ジャックは右目のモノクルの縁を押さえながら続けて問う。
「時を跳躍したということ?」
少女は首を右に傾ける。
金髪の髪が右側に流れてゆく。
「んー、跳躍したというのは正しくないかしら。
どちらかと言えば蹴り跳ばされたという感じ?」
そう言って少女は楽しそうに笑う。
ジャックには少女が見た目より大人びて感じる。
「時渡りの魔法……」
ジャックは考える。
二百九という数字の意味を。
少女が単身ここに跳躍してきたということの意味を。
「それが本当ならば……、ここは危ない」
「え?
なんで?」
少女は微笑みを絶やさず問う。
「この場所に留まる必要があるかい?」
少女の問いにジャックは応えず、逆に一応確認するように問う。
「……無いわ……」
少女は少し視線を森の出口の周囲に漂わせた後、自分に言い聞かせるように呟く。
「他に誰かいるのかい?」
ジャックは重ねて問う。
語調がやや鋭くなっている。
「いいえ、残念ながら」
そう応える少女の微笑む顔はやや儀礼的なものに変わっている。
「では逃げるよ。
話は後で」
ジャックは少女の右手を左手で掴む。
少女の手指は細く長く、そして冷たい。
そして少女の顔から一切の表情が消える。