第四章最終話(十八)単翼の闇蛇
「うひゃー」
シメントは宙吊りになりながら徐々にずり下げられている。
下でソニアがリールでテグスを送り出している。
シメントは激しい風に為す術もなく揺られ続けている。
――バサバサバサバサッ、バサバサバサバサッ
今や羽音は風の音よりも大きい。
風は乱流になり、シメントを複雑に揺らす。
「可怪しい! 可怪しい! 絶対に可怪しいよ!」
シメントは乱流に巻かれながら慄く。
――スルスルスルッ
シメントを吊っているテグスは速い速度で降下する。
ソニアがシメントの回収を急いでいるのだろう。
しかしソニアが灯しているはずのヘルメットのランプは見えない。
「何か居るよ! 絶対に鳥じゃない何かが居るよ!」
シメントは乱流によって上下が目まぐるしく入れ替わる中、必死で谷を見ようとする。
激しい羽音、それに合わせるように掻き回される空気。
今シメントを苦しめている乱流は決して自然に発生しているものではない。
シメントの目は何か巨大なものを捉えている。
巨大なものは一時も留まらず激しく動き続ける。
深い霧の中、シメントにはそれが何であるのか分からない。
「助けてー!」
シメントは悲鳴を上げる。
そして上空の霧が白むのを見る。
「レオの落下傘型照明?」
シメントはゆっくりと落ちてくる光を視界に捉える。
それと同時に、空中に大きな眼球が舞うのを見る。
「何なの?」
シメントは乱流を引き起こしていたものの正体を知る。
大きな蛇。
恐ろしく大きな体に大きな一枚の翼を持つ単眼の蛇。
それが巨体をくねらせながら空中を飛んでいる。
「単翼の闇蛇!」
それは祖父の御伽噺話と寸分違わない姿で、しかし暴力的なまでの現実感を伴ってシメントの視界に映し出される。
闇いくらい冥府に棲む、空飛ぶ巨大な魔物。
単翼の闇蛇は背中に生えている一枚の翼を左右交互に振り下げ、長い体をくねらせながら空中をうねるように飛んでいる。
単翼の闇蛇は暫く光を嫌がる素振りを見せていたが、崖に向かって体を反転させる。
「ソニア! 逃げて! 蛇に見つかってしまったよ!」
シメントはシメントを見ながらテグスを送り出しているソニアに向かって叫ぶ。
ソニアは単翼の闇蛇を見ていない。
ただ必死にシメントを降ろすべくリールを操作している。
レオの落下傘型照明、その光は乱流に巻かれながらも崖を照らしている。
アルンがナイフを構えている。
しかしアルンのナイフは単翼の闇蛇に比べてあまりにも小さい。
「ソニア! 俺が灯りを消すから、そこから逃げて!」
シメントはナイフを取り出し、自分の下でテグスを切断する。
ソニアはテグスのテンションを失いリールの操作を止める。
「シメント! 何をする気?」
ソニアは鋭く問いかける。
シメントはソニアの問いには答えず、テグスを手繰り上に登る。
そして崖の斜面に足をかけ、落ちてくる落下傘型照明に向かって跳ねる。
「シメント!」
ソニアは悲痛な声で叫ぶ。
シメントは落下傘にしがみ付き、照明を括っている糸を切る。
照明は自由落下を始め、周囲は再び闇に包まれる。
「ソニア! 逃げて!」
シメントは乱流に巻かれる落下傘にしがみ付きながら叫ぶ。
風は今や強く激しく荒れ狂っている。
巨大な蛇の顔がシメントの至近にある。
「ひ、ひぃいー」
シメントは泣き叫ぶ。
単翼の闇蛇の鋭い牙は落下傘を食い千切る。
シメントは必至に牙を避け、蛇の鱗を掴み、蛇の背中側へと逃れる。
背中では翼が激しく左右に振り動かさる。
蛇の胴体はひと時も留まることなく揺り動かされている。
「死んだ! 死んだ! 俺はもう死んだー」
シメントは鱗にしがみ付きながら叫ぶ。
「シメント!」
上から声が聞こえる。
ソニアの声だ。
シメントは崖を蹴り、単翼の闇蛇に向かって跳ぶソニアの姿を見る。
「ひいぃ! ソニア! な、何やってんの?」
シメントは驚愕する。
ソニアの足は単翼の闇蛇の背中に届く。
そして走り、シメントを抱きかかえる。
「掴まっていて!」
ソニアはシメントを背に回す。
シメントはソニアの首筋にしがみ付く。
ソニアはポケットに入っていたものを握りこむ。
スタンガンだ。
ソニアは単翼の闇蛇の背、頭部のすぐ後ろにスタンガンを押し付ける。
――バチン!
稲光とともに激しい音がする。
――シャアアー!
単翼の闇蛇は激しい呼吸音のような嘶きをあげる。
単翼の闇蛇は下に向かって飛ぶ。
「うわあああー」
シメントは無重力を感じて叫ぶ。
シメントはソニアと共に落ちている。
「ソニア!」
アルンの叫び声が聞こえる。
ソニアは声のするほうに左手を伸ばす。
ソニアの手先がアルンの投げるロープを握る。
体重がかかり、手はロープを滑ってゆく。
右手もロープにかける。
それでも止まらない。
ズルズルズル、ソニアの手袋は摩擦で熱くなる。
ロープの末端の結び目、そこでソニアの落下が止まる。
ソニアはロープの結び目を右手のみで掴んでいる。
「シメント! た、助かった……。
ロープに移れる?」
ソニアは震える声で言う。
シメントは、ひぃ……、と声にならない返事をするが、よろよろとロープに移る。
「やばいかな、もう握力が無いや」
ソニアは小声で呟く。
ソニアは下を見る。
闇しか見えない。
しかし激しい羽音が下から聞こえてくる。
――バサバサバサバサッ、バサバサバサバサッ
「ひいぃ、また来たよ」
シメントはローブからソニアの右手の袖口を引っ張る。
ソニアは上を見る。
遥か上空に光が見える。
最初は小さな光であった。
光は瞬く間に広がり、上空一帯が白銀色に輝きだす。
「え? レオの落下傘?
少し早過ぎるようだけれど……」
ソニアは怪訝に思う。
だが違う。
レオの落下傘型照明とは違う。
崖全体が眩く輝いているように見えるのだ。
「あは、何これ? 綺麗!」
瞬く間に遥か下まで白銀に輝く。
今や闇は無い。
単翼の闇蛇は光を嫌うように下へしたへと遠ざかってゆく。
ソニアは上空からゆっくり何かが降りてくるのを見る。
奇怪な黒い双翼。
人に似た「翼がある何か」がゆっくりと降りてきている。
「翼があるなにか」は異様なものを抱きかかえている。
四肢と体、頭がある。
しかしどんな動物にも似ていない
黒い毛の生えた棒杭のような四肢はすべてサイズが異なる。
それら四肢が捻じれた胴体に繋がっている。
そんな異様な体に、人間の頭がのっている。
人間の頭は異相である。
その異相が、優しく微笑んでいる。
そして棒杭のような右手、付け根に巻かれた布をソニアに向ける。
「ななな、何で? 何でだ?
夜鬼と食屍鬼だ!
ソニア、早く逃げなくちゃ!」
シメントはソニアの右手の袖口を引っ張りながら叫ぶ。
「ソニア、助けにきたよ」
食屍鬼はしゃがれた声でソニアに語りかける。
「あは、ガストから姿が変わっちゃったんだ。
今度の体はとってもユニークね」
ソニアは笑う。
食屍鬼は夜鬼に抱きかかえられたままソニアに両手を伸ばす。
ソニアは左手を伸ばす。
食屍鬼はソニアの左手をゆっくり掴む。
ソニアは下を見る。
眼下には白く輝く光の谷の全景が見える。
 




