第四章最終話(十七)暗闇からの羽音
「地面を突き抜けたら霧の中、って本当に不思議だねえ」
シメントはソニアの背負うバックパックの上で呟く。
ソニアは右手で谷側、下手のザイルを皮手袋で握り、速度を制御しながら懸垂下降をしている。
エイト環で組んだ下降器は谷側のザイルに荷重をかけると落下が止まる。
逆に荷重を抜くと下降する仕組みだ。
早い速度で下降するとザイルとの摩擦で掌を火傷する。
だから動物の皮で作った手袋を嵌めている。
ニーナが昨日作ってくれたのだ。
地下鼠用の小さな手袋も用意してくれている。
「確かにそうね。
魔法の一種よね、これは」
しばらくの無言の後、ソニアは応える。
「ああ、ごめん、集中が必要なのに無駄口利いて」
シメントは謝る。
「へえ、貴方がそんな気を遣うなんて、成長したわね」
ソニアは感心するように言う。
いや別に、とシメントは弁解口調で言う。
「ただ、そうね、集中する必要があるわね。
特に下からの音には注意しなくちゃね。
風が舞っている。
風の音に消されて聞こえにくい」
ソニアが言っている間に、下方、やや右にソニアのぶら下がるザイルの端を掴むアルンが見える。
ソニアは、トーン、トーン、と下降し岩棚に着地する。
ソニアは岩棚に打設してあるアンカーに腰のスリングを接続する。
そしてザイルを外す。
「ザイルを回収する」
アルンは二本のザイルを大きく交互に引く。
ザイルのテンションがなくなる。
ザイルが外れ落下してくる。
アルンはザイルを手繰り寄せ、前後二つに纏める。
「早速最初の難所だ。
シメント、よろしく頼む」
アルンはザイルをアンカーにシングルで結びつけ、続けてテグスをカラビナで接続する。
「うん、分かったよ。
でもさー、十ミリのロープの結び目、やっぱり俺には固すぎて解けないんだよな。
ナイフで切るけどいいか?」
シメントが言う。
「ああ、そうしてくれ。
ここを切れば良い。
切った後はテグスで巻いて処理すれば問題ないだろう」
アルンは応える。
既に下降のための準備を終えている。
「ではザイルを下す」
アルンはザイルを谷下に落としてゆく。
そして、ザイルのテンションを確かめて、懸垂下降する。
アルンとパールの姿は消える。
「降りるに連れて暗くなっていくわね」
ソニアは下ろされたロープを見ながらシメントに言う。
「暗いのは特に問題じゃないんだけれど、霧はいやだな。
ただでさえ目が悪いのにますます見えない」
シメントはぼやく。
ソニアは微笑む。
ソニアは腰にテグスを巻いたリールを固定する。
「下はどう?
何か聞こえる?」
シメントは耳を澄ます。
「風以外で一番聞こえるのはアルンの降りる音だな。
宙吊りのまま下降している。
パールが何か言っているけど聞き取れない。
それ以外は良く分からないや」
シメントは応える。
そして、あ、斜面に着いたみたい、と付け加える。
程なくロープが揺れる。
「じゃ、私、行くわね。
合図するからよろしく」
ソニアはリールを開放し、テグスのラインを送り出しながら懸垂下降する。
シメントは谷を覗き込む。
「なんか変な音が聞こえるんだよな」
シメントは耳を澄ますがよく分からない。
そうしているうちにロープが揺れる。
「おっと、きたきた。
ザイル落とすよ!
よっと……、ここで切る」
シメントは結び目の手前でザイルを切る。
ザイルは下に落ちてゆく。
「で、テグスのカラビナを外してアンカーに潜らせて、カラビナをスリングに接続っと」
シメントは下降の準備を終える。
シメントは、準備完了! と叫び、テグスを引く。
テグスのテンションが緩む。
シメントは二つのテグスを掴みながら斜面を降る。
しかし足場はすぐに無くなり、宙吊りの状態になる。
ソニアがリールからテグスを送り出し、シメントを降ろす手筈だ。
テグスが、ズッ、ズッ、と送り出され、シメントは少しずつ高度を下げる。
「ああ、おっかねえ。
高い所は苦手だなあ。
鳶が来たらお仕舞だなぁ。
やっぱ地下が良いや」
シメントは一人、小声で愚痴る。
下にうっすらと人影が見える。
ソニアだ。
その隣にはアルンが見える。
アルンは大きく体を斜面側に反らし、シメントに手を伸ばす。
シメントは宙吊りになったまま揺らして、アルンの伸ばす手を掴む。
アルンはシメントを抱きかかえ、シメントの腰のベルトにアンカーから伸びるカラビナを接続する。
「シメントを確保した。
テグスを回収してくれ」
アルンはテグスをナイフで切りながら言う。
ソニアは、了解、と言い、リールを巻き上げる。
「テグスが降ってくるから気を付けて」
ソニアは、目を瞑りながら下に耳を澄ませているパールに声をかける。
パールは、あ、はい、と言ってアルンの後ろに隠れる。
「何か聞こえる?」
ソニアは訊く。
「風を切る音が聞こえます。
ただ、かなり距離があるようで良く分かりません」
パールは応える。
「そうそう、何か下で飛んでいる気配がするんだよな。
羽ばたき、速いからそれほど大型の鳥じゃないと思うけれど……、猛禽類だったら俺は恰好の餌だなあ」
シメントは情けない口調でぼやく。
「ふうん?
私には全く聞こえないけれど?」
ソニアはテグスを回収し終わり、谷底に向けて耳を澄ます。
しかし風の音がするのみで地下鼠の姉弟が言う羽ばたきの音は聞こえない。
「そろそろ一回目の照明が降ってくる頃じゃないか?」
アルンは上を見ながら言う。
一同は上を見ながらレオの落下傘型照明を待つ。
上空に眩い光が見える。
「きた」
光はソニアたちがへばり付いている崖からかなりの距離があるようだ。
ソニアたちにぶつからないように谷の中ほどに向け投げ込まれたのであろう。
光は徐々に明るさを増して霧を真っ白に染めあげる。
改めて深い霧の中に居ることを実感させる。
それでも自分たちがへばり付いている崖の状況が鮮明に浮き上がる。
光は一定の速度を持って目の高さを通過し、今度は下に向かってゆっくりと落ちてゆく。
光はどこまでも落ちていくように見える。
「千五百メートルだっけ?」
「確かそう言ってたな」
光は今や然して明るくはない。
一同は暗くなってゆく光を目で追う。
光は掻き消されるように消える。
「あれ? 灯が消えてしまったよ?
早くない? 燃料切れかな?」
ソニアは呟く。
「確かに千五百メートル落下するには早すぎるな。
崖の影に隠れてしまったのかもしれないな」
アルンも怪訝そうに同意する。
照明の灯が明るかっただけに今は返って以前より暗く感じる。
「では行くぞ」
アルンは準備を整え、パールと共に崖を降ってゆく。
一同は順々に崖を降りてゆく。
降りる手順としては問題無いように見える。
しかし徐々に暗くなることがアルンとソニアの準備を遅らせる。
周囲は既にかなり暗い。
――パサ……、パサパサパサッ……、パサバサバサバサッ……
大きな風のノイズの中、微かな、早い羽音が下のほうから聞こえる。
「確かに羽音のようなものが聞こえるわね。
かなり距離があるけれど」
ソニアは宙吊りになっているシメントを回収する。
「変だな、この暗さで飛べる鳥なんて限られている。
梟やミミズクならこんな羽音はしない筈なんだが……。
蝙蝠の類か?」
アルンも下を見ながら言う。
ソニアの胸の眼が見にくそうに下に向けられる。
「うーん、多分ここから五十メートルの距離には何も居ないと思うのだけれど……。
胸の目の視力じゃ良く分からないわね。
そろそろヘッドライトを使おうか?」
「そうだな、次の足場も三十メートル下だ。
この暗さじゃ足場を見つけるのが困難だな」
アルンはヘルメットのランプを灯す。
周囲が白く光り、霧の中にいることが再確認される。
しかしランプを点けても視界は依然として悪く、十メートル程度。
アルンはバックパックからソニアのヘッドライトも取り出す。
ソニアはランプに灯を灯す。




