第四章第三話(十四)鯨(くじら)の歌
――崩壊歴二百二十二年の八月十二日午前九時
「そろそろ目的地だよ。
古きものが封印されているとされる場所はここから四十マイルくらいの海域」
トマスは操縦席から声をかける。
ここは南半球の中緯度地域。
眼下に小島が見える。
見渡すかぎり海で陸地は一切見えない。
この小島は無人島、周辺海域の数少ない島である。
飛空機は島の沿岸、海上をホバリングする。
トマスたちは途中南方の沿岸近くの基地に寄った。
飛空機の燃料を満載にするためだ。
南方の基地からは天垂の糸、軌道エレベーターが見える。
シンもノーマも天垂の糸を間近で見るのは初めてであった。
飛空機は荷室のほぼすべてを燃料タンクに改造してある。
基地で給油しながら、六千マイルは飛べるよ、とトマスは言う。
実際に目的地の無人島まで燃料の三分の一しか消費していない。
「戦いは何時からなんですか?」
ノーマ飛空機の後部座席の窓から双眼鏡で外を眺めながらトマスに訊く。
飛空機は低速で着陸地点を目指す。
強風が飛空機を揺らす。
「あははは、何時からなんだろうね?
ボクシングの試合じゃないから、定刻にゴングが鳴るようなことはないんだろうね。
相手の出方次第なんだと思うよ」
トマスは笑いながら、紐の付いた物体を飛空機下部から海中に落とす。
ソナーのセンサーだ。
そして飛空機を島の海岸沿い、崖の上に停める。
ウミツバメの群れが飛空機を気にすることなく周囲を旋回する。
「凄い! 絶景ですね!
雨柱が二つも見えます!」
ノーマは水平線上にある積乱雲を指さす。
巨大な積乱雲であるのだろうが、距離がありすぎて単なる風景に見える。
「え? 雨柱?
ああ、あの水平線近くの積乱雲のこと?
スーパーセルかな?
たしかに雨の柱のように見えるね。
へー、雨柱っていうんだ」
島の上は強風であるものの快晴。
しかし同時に、遥か遠くに嵐が見える。
積乱雲の下に灰色の水が柱のようにそそり立っている。
積乱雲は時々激しく稲光を放つが、音は聞こえてこない。
距離があるうえに風と波の音が大きすぎるのだ。
飛空機を停めた崖は二十メートル程度の高さがある。
この高さまで波は来ない。
しかし大荒れ荒れた波飛沫が強風に煽られて飛んでくる。
「空中のレーダーと海中のソナーで状況を監視するよ」
トマスは飛空機を降りて機材を広げる。
大きなレーダーとソナーが地面に設置される。
レーダーは画面に線が回転するが特に何も映し出されない。
ソナーも同様である。
トマスは密閉式のヘッドホンのようなものを頭に被る。
「方向は恐らくあっち」
トマスは沖のほうを指さす。
ノーマは言われた方角を双眼鏡で見る。
特に変わったものは見えない。
「食事にしましょうか?
火は使ったらまずいんですよね?」
ノーマはレーション(緊急用非常食)と水とをトマスとシンに配る。
「ああ、ありがとう。
そうだね、ここからはできるだけ目立たないほうが良いかもね」
トマスはレーションを受け取りながら笑う。
レーションは小麦粉の練り物を焼き固めたものだ。
チーズとバターがふんだんに使われていてカロリーがとても高い。
不味くはないが口の中の水分を奪ってゆく。
シンはレーションをポリポリと食べながら海を見る。
ノーマは水筒からコップに水を汲み、飲む。
トマスはヘッドホンのようなものを被り、ソナーの画面を見ている。
「何か聞こえるのですか?」
ノーマは訊いてみる。
「そうだね、水深二十メートルになると海上の音は聞こえなくなる。
代わりに海の中の音が聞こえるんだ。
鯨の鳴き声が聞こえるよ。
このソナーの集音機は三十マイル離れた鯨の歌も聞き取れるんだ」
トマスは自慢するように言う。
「鯨って歌うんですか?」
「うん、仲間との意思伝達の手段だね。
鯨は離れている仲間に歌で伝えるんだ。
歯クジラの仲間なんかが特徴的なんだけどね。
でも大型のヒゲクジラの仲間も音によるコミュニケーションを行うんだって。
雄のザトウクジラは愛の歌を歌うんだよ。
遠く離れた女の子に向かって、君が好きだー、ってね」
トマスは今度はシンを見て笑う。
シンは、まるでトマスのようだな、と茶化す。
「えーと、遠い所を大型のヒゲクジラが回遊しているね。
シロナガスクジラかな?
周波数はかなり低い。
可聴音域から外れている」
トマスはソナーのダイヤルを操作する。
シンはレーションを齧るのをやめる。
「あれ? けっこう近くを大型の魚が泳いでいる?」
トマスは不思議そうにヘッドホンに手を翳す。
「んー……、近いな。
方角はよく分からないけれど、島の反対側?
あれ?
……近付いてきている?」
トマスはソナーのダイヤルを更に回す。
トマスのヘッドホンから、ブオォー、という大きな音が外にも聞こえる。
「うわあぁ」
トマスは慌ててヘッドホンを外す。
「びっくりした、鼓膜が破れるかと思ったよ」
トマスは耳を抑えながら大声で笑う。
その時、島の右側に影が見える。
「鯨だ!」
トマスは遥か右の海、沖に浮かぶ影を指さす。
影は複数見える。
大きな鯨の群れが、島を左に前方の沖に向かって泳ぐのが見える。
「おい、逆側にも居るぞ」
シンは左側の海上に現れた影を指さして言う。
そこにも大きな鯨の群れが、島を右手に前方の沖に向かって泳いでゆく。
速度はいずれもかなり早い。
「進行方向は古きものが封印されている海域だ。
これは偶然じゃないよね?
いよいよ始まるんだ!」
トマスは夢見るような目をしている。
「出発しますか?」
「急ぐことないよ。
ゆっくり食べてから行こう」
トマスは応える。
「では少し早いですけれど、薬を服んでおいてください」
ノーマは薬をトマスに渡す。
トマスは、ありがとう、と言って薬を受け取り、水筒の水で服む。
「かなり離れたところでも鯨の群れが見えるぞ。
向かっている方向は同じだな」
シンは双眼鏡で周囲を見渡しながら言う。
「うん、そうだね。
海面付近で安定した航跡を描く移動体の群れが多数ソナーに捕捉されている。
近くのものは目視で鯨と断定、遠くのものも音響パターンから多分鯨の群れだね。
現在捕捉できているもので七群三十九体。
更に遠方にも居るみたいだ。
円弧上に散開していて円を絞り込むように移動しているのかな。
今日は鯨のパーティがあるんだろうね」
トマスは燥ぐように言う。
「で、やっぱり円の中心は古きものが封印されている海域なのか?」
シンは訊く。
「多分そう。
鯨たちが今の速度を維持すれば凡そ一時間半で一点に集結することになるね。
ただ、上から見て反時計回りに螺旋を描いている。
どこかで絞り込みは止まるかもしれない」
トマスはソナーのモニター画面を指さす。
光点の数は増えてゆき、モニター画面上の弧は濃いものになってゆく。




