第四章第三話(十三)観戦のお誘い
――崩壊歴二百二十二年の八月十一日午前九時
「観戦に行かない?」
トマスはノーマに笑いかける。
トマスの店の一階、バックヤードの中だ。
ノーマが一人で検品作業をしていた所に、トマスがシンを連れだって現れたのだ。
トマスの後ろでシンが腕組をしながら難しい顔をしている。
「観戦ってなんのですか?」
ノーマにはなんのことなのか分からない。
バースモルドの街で行われているようなボクシングの試合のことだろうか?
ダッカにボクシングの興行があるとは聞いたことがない。
いずれにしろノーマはボクシングには興味がない。
「明日の夜、パイとアイスナー先生が殴り込みをかけるから、それを観戦しに行くんだよ」
トマスは嬉しそうに言う。
「はい? 殴り込み?
それって例の南半球の海底に封印されている古きものの退治の話ですか?」
「そうそう。
正確には古きものではなくてその眷属の退治なんだけれど」
トマスは肯定しつつも細かい修正を加える。
ノーマにとって古きものだろうがその眷属だろうがお近づきになりたくない化け物であることに違いはない。
「ごごご、ご遠慮します! 断じて」
ノーマは両手を伸ばし、掌をトマスに向けてブルブルと首を横に振る。
ノーマはダッカに来て、断るときは激しくはっきりと断る必要があることを学んだ。
「往復二日かかるんだよ。
道中、延々と海の上を飛ぶんだ。
俺とトマス、交代で飛空機の操縦をするんだけれど、トマスの体調が悪くなると二人では立ち往生してしまう。
操縦しながら看護はできないから。
済まないが頼まれてくれないか?」
シンが両掌を合わせ、頭を下げる。
「――!」
ノーマは葛藤する。
シンの頼み、そしてそれはトマスのため。
こんなことは初めてだ。
これは応える必要がある。
いや、ノーマとしては命に代えてでも応えるべきだ。
だがしかし、本当に命に代えかねないこのシチュエーションはいかがなものか?
しかもトマスやシンの命まで危ぶい。
ここは思い止まらせる一択であろう、ノーマは瞬時に思考を巡らせる。
「……それって、物凄い戦いになるんですよね?」
「うん、多分。
だから見る価値があると思うよ?」
トマスは涼し気に応える。
「女将さんと一緒に行かないということは、女将さんには内緒なんですよね?」
ノーマは訊く。
パイパイ・アスラが観戦とやらに同意しているのならば、トマスはパイパイ・アスラと同伴しているはず。
シンやノーマが一緒に行く必要は無いはずである。
「おや、なかなか鋭いね」
トマスは頭を掻きながらにこにこと笑う。
「アイスナー先生が、誰かに戦いを見られることを嫌っているらしいんだ。
だからパイは僕を連れていかないと決めたそうだよ」
トマスは軽い口調で言う。
「それも一つの理由なんでしょうけれど、女将さん、戦いになったら旦那さんを守り切れないから旦那さんを連れていかないんじゃないんですか?」
ノーマは強い口調で言い募る。
「なんか今日はものすごく鋭いね」
トマスは頭を掻く。
そして真剣な顔でノーマを見る。
「でもね、ノーマ、よく聞いて。
もしパイとアイスナー先生が負けたら、十三日の星辰の日、巨大地震が起きて百メートル規模の津波がアメイジア大陸の沿岸に押し寄せるんだよ。
推定で地球の人口の五分の一が失われる。
そんなものは誰にも止められない。
例えパイとアイスナー先生をもってしても。
ここに居ても、現場に行っても結果は変わらない。
ノーマ、君は地球の命運を決める戦いを見てみたくはない?」
トマスは、そこまで言ってノーマに笑いかける。
シンが後ろで苦虫を嚙み潰したような表情で立っている。
「僕は見たいんだ。
パイとアイスナー先生が共闘する戦いをこの目で」
トマスはノーマに頭を下げる。
ノーマは当初唖然とした表情であったが、目を瞑り、そして目を見開いてトマスを見る。
ノーマの目には強い光が宿る。
ノーマは後ろに立つシンを見る。
シンは無表情のままノーマを見返す。
「分かりました。
ご一緒させてください。
旦那さんの体調の管理はお任せください」
ノーマはシンの顔を見ながら応える。
「ありがとう、ノーマ、君ならそう言ってくれると思ったよ」
トマスは破顔して言う。
シンは黙ったまま頭を下げる。
「大丈夫、全力で二人を守るよ。
出発は明朝三時。
僕は飛空機の整備をしておくから。
南方沿岸の基地を経由して十二時間のフライトだよ。
君も準備をしてね。
君の割り当ては君の体重を含めて八十キロまででよろしく」
トマスはそう言い残し、立ち去る。
シンとノーマはトマスを見送る。
「ノーマ、済まない」
トマスが消えるのを待ち、シンはノーマに再度頭を下げる。
「シン、頭を上げて。
私が断ると妹さんを連れていくつもりだったのでしょう?」
ノーマは笑いながらシンに言う。
シンは、本当に済まない、と呟く。
「確かに旦那さんの体調管理なら、専属看護師の私が適任よね?
それに、旦那さん、貴方を連れていくんだからそれほど危険と思っているわけでも無いんだと思う」
ノーマは微笑みながら言う。
「それはどうだろう?
トマスは純粋に上さんとエリーが一緒に戦うところを見たいだけだと思うな。
正直、俺も見るべきだと思う。
この戦いが俺たちの未来を賭けるものであるのなら」
シンのノーマを見る目は真剣だ。
「そうね。
私たちは歴史的な事件に立ち会うことになるのね。
帰って、後世に伝えましょう」
ノーマは艶やかに笑う。
シンは驚いた顔でノーマを見る。
「ノーマ、君は素敵だ。
俺と結婚してくれないか?
最初に合ったときから目が離せなくなった。
怯えている君を助けたいと思った。
今は君が俺を勇気づけてくれている。
俺は君に助けられている。
俺は君が好きだ。
俺は君を守る」
シンは求婚する。
「え? え……。
私で……、私なんかで良ければ喜んで……。
シン、私も貴方が好きです」
「俺たちは絶対に生きて戻る」
シンはノーマを抱擁する。
ノーマはシンの腕の中で、うんうん、と頷く。
二人はキスをする。
――ガチャリ
バックヤードのドアが開く。
「ノーマ、いつまで検品しているのさ……」
カレンがバックヤードに入ってくる。
ノーマとシンは慌てて離れる。
「ふーん? ふーん……」
カレンは怪訝そうな顔で二人を交互に見る。
ノーマとシンは別々の方向を見る。
「ま、見なかったことにしてあげましょう。
ごゆっくり」
カレンはそう言い残し、ドアを閉めて出てゆく。
ノーマとシンは視線を合わせ、笑う。
そして再び唇を交わす。




