第四章第三話(九)津波
若い女性に見える。
女の長い髪は太陽の光を受けて白銀色に輝く。
飛空機をホバリング(空中に定位させること)させながら女に近付くべく高度を下げる。
シンは操縦席の横の窓を開ける。
「……るな!」
長い髪の女は大声で飛空機に向かって何か叫んでいるようだ。
しかし飛空機のエンジンの音に覆い隠され、シンたちには良く聞こえない。
シンは飛空機を女に近づけるべく高度を更に下げる。
女は右手を動かしたと思うと、忽然と消える。
――ドンッ
次の瞬間、操縦席の後ろで、大きな音がする。
女が後部座席の後ろ、ペイロード部分に現れたのだ。
女の体重が増えた分、飛空機の高度が下がる。
シンは慌てて飛空機の高度を維持すべく、エンジンの出力を上げる。
そして後ろを振り返る。
そこに居たのは女性としては背の高い、黒いワンピースを着た若い女であった。
女の瞳は灰色がかった水色をしている。
彫は深く鼻筋の通った美しい容貌だ。
何より驚くことに、女の髪は黒灰色の見る角度により暗い灰色から輝く銀色にまで変化する不思議な色をしている。
「津波が来る。
高度を上げて!」
女は警告するように強い口調で言う。
女は海に向かって左手で指し示す。
シンは上昇しながら女が指し示す先を見る。
波立つ水の壁が見える。
水の壁は速い速度で迫り、少し前まで飛空機がホバリングしていた高さを舐めてゆく。
そして激しい水流となって、陸に向かって走る。
「ひぃぃ」
ノーマは叫び声をあげる。
激流はノーマの街、バースモルドを呑みつくす。
すべての建造物に激しくぶつかり、壊してゆく。
建造物は建材の集まりとなり、なお壊れ、水流に乗って更に上の建造物を破壊する。
その様はノーマには地獄絵図のように感じられた。
「うわー、街が!
バースモルドの街が!」
ノーマは腰が抜け、飛空機の床に座りつくす。
黒灰色の髪の女は陸のほうを見る。
「まぁ、ちょうど良い。
逃げ遅れた者が居ないか、探そう。
燃料は後、どれくらい保つ?」
黒灰色の髪の女は操縦席、シンに向かって訊く。
「距離なら六百キロ……、ホバリングなら三時間程度だ……」
辛うじてシンはと応える。
「結構。
バースモルドの街への警告は早い段階で完了している。
人的被害は少ないと思う。
だが、財産が流されるわけだ。
保全しようとして逃げ遅れる者も居るかもしれない。
探そう」
黒灰色の髪の女は指示を出す。
シンは素直に従う。
街は悲惨な有様になっている。
木造の建物は全壊し、押し流されている。
コンクリート作りの建物は一階部分が吹き抜けのように水の流れを通している。
黒灰色の髪の女は右手で空中に文章を綴る。
文章は銀色に輝き、滑るように壊れた街に降りてゆく。
ノーマは自分のかつての職場が水に浸かっているのを見る。
ただし、住人たちが避難している小高い丘には津波は届いていない。
多くの人が丘の上から街の惨状を見ている。
皆無事だ。
ノーマは少し安堵する。
「貴女はどなたですか?」
ノーマは恐るおそる黒灰色の髪の女に問う。
「私はエリーという。
このものの協力者だ」
エリーと名乗る女は肩に張り付いていた人形のようなものを左手で無造作に掴み、ノーマの目の前にぶら下げながら応える。
人形は頭と四肢にあたる部分とを垂れ下げたままぐったりしたように動かない。
まるで小動物の死体のように見える。
ノーマはそれが何であるか知っている。
「お、女将さん?」
ノーマは驚愕する。
エリーがぶら下げているものは、小さくはあるものの間違いなくパイパイ・アスラの部分だ。
いつもノーマを怯えさせている怪異の一部だ。
しかし目の前に木偶人形のようにぶら下げられている姿には威圧感は皆無である。
憐憫すら誘う哀れな恰好にみえる。
「女将さん、いったいどうしたんですか?」
ノーマはエリーに訊く。
「パイの心配は要らない。
パイはアメイジア大陸沿岸の人々を救うべく散り散りなっている。
非常に尊敬できる行動だ。
今は優先順位の低い部分とは意識を繋げていない」
エリーは窓の外を備に凝視しながらノーマに応える。
左手には無造作に掴まれたパイパイ・アスラの部分が揺れる。
パイパイ・アスラを褒めている割に扱いはぞんざいだ。
エリーは窓の外を指さす。
コンクリート作りの建物の屋上に何人かの人間が見える。
そう何人もいるわけではない。
シンはそのようなものを乗せ、小高い丘との間を往復する。
ノーマはバースモルドの街の住人達と合流し、負傷者や行方不明者の確認を行う。
行方不明者は数名。
しかし単に街から出ているだけかもしれない。
負傷者は数十名居る。
エリーは負傷者の治療を行っている。
エリーは医者であるという。
エリーが負傷者の怪我の部分に手を翳すと、大きな黒い瘡蓋のようなものが現れる。
すると痛みが消え、負傷者は元気になる。
三日もあれば負傷は完治するらしい。
重傷者に見えるものも、エリーの治療の後には比較的元気になる。
「ノーマ!」
幼い少年少女がノーマの足元に集う。
ノーマの弟たち、妹たちだ。
「皆どう?
誰かいなくなってない?」
ノーマはきょうだいたちに訊く。
「大丈夫だよ。
皆女将さんの言うことを聞いて、避難していたから。
船は皆沖に出てる。
連結して大きな船になって津波をやり過ごすんだって」
三十代後半と思しき女性、ノーマたちの母ミラが応える。
「おかあさん!」
ノーマはミラに駆け寄り、抱擁する。
ミラはノーマの頭を愛おし気に撫でる。
「おとうさんも無事だよ。
今は被害を調べているんだ」
一番上の妹、カレンが報告する。
他のきょうだいたちも口々にノーマに報告する。
不幸中の幸いにも街の被害規模の割に人的被害は少ないらしい。
飛空機が広場に着陸する。
「あ、ノーマの彼氏が帰ってきたよ。
おーい、お疲れさまー!」
弟のダニーが飛空機に向かって駆けだす。
彼氏っていうわけではないんだけれど、ノーマは口のなかでごもごもと呟く。
ノーマの弟、妹たちはシンの足に群がる。
シンは彼らを蹴とばさないように慎重に足を運びながらノーマの元に来る。
「おかえりなさい。
安否確認できていない人は未だ居るの?」
ノーマは心配そうに訊く。
「いや、無線で街の災害担当と話したんだが、だいたい安否確認はできたそうだ。
行方不明者も死者もゼロだ。
船もうまいこと津波を乗り切れたらしい。
この規模の災害でこれは凄いな」
シンは笑う。
ノーマも自然と笑みがこぼれる。
「良かった」
街が半壊してしまったので、全然良くはないのだが、生きていれば復興できる。
しかも事前の警告があったので、設備や財産を丘の上に退避できている。
船も無事だ。
これ以上、何を望めようか。
「トマスの上さんのおかげだな」
シンはそう言って爽やかに笑う。
ノーマは、そうね、感謝しなくちゃね、と言って笑う。
「それはそうと、俺たちがダッカの街を飛び立ったすぐ後に比較的大きな地震があったそうだ。
ダッカでも被害が出ているらしいぞ」
シンは言う。
「ええ? 店は?
店は無事なの?」
ノーマは心配そうに訊く。
「トマスはカルザスの病院に行っているらしく連絡がとれない。
上さんが倒れたとかで、俺の妹がバギーで送っている。
他の店では陳列棚の中身がすべて床に落ちたらしいな」
「ええ?
どうしよう、すぐ帰らなくちゃ!」
ノーマは動転する。
「おいおい、こっちに居て復興を助けたほうが良いんじゃないか?
あっちはトマスがなんとかすると思うぞ?」
「でも……、でもでも、あそこは私の店だし……。
従業員も心配だし……」
ノーマは心が引き裂かれる。
「お帰りよ。
こっちに必要なのは男手さ。
お前はお前の城を守る必要があるんだろう?」
ミラが優しく言う。
「そうだよ、ノーマ。
それにノーマの稼ぎが無くなったら私たち、どうするのさ」
カレンがドライに言い放つ。
シンは腹を抱えて笑う。
「あははは、それじゃあ小さな弟や妹をダッカに連れて帰ったらどうだ?
ここじゃ、世話が大変だろう?
トマスの所、二階は空き部屋があるんだし、トマスに頼んで疎開したら良い。
トマスも上さんも、人が増えて喜ぶぞ」
シンは笑いながら言う。
「あ、はい! 私も行きます。
ノーマには働いてもらわなくちゃ。
私がこの子たちを世話します」
カレンが手を挙げて言う。
シンはそれが面白かったのか、更に腹を抱えて笑う。
「結構結構。
じゃ、ノーマと一緒に行くやつ、手を挙げて」
シンはおどけて言う。
五人の子供が手を挙げる。
一番背の高い男の子、ダニーを除く全員だ。
「僕はとうさん、かあさんを手伝うよ」
ダニーは言う
「おっと、さすがに男の子だな。
関心かんしん。
頑張ってご両親を手伝うんだぞ。
俺も、人足を集めて戻ってくるから」
シンは朗らかに宣言する。
「ええ?
そんなこと安請け合いして大丈夫なの?」
ノーマは驚く。
「安請け合いじゃないさ。
一週間程度だけれどね。
この光景を見てしまうと何かしなくてはならないと思うな。
大丈夫、俺にはトマスという金蔓がいる。
休業補償はやつに奢ってもらうから大丈夫」
シンの言い草にノーマは笑ってしまう。
「それって、旦那さんが訊いたらさすがにムッとするんじゃない?
あはは、言ってやろう、って言えるわけないか。
皆、内緒だよ!」
ノーマはおどけて言う。
弟、妹たちは全員で人差し指を唇の前に立て、シー、と言うジェスチャをする。
そして皆で笑い転げる。
まるで惨事などなかったかのように。




