第四章第三話(七)スルメと鰯(いわし)
――崩壊歴二百二十二年の六月十二日
「美味しいわね」
ノーマはダッカの街の目抜き通り、テントの店舗で乾物の調理を行っている。
商品の試食用だ。
簡易的なコンロの上で色々な干物を炙り、道行く客にふるまう。
焼いた乾物は旨そうな匂いを漂わせ、客たちの足を止める。
客たちはノーマの差し出す試食品に興味を示し、口にする。
効果は抜群と言える。
ただ、できるそばから半分を、店の女将さん、パイパイ・アスラの部分が食べてしまうことがノーマにストレスを与える。
「こうやって炙っても良いし、茹でて戻しても美味しいわよ。
出汁にしても美味しいし。
もちろんこのままでも酒の肴になるわ」
ノーマはクラッカーの上に炙った雑魚の干物をのせ、客に勧める。
女性客はクラッカーを受け取りながら、同様に手を、にゅー、と伸ばす、厚手の服を着た何かを不思議そうに見る。
「これも美味しいわ。
簡単に作れて、子供も喜びそうね」
女性客は雑魚の干物と鰺節、昆布を買っていく。
「毎度ありがとうございます。
本店は路地裏にあるから、雨の時や大量注文のときはよろしく!」
ノーマは威勢よく女性客に言う。
「さあ、美味しい魚の乾物はいかが!
干し肉ばかりでは、飽きてしまうよぉ。
魚の干物、食卓に変化があって旦那さん、お子さん、喜ぶよぉ」
ノーマは行き交う客に呼びかける。
客は殺到はしないが、途切れもしない。
街の住人は上質な動物蛋白を欲している。
この海から三百キロ離れたダッカの街で、海産物の干物が手に入るのなら、一定以上の商品は確実に売れる。
ノーマは本店で働く人手を雇った。
本店のほうも幾ばくかかの固定客がついている。
ノーマはこの大通りの出店が重要であると考えている。
だから、こっちをメインで見ている。
いや、その実、女将さんから距離を取りたいからこっちに居るのだが、女将さんは複数居る。
本店にも居るし、この出店にも居る。
非常に鬱陶しい。
鬱陶しいが、それは口にすることはできない。
命に関わる。
命を賭して抗議するほどには鬱陶しくない。
少なくとも普通に対応していれば殺されることはない。
女将さんもトマスも、十分にノーマに配慮してくれている。
ダッカでのノーマの稼ぎは、十分にバースモルドのノーマの家族を潤して未だ余る。
家族はノーマの稼ぎをあてにしているのだ。
なんの文句があるものか?
文句はないが、畏れはある。
女将さんは明らかに人間ではない。
バースモルドに現れた、神か、もしくは悪魔か、そういった類のものである。
控えめに言って、人外の化け物である。
幸いなことに人間を食すことのない化け物である。
フィッシュイーター、女将さんは魚を食べる化け物である。
しかしそこを問題視してはいけない。
そこに問題があると思っていることを悟られてはいけない。
ノーマは自分に言い聞かせる。
いかん、仕事に集中しなければ……、ノーマはスルメをハサミで細長く切り、簡易コンロ上の網で炙る。
鰯の干物も炙る。
実際ノーマは仕事に注力し続けた。
それこそ休みなしで働き続けた。
その甲斐もあってこの一か月で順調に客も増えてきている。
店は軌道に乗ったといえる。
市場のテントも今は最初の五倍以上のスペースにしてもらっている。
場所代は五倍以上になっているが、なお利益を上げ続けている。
安い乾物の試食で客を引き、高額な商品を買ってもらうように誘導する。
高額な商品の味と希少性をアピールする。
贈答用にも使えるように綺麗な箱も用意した。
ノーマは頑張った。
そんな自分を褒めてやりたい、ノーマはそう思う。
『ふんふんふふーん』
仕事への集中を削ぐハミングが聞こえる。
「はぁー……、――!」
ノーマは溜息をついてしまう。
そしてそのことを後悔する。
『ノーマ、溜息なんかついてどうしたの?』
当然女将さんが訊いてくる。
「あ、いえ、私が期待するほど売り上げが伸びなくて、どうしたものかと……」
ノーマは取り繕う。
『あら、十分すぎるほどに売り上げていると思っていたけれど。
さすがに目標が高いのね。
感服するわ』
「え? あ、ええ、幸いにも日持ちする商材ばかりだから種類を増やしていこうと思うんですよ。
塩や胡椒、唐辛子、魚醤なんかも既に手配しています。
サーモンやサーディンのオイル漬けもじきに届くはずです。
ウニやイクラの塩漬けなんかも。
届いたら試食してくださいね」
ノーマは顔をひきつらせながらもにこやかに対応する。
本当はウニやイクラは高価であるため、女将さんに食べてもらいたくはない。
『まあ、素敵ね。
待ち遠しいわ。
ノーマ、貴女に来てもらって本当に良かった』
女将さんは嬉しそうに言う。
ノーマも愛想笑いで応える。
『でもね、ノーマ。
トマスが貴女のことを心配していたわ。
働き過ぎじゃないかって。
この一か月、ろくに休みをとっていないでしょう?
市場が休みになる月曜火曜は休むべきだし、一か月にいっぺんくらいは帰省したほうが良いんじゃないかしら?』
女将さんは心配そうに訊く。
「ありがとうございます。
でもバースモルドは遠いですし、店を空けるのも心配だし」
ノーマは遠慮がちに言う。
『大丈夫よー、私が連れて帰ってあげるわ。
ほんの一飛びよ』
女将さんは、ふんふんふふん、と嬉しそうに提案する。
ノーマは、ひぃぃ、という叫びを必死で飲み込む。
「あ、ありがたいお言葉ですが、断じて、ご遠慮させていただきます」
ノーマは辛うじて引きつった顔で固辞する。
『うーん、トマスが言っていたとおりの反応ね。
ならシンの飛空機ではどお?
トマスはシンにノーマの送り迎えを打診していたわ。
シンも、お安い御用、とか言っていたし。
市場が休みになる月曜日の朝に送ってもらって、火曜日の夕方に迎えに来てもらえば?』
「え? シンが?
でも悪いですよね?」
ノーマは表情を和らげながらも固辞しようとする。
『うふふふ、シンにはちゃんとお礼をするから大丈夫よ。
一か月にいっぺんだし。
従業員の福利厚生は重要よ?
貴方が率先して休まないでどうするの?
貴女も貴女が雇った従業員の福利厚生を考えてあげなくちゃだめよ。
じゃ、決まり。
早速今度の月曜日の朝七時ね。
シンには言っておくわ』
女将さんは、ふんふんふふーん、とハミングする。
『それはそうとそのスルメと鰯、そろそろ食べられるんじゃないかしら?』
女将さんはいい匂いで焼きあがった網の上の干物を指さし、催促する。




