第四章第三話(四)バースモルドの怪
――崩壊歴二百二十二年の五月五日
ザックは凪の中、船の上で風を待っている。
ザックは漁師だ。
彼は彼の漁船で独り、漁に出ている。
「さっぱり捕れねぇな」
サックは諦めるように呟く。
陽気が良すぎる。
魚群探知機に映る魚影は遥か下だ。
ザックの網はそこまで届かない。
海鳥もいない。
読むべき風も潮の流れもない。
これではザックの漁師としての腕も見せ場がない。
「お手上げだ」
ここ一週間ほどザックの漁獲は芳しくない。
船の燃料代も賄えていない。
「このままじゃ、お飯食い上げだなぁ」
ザックは海を見つめる。
「魚はいないのかー!
捕りてえよー!」
ザックは海に向かって叫ぶ。
――ザザー
ザックの叫びに呼応するように左舷の海が盛り上がる。
「うわぁぁ!」
ザックは驚き、叫び声をあげる。
海面は二メートルくらいの高さまで盛り上がり、そこには土色の山が出現する。
そこに何か、『人のようなもの』が腰かけている。
『人のようなもの』は全身に布を被っていて、肌は一切見えない。
ザックは山の上に座る『人のようなもの』を見る。
凝視する。
『魚を買ってくれないかしら』
『人のようなもの』はザックに問いかける。
手前の海面が泡立ち、大量の魚が海面を叩く。
海面が泡立つ。
『人のようなもの』は、とん、と飛んでザックの船の上に立つ。
「うわああ……。
か、買うって、俺には金が無いんだ。
おれはむしろ魚を捕って売る漁師なんだよ」
ザックは辛うじてそう返す。
『うふふ。
貴方はこの魚を手に入れる。
そして魚を売ってお金を手に入れる。
私は加工した魚介類が欲しいの』
『人のようなもの』はザックに問いかけるように言う。
ザックは怯えている。
この『人ではない何か』の言うことに耳を貸してよいのだろうか?
しかしザックは理解してもいる。
今ここで、この『人ではない何か』から逃れらる方法など無いことに。
「か、加工した魚介類ってなんだ?」
ザックは話を合わせる。
『干物とか塩漬けとか。
オイル漬けでも良いわ。
色々な種類、たくさん欲しいわね』
その何かは歌うように答える。
「あ、貴女は何者なんだ?」
『私? 私はパイパイ・アスラ。
トマスのお嫁さん。
パイって呼んでね。
そうね、今は乾物屋の女将さんを目指しているの』
その『人ではない何か』は陽気に応える。
「か、乾物屋?
女将?」
ザックは別に乾物屋が何か知っている。
女将が女性の店主であることも知っている。
しかしこの状況、凪の沖、絹布のような海面に浮かぶ漁船の上で、『乾物屋の女将』が何を意味するのかまったく分からない。
『そう、乾物屋の女将さん。
だからその伝手を探しているの。
貴方、良い伝手を知らない?』
「つ、伝手?」
ザックは逡巡する。
ザックは干物を作っている職人を知っている。
ザックは塩漬け工場を知っている。
ザックはオイルサーディン工場も知っている。
だがしかし、それをこのパイパイ・アスラと名乗る『人のようなもの』に告げて良いのだろうか?
ザックは悩む。
自分は自分の街を売り払おうとしているのではないのだろうか? と。
『あ、ひょっとして貴方は職業漁師さんではなかったのかしら?』
「え?」
『趣味で魚を捕りに来ただけ?』
「ええ? いや、俺はプロの漁師だ。
魚が捕れないとお飯食い上げだ」
『じゃ、この魚をお金に替えたら良いんじゃないの?』
「お、俺は対価として何を支払えば良いんだ?」
ザックは怯える。
命か?
魂か?
家族か?
街そのものか?
『んー、人脈?
ずっとじゃないけれどこれから数か月、貴方は漁に出るたびに船に一杯の魚をとるわ。
それを売ってお金を得るでしょう?
そのお金の一部を使って加工した魚を買って、私たちに提供して欲しいの。
ウインウインの関係じゃない?』
ザックはウインウインの意味が一瞬分からなかった。
双方が利益をあげるという一般的な言葉であると気付いたが、何がウインなのか良く分からなかった。
「た、魂を奪われるわけではないのだな?」
『魂なんか要らないわ』
「俺の家族や知人が殺されたり、化け物に変えられたりしないのだな?」
『何を言っているの?
当たり前じゃない』
「バースモルドの街が死の街になったりしないよな?」
『だからウインウインだって。
貴方は、船一杯のお魚を売ってお金持ちになる。
街の人はお魚を加工して、それを売ってお金持ちになる。
私は、貴方から報酬として魚介類の加工品を貰ってそれを商材にする。
ウインウインでしょう?
貴方の取り分は燃料代を除いた分の半分でどう?』
パイパイ・アスラは子供に説き伏せるように優しく言う。
ザックは考える。
今はこの『人のようなもの』に逆らうことはできない。
恐らく、街に帰った後でも逆らうことはできないだろう。
であるのならば、できるだけ穏便に対応するしかない。
「わ、分かった。
貴女の魚を俺は売るよ。
実費を抜いたあがりの半分で魚の加工品を買い戻す。
それを貴女に渡す。
それで良いんだな?」
『うんうんそうそう、それで良いわ。
じゃあ早速、船の生け簀をお魚で一杯にしましょう。
ご希望の魚の種類とかあるのかしら?』
「え? じゃ、鰹とか鰆とか」
『それってどれ?』
大きな網状のものが魚の下にあるようだ。
パイパイ・アスラは魚を船上に流してゆく。
「その、大きいやつが鰹、鰆はそれだ」
ザックは海面に跳ねる比較的大きな魚の幾つかを指さす。
「小さい魚は生け簀に流す。
鰹や鰆は生け締めにして冷凍庫に直行だな。
そうしないと商品価値がなくなる」
ザックは手際よく魚を締めていく。
締めた魚は氷を入れた海水に浸し冷やす。
パイパイ・アスラは小さな魚を生け簀に流していく。
『鱈や鰯はどれ?
美味しかったのだけれど?』
「鱈は旬じゃない。
生け簀の中の小魚は大部分、鰯類だ。
今回捕った魚の殆どが乾物や塩漬けに加工される」
ザックは満載になった生け簀の魚を順に指さしながら魚の名前を唱えていく。
パイパイ・アスラは、ふんふん、と言いながら頷く。
『どう? 満足できる漁獲量かしら?』
パイパイ・アスラは訊く。
「いや、大満足さ。
ここ暫く、浜の連中、暇そうにしていたから喜ぶぞ」
ザックは応える。
『んふ、それは良かったわ。
ウインウインね。
これからよろしく』
パイパイ・アスラは朗らかな口調で言う。
ザックは、あ、ああ、と辛うじて返す。
ザックの目に映るパイパイ・アスラはどこまでも怪しく禍々しかった。




