第四章第一話(十三)この暖かき海に棲む
「海は四百キロ東、大体一時間で着くよ」
飛空機は夜の空を東に向かって飛ぶ。
たまに見える集落の灯りが速い速度で後ろに流れてゆく。
「パイ、今は暗いからよく判らないけれど、お日様の下で見る風景は綺麗なんだ。
きっと気に入ってもらえると思う」
『楽しみだわ、トマス。
でも夜の風景も素敵だわ』
パイパイ・アスラは細長く伸び、トマスの頭の横から風防の先を見る。
「あはは、パイは夜目が利くんだね」
トマスはパイに笑いかける。
「地球はね、ここ数千年で激変してしまったんだ。
二度に渡る地軸の反転、急激な地殻の変動があって、それまで二百億人以上いた人口は一気に十分の一になってしまったんだよ。
その後も寒冷化や温暖化、エネルギーの枯渇で人口を減らし続けたんだ。
二百前ほど前に三度めの地軸の反転があって、今は推定人口約六千万人になってしまった」
トマスは朗らかに説明する。
パイパイ・アスラの部分は後ろから二つの触手を伸ばし、トマスに後ろから抱きつく。
『トマスはそれが寂しいの?』
「え? それはどうかな?
僕が生まれたときには既にその状態だから、別に寂しくはないよ。
ただ、地球人は緩やかな滅びの道を歩んでいるのかも知れない。
そのことは少し寂しくはあるね」
トマスはパイパイ・アスラの伸びた部分を右手でさすりながら応える。
「でもそんなことより、海で暮らすのなら多少の知識があったほうが良いかと思ってね。
地球の赤道は黄道に対して約二十三・三度傾いている。
ここは北半球の中緯度地域なんだ。
「地球の北半球にはアメイジア大陸という唯一の大陸があるんだ。
北極はその大陸のほぼ中央にあるんだよ。
南半球は海半球と言って、赤道付近を除き、殆ど陸地は無いんだ。
南半球の中緯度付近の海域は早い海流が流れていて常に荒れている。
とても危険なんだ。
だから赤道より北側のほうが暮らしやすいと思うよ」
トマスはパイパイ・アスラの触手を摩る。
『トマスは私を心配してくれているの?
ふふふ、大丈夫よ、危険なところには行かないし、魚さんも枯渇させたりしないから。
私、そこまで食いしん坊じゃないのよ』
パイパイ・アスラは嬉しそうに言う。
『うん、トマス。
教えてくれてありがとう、嬉しいわ。
私の知らないこと、貴方の知っていること、もっともっと教えてね。
でもね、トマス。
私の一部は常に貴方の傍らに居るわ。
知りたいことがあればいつでも聞けるし、そんなに問題無いと思うの』
だから、今は新婚旅行を楽しみましょうよ、そうパイパイ・アスラはトマスの耳元で囁く。
「うん、パイ。
そうだね。
新婚旅行を楽しもう。
君との夜間飛行ができて嬉しい。
凄くすごく嬉しいよ」
トマスは笑う。
パイパイ・アスラも笑う。
パイパイ・アスラのインターフェースも笑う。
飛空機は高々度を速い速度で東に飛ぶ。
前方の風景は山間ではなく、平たいものになる。
水平線が見える。
「パイ、海が見えるよ!」
トマスは風防越しに前方を指差す。
『うん、見えるわ。
あれが海、暖かそうな海』
パイパイ・アスラはうっとりした口調で応える。
「パイは赤外線も見えるんだね」
『赤外線って?』
「そうだね、僕らが目で見られる電磁波の波長は四百ナノメートルから七百五十ナノメートルくらいの範囲なんだ。
それより長い波長域を赤外線、それより短い領域のを紫外線と呼んでいて、僕らには見えないんだよ。
だから僕には見ただけでは海の温度は判らない」
『へぇ、そうなの』
「ちなみに僕らが音として聞き取れる波長は五十ヘルツから二万ヘルツくらい。
それ以上やそれ以下は聞こえないんだ」
『ふうん、音や電磁波の範囲って気にしたことがなかったけれど、インターフェースを介して見聞きしているのがそうなのよね。
これからは意識するようにするわ。
トマスの見ている風景、トマスが聴いている音を共感したいから。
風や温度なんかも!』
「うん、パイ、有難う。
君は優しいね。
凄い女神さまなのに僕に歩み寄ってくれる」
トマスは嬉しそうにパイパイ・アスラの伸びた触手の先を撫でる。
パイパイ・アスラは嬉しそうに、ふんふんふふん、とハミングする。
飛空機は海上に出て、高度を下げる。
「海についたよ。
さて、どこに降りようかな」
トマスは着陸地点を探す。
「あそこに降りよう」
トマスは切り立った崖に囲まれた砂浜を見つけ、飛空機を砂浜の上、崖付近に降ろす。
飛空機の投光機が砂浜から波打ち際を照らす。
トマスは副操縦士席の後ろにあるハッチを開けて降りる。
パイパイ・アスラの部分も、ピョン、と飛び降りる。
トマスはインターフェースの手をひき、砂浜に導く。
海は暗い。
穏やかな波が寄せては返す。
海面は飛空機の灯りをうけてキラキラと輝く。
「海だー!」
トマスは靴を脱ぎ、素足になって波打ち際まで走る。
パイパイ・アスラの部分がそれに続く。
トマスは波打ち際に足を踏み入れ、バシャバシャと水を飛ばす。
「水が冷たいよ、パイ!
未だ泳ぐには早いね!」
トマスはパイパイ・アスラに呼びかける。
パイパイ・アスラは海水に身を浸し、海中を窺う。
すぐにパイパイ・アスラは全身を海につけ、見えなくなる。
「パイ!」
トマスはパイを追おうとする。
『私は大丈夫よ、トマス』
背後からパイパイ・アスラのインターフェースがトマスを抱きかかえるようにしてトマスを止める。
『やっぱり素敵な所だわ。
魚さんもたくさんいるし、海水は暖かく、私にとって心地よい。
この海でなら私は何百年だって生きていける』
パイパイ・アスラのインターフェースはトマスを見上げ、微笑む。
海からパイパイ・アスラの部分が戻ってきて、ブルビルブル、と体を振る。
水滴が周囲に飛び散る。
「あはは、それ可愛い。
猫みたいだ」
トマスはパイパイ・アスラに笑う。
『追いついたわ!』
パイパイ・アスラの部分は触手を伸ばし、崖の上を指差す。
崖の上から何か巨大なものが降ってきて、飛空機の投光機の灯りを遮る。
トマスは慌てるが、直ぐにパイパイ・アスラの本体であることに気付く。
「うわ、凄い!
四百キロを移動してきたの?
凄いすごい!」
トマスはパイパイ・アスラの本体に飛びつくように抱きつく。
パイパイ・アスラの本体も触手を伸ばしトマスを抱きとめる。
『トマス。
連れてきてくれてありがとう。
私の大部分は海で暮らすことにするわ。
トマスの街には私の一部分とインターフェースだけを連れていってもらえるかしら?』
パイパイ・アスラは嬉しそうに言う。
「パイ、ごめんよ。
気を遣わせてしまって。
本当なら君の全体が新居に来てくれたらよかったんだけれど」
『うふふ、私、欲張りなの。
街の暮らしにももちろん興味があるし、トマスの傍らにいつも居たい。
トマスと一緒に色んな人に会いたいわ。
だけどこの星の事も知りたいの。
私は同時にそれを楽しむことができるわ』
「パイ!
僕の女神さま!
君は凄い!
君は僕の理想の女性だよ!
僕は君が好きだ!
僕は君を愛している」
『うん、ありがとう、トマス。
貴方は私のたった一つの奇跡。
私は貴方を愛している。
ねぇ、トマス、これだけは分って。
私は全体ではなくても私なの。
今はこの大きさだけれど、かつてはもっと大きかったこともあるし、もっともっと小さかったこともあるの。
身を分けて片方が朽ちることは、私にとってそんなに大したことではないのよ。
だから私の体全体が一つになれないことを気に病まないで。
お願いよ?』
トマスはパイパイ・アスラの話を真剣な顔で聴く。
そして、分ったよ、とパイパイ・アスラに言う。
トマスとパイパイ・アスラは海の砂浜で抱き合う。
日付が変わろうとする頃、パイパイ・アスラの大きな部分は海に入っていく。
「パイ!
気をつけてね!
何かあれば飛空機でかけつけるから!」
トマスはパイパイ・アスラの大きな部分に対して、千切れんばかりに手を振る。
パイパイ・アスラの小さな部分も触手を伸ばし、それを振る。
インターフェースも手を小さく振る。
パイパイ・アスラの大きな体は海に沈み、やがて見えなくなる。
『海の中は楽園よ。
私気に入っちゃった』
パイパイ・アスラは呟く。
インターフェースもトマスを見上げながら、ニコニコと微笑む。
「それじゃ、ダッカの街に行こうか?
新居に案内するよ」
トマスは朗らかにパイパイ・アスラに言う。
パイパイ・アスラは、新居、新居、と嬉しそうに繰り返す。
飛空機は再び夜の空に浮かぶ。
そして西の空に消えてゆく。
第四章 第一話 お嫁に来てくれるよね 了
続 第四章 第二話 古代遺跡の双子の塔




