第三章最終話(十二)空飛ぶ筏(いかだ)
「サルナトに辿り着けないわね」
ソニアは呟く。
向かい風だった風は東からのものに変わり、ラビナたちが乗る筏を西へ西へと押し流してゆく。
ソニアとアルンは棒で漕ぐが、水深は深く棒は湖底に届かない。
二人の棒は単に水を掻くのみで、風に抗ってどうかなる状況ではない。
「どうする?
筏を捨てて泳ぐ?」
ソニアはアルンに尋ねる。
「ムナールは毒の湖だって話だぜ?」
アルンは少しでも風の影響を少なくするために身を屈めている。
「え?
そうなの?
落ちたらお終い?」
ソニアは恐るおそる湖の水を覗き込む。
「そんなに汚い水には見えないけれどね」
水は透明度が高くキラキラと輝いている。
「サルナトの王が湖の水質を改善させているようですよ」
地下鼠の少女、パールがソニアの足元から応える。
「ふうん?
ジュニアが?
……でもまぁ、泳がないほうが良いか」
「一旦、西側湖岸に筏を着けて、風向きが変わるのを待つか湖岸を歩くかだな――」
「――何か来る!」
アルンが意見を述べるのをソニアは空を見上げ、短い言葉で遮る。
空中を飛翔する黒い影が鋭角に軌道を変え、筏に降ってくる。
――トン
軽やかな音とともに少女が筏の中央に現れる。
信じられないことに、少女は自分より遥かに大きな金髪の男性を両手で差し上げるように抱えている。
少女の分量の多いふわふわとした髪には猫か狐を思わせる大きな耳がある。
地球猫の少女だ。
筏にはまったく振動はない。
少女の髪は白地に濃い茶色と鮮やかなオレンジ色の三色に彩られ、そして着ているスモッグにも髪の毛の同じ模様があしらわれている。
「アルンを見つけたにゃ」
少女は、にゃー、と笑う。
「ミケよ」
「本当だ、ラビナの相棒のミケだ」
パールとシメントが囁きあう。
そして二人はラビナの後ろに慌てたように隠れる。
アルンは、ヘークチッ! ヘークチッ! とくしゃみをする。
「ミ、ミケ、久しぶりだな、ヘークチッ!」
「『猫アレルギー』は未だ治っていないのかにゃ?」
アルンのくしゃみを見ながら、ミケは優しい笑顔で言う。
「ざ、残念ながら、ヘークチッ!」
アルンはくしゃみをしながら応える。
「もっとお話したいけれど、私はジュニアの様子を見に行かなければならないのにゃ」
ミケはアルンに向かって言う。
そして空を見上げ、腰を落とす。
「ちょっと待って!
私はソニア、ジュニアの妹よ。
ジュニアを助けに来たの。
私もジュニアの所に連れていってくれない?」
ソニアは去ろうとするミケに向かって慌てて言う。
ミケは腰を折るように軽く身を屈めたまま、ソニアを見て、ふにゃ? と頭を右に傾ける。
ミケに抱えられている金髪の青年、テオは、へえ、ジュニアの妹君ねぇ、と興味深そうに呟く。
「私たち筏に乗ってきたのだけれど、風に流されて東側の湖岸に辿り着けないのよ」
ソニアは状況を説明する。
「ソニア、よろしくにゃ。
ミケというのにゃ。
いいのにゃ、ジュニアの所に連れていってあげるのにゃ」
ミケは目を細めて笑う。
「私だけでなく、アルンと地下鼠の二人も一緒に良いかしら?」
ソニアは、図々しいけれどお願い、とミケに乞う。
「ヘークチッ!
ソニア、悪いけれど俺は極度の猫アレルギーで、ヘークチッ! 地球猫たちに触れることができない」
アルンはくしゃみをしながら言う。
「『猫アレルギー』っていうのは愛なき言葉にゃ。
そんな言葉が世界から消えることを願わずにはいられないのにゃ」
ミケはそう呟きながら、テオを下す。
そして筏の上を爪先で歩く。
まったく音はしない。
ミケの歩は筏の縁を超えて湖面に降りる。
ミケは湖面に立つも沈まない。
――夢幻郷に住む冗談のような亜人たちだ。
――チートな能力を持っていて殆ど万能
ソニアは地球猫に関するアルンの言葉を思い出す。
ミケは振り向き、筏の縁に両手を添える。
そして、ふわりと筏が宙に浮く。
ミケが両手で筏を持ち上げたのだ。
「うわ!
筏のロープにしがみつけ!」
アルンは叫ぶ。
筏は軽く下に向かって沈む。
ソニアは筏のロープを掴む。
パールとシメントはソニアにしがみつく。
テオは手に持った大きな袋を大事そうに抱える。
一拍の後、ブワッ、と筏は空中に向かって加速する。
ソニアたちは加速によって生じたGにより筏に押さえつけられる。
しかしそれほど激しいものではない。
柔らかな、丁寧に方向を整えられた加速だ。
瞬く間に高度は増し、ソニアはムナール地方の全貌を見る。
東の湖岸一帯に広がる白い尖塔や寺院。
街並みが広がる城壁に囲まれた街サルナト。
山並みを削るように広がる背の低い建造物が広がる街並み。
その街並みには人々が居るようだ。
南には谷を縫うように河が続く。
遥か山を越えて海が見える。
「ミケの跳躍は本当にエレガントだ。
美しい」
テオは感嘆したような声で賛美を贈る。
ゆっくりと筏の面がサルナトの街のほうに向けられる。
ラビナは頭上にサルナトの街を見る。
そこには緑色の蜥蜴と二体のゴーレムが見える。
一体のゴーレムは白い大きな寺院に付属する尖塔を登るとしているようだ。
残る一体のゴーレムは緑色の蜥蜴と小競り合いをしているように見える。
しかし緑色の蜥蜴もゴーレムも尋常な大きさではない。
次の瞬間、ブワッ、と筏はサルナトの街に向かって加速する。
筏の面はゆっくりと反転しサルナトの街とは反対の方向を向く。
着地体勢に入ったようだ。
筏は比較的強い、繊細に制御されたGを受けたのち止まる。
「つ、着いたの?」
ソニアは恐るおそる筏の縁に移動し、下を見る。
高さ数十メートルの空中だ。
ソニアは慌てて筏の中央にまで戻る。
「こっちにゃ。
こっちから降りるのにゃ」
ラビナの背中からミケの声がする。
ソニアが振り向くとそこには筏の縁からミケが顔を出している。
ソニアはミケのほうに移動する。
ミケは監視塔の上に立ち、筏を塔の外に差し出すようにして持ち上げている。
「あ、有難う」
ソニアは愛想笑いをしながら、ミケの横に降りる。
ミケは、どういたしましてなのにゃ、と応える。
シメントとパールがソニアにしがみつく。
アルンもヨタヨタと筏を降りて監視塔の上に立つ。
アルンは、ヘークチッ! ヘークチッ! とくしゃみを連発する。
テオはストンと監視塔の屋上の床に飛び降りる。
「これ、未だ要るのにゃ?」
ミケは筏をまるでお盆のように振りながらソニアに訊く。
ソニアは、要らないわ、と応える。
ミケは、それじゃ捨てるにゃ、と言って筏を下に落とす。
ソニアは落ちる筏を目で追う。
筏は何もない石畳の地面に落下し激しい音を発して壊れる。
石畳も破損したように見えるが瞬く間に修復されてゆく。




